さほど大きな街ではない。けれどその街は、商談に使うにはなかなかに適していた。鉄工関係の工場団地がそう離れていない先にあり、反対に行けば飛行場も完備された大きなシティ、少しわき道にそれればリゾートがあり、歓楽街も当然のように隣接している。
何にもなりきれない街、けれどその中途半端さがいいのだろう。純然たるビジネスというほどに肩に力をいれず、かといって欲の見え隠れするもっと突っ込んだ付き合いをするには早い、そんな場所。
ありとあらゆるクラスのホテルが、まるで必然かのように建設されていった。ビジネスマン達は、自分のクラスと要所に合わせてホテルを自由に選べるよう。
そんなホテル街の一角。中の上、これまた中途半端な位置付けをされそうなホテルがある。どちらかというとシティ寄りだろうか。敷地はそこそこ。客室もそこそこ。スウィートの上にVIPがあり、敷地内にプールがある。レストランが3つにバーが2つ。フロントはどうやら慢性的に人が足りず、ドアマンとポーターとベルボーイが兼用。
寧ろその他雑用全般といってくれた方が判りやすい、言っては仲間達と笑いあう。クロウはそんな、ドアマンとポーターとベルボーイを兼用している。
ホテルに入るにあたって、一番最初に出会うホテル従業員といっていいだろう、ドアマンは。勿論ホテルがその必要性を感じ、人を雇っていればの話だが。
とにかくホテルの外に立つ事が多いドアマンは、わりと豪華な制服であることが多い、らしい。らしいというのは、クロウが着ている制服はポーターの一般的なものであって、ドアマン専用というものは存在しないからだ。ただ一応、ホテル側