鼻から下、そう条件を出されたら引き受けるしかないではないか。なんせ質素に暮らせば二か月分の生活費だ。
9月後半飛んだミュール
この頃ちょっと話題になっているポスターがある。
一番全面に写っているのはミュールだ。ミュールがまるでカメラに向かって襲い掛かるかのように飛んでいる。
その奥にいる本来の被写体はふたり。手前には小柄な女性が、驚いた風に後ろを振り向いていた。といっても、その表情はギリギリ口までしか写っていない。何か声を発したように開いた口、ドレープのきいたふんわりとしたワンピースの裾が、太腿まで舞いそこから伸びた足の片方には靴がない。ミュールが飛ぶ方向に右足が上がっている事から、誤ってミュールを飛ばしてしまったのだろう。よく見れば身体を支えている左足も、少し靴が脱げかけていて。更によく見ると、身体が前方に傾いているように見える。
傾いた先には、アンティーク調のソファ。スーツの男性が座っているようだが、女性の身体にかぶって顔は全くわからない。ただ、立ち上がりかけた身体と伸ばされかけた両腕が、女性を支えようとしているのがわかるだけ。
全体的に緊張感が漲り、次の展開をハラハラと待ってしまいそうなほどの躍動感もある。ただ残念な事に、このポスターは何を宣伝したいのかが全くわからなかった。
ブランド名も何もない、マークすら入っていないポスター。服を宣伝したいのかミュールを宣伝したいのか、はたまた奥に写っている(しかし顔はわからない)男女を宣伝したいのか。そんなポスターが繁華街のビル上巨大広告スペースにでかでかと貼られていたら、気になるもので。
まあ、内容を知っていたとしても気になる人物は、2人ほどいるけれど。
遊星とジャックは、ぽかんと口を開けそのポスターを眺めていた。京介に昼食の驕りという魅惑の餌を突きつけられ、のこのこ街に繰り出したらこれだ、驚かないわけがない。
秋物を意識した茶のケープとオレンジのワンピース。7分袖のそれはかっちりしているように見えるが、裾がトロンプ・ルイユになっているから可愛らしい雰囲気でもある。いや、注目すべきはそこではない。
茶のケープにかかる、橙色の髪。少ししか見えないそれはしかし、物凄く見覚えのあるもので。遊星に至っては、足の時点で『ん?』と思ったくらい見慣れている、しなやかでカモシカのようなそれ。
「…ジャック」
「…ああ」
「…やはりそうか」
「だろうな…きょ〜う〜す〜け〜〜〜〜〜」
幼馴染の生足が白昼に晒され拝み放題…大変複雑な心境になった2人だった。まあ、2人が口を割らなければ問題ない話ではあるけれど。
「本当は、2人でソファーに座ってる構図で、鼻から下の撮影ってことだったんだ…」
「それがさぁ、クゥが蹴躓いて靴が飛んだのに驚いたカメラマンが、シャッター押しちゃって」
「ミスティさんその構図見た瞬間、これで行こう!って言い出して」
「一発撮り、すごくね?」
最初はちゃんとブランドロゴも入る予定だった。しかしあまりの決定的瞬間に馬鹿笑いしたミスティが無駄なものを全て排除した結果、思わぬ反響を呼ぶ事になり。数日後には後付でブランドロゴも入れる予定だが、写真の邪魔にならないように透かしにするらしい。
兎に角、あいも変わらず遊星達に打ち明けることが出来ないクロウを見かねて、ミスティから小遣いをせしめた京介が昼食に招待する事となった。当然待ち合わせはポスターの傍で。
驕りのパスタバイキングは至福だが、遊星とジャックはなんだか釈然としない。
「まあ別に、いいけどな…何故またクロウだ?」
「前から言われてたんだ、姉ちゃんのとこのモデルやれって。でも俺そういうの嫌でさぁ。今回も、断るつもりでクゥと一緒ならとか言ったら…」
「…モデル代で釣られたわけか」
「だって…生徒会とか色々考えてるところに、即金で2か月分の生活費バ〜ン!って積まれてみろ?」
尻尾振るだろ!
力説したクロウはどうやら、恥ずかしいとは思っていても後悔はしていない様子。全体的にとんでもないゴドウィンファミリーに、嫌々とはいえすんなり溶け込んでしまった柔軟性はたいしたものだ。
それが遊星は嬉しいと思う。思うけれど、少し寂しいとも思ってしまうのは我が儘だろうか?
「…クロウ、おかわりとってこないか?」
だから。なんだか少し意地悪をしたくなって、告げた言葉にクロウは疑問も感じないのかすんなり立ち上がる。それでも京介の表情を伺うことは出来なくて、戸惑いがちにジャックを見た。
ジャックは一瞬だけ視線を向けてきて。それから無言で皿を指差す。6種類のパスタが山盛りになっていた皿は、そろそろ空になりそうだ。
全部大盛りをご所望。
小さく頷いた遊星に、ジャックはどこか満足げな雰囲気を漂わせ、京介に向き直った。
ああ、ジャックも少し寂しいと感じていた。だからちょっとだけ、意地悪をした。
共にいた時間が長いからこそわかる要求を、無言のうちに互いに理解した様子。それをわざわざ見せ付けた事。
「クロウすまない」
意地悪をしたと自覚しているからつい謝ってしまった遊星に、クロウはきょとんとした顔。
「…話の途中で割り込んだ」
「別にたいした話してねぇよ?」
何故わざわざそんなこと謝るの
クロウは言って、笑う。本当になんでもない事のように。それがまた遊星の罪悪感を煽り、それを紛らわせるためにひたすらパスタを皿に盛り上げた。クロウが 何そのピラミッド 言って笑うまで。
既にパスタは全種類が絶妙に交じり合い、何がなんだかわからなくなっている。でも食べるのはジャックだからと気にしない事にし、ドリンクコーナーに向かったクロウを追いかけてオレンジジュースを取ってもらって。
「鬼柳には?」
何も持っていかなくていいのか?
なんとなく告げれば、クロウはまたきょとんとした顔。
「だって何も言わねぇから」
「でも…」
「あいつ絶対欲しいものは言うもん」
…絶対欲しいものは言う?
「100%言う、どんな些細な事でも。だから言わないってことは、100%いらないってこと。わかりやすいだろ?」
にっと笑って見せたクロウは、せっせと飲み物を注ぐ。コーヒー、紅茶、オレンジジュース、グレープジュース。飲み物に何も拘りがないクロウは、飲む量が半端じゃない。小さなケーキ2つには多すぎる量、それでも味のない飲み物は好きではないのか水は普段から敬遠するはず。なのに水の入ったグラスもひとつ。
全種類制覇したクロウは遊星を促して席に戻り、京介の前に水のグラスを置いた。
100%いらないとわかっている水。
「飲めよ、お前コーヒー一杯だけだろ」
言い終わったあとはもうクロウの意識の中に京介はなくなったようで、少し嬉しげな顔でケーキに手を伸ばした。京介は一瞬、困ったように眉を落とし。それでもなんでもない事のように、すんなりと水の入ったグラスに手を伸ばす。
その瞬間、遊星は理解した。
今までミスティの願いを無視してきた京介が、条件付でモデルになってもいいと提案した事。
断るつもりでと京介は説明していたけれど、断るつもりなら彼は100%無視するだろう。本当にやりたくないならば。それでも条件がクロウならば、きっとミスティは気付いたはず。
本気でやりたくはないけど、クロウがやると言ったら断れない
京介がクロウの名前を出したとすれば、そういうことだ。どうやら彼もクロウも、それには気付いていないようだけれど。
…ああもう、ああもう、ああもう!!
「この、バカップルが」
搾り出すような声で告げた遊星に、京介とクロウどころかジャックもきょとんとした顔。
その後さんざん お前には言われたくない なんて京介とクロウに言われたけれど、知った事か!!
END
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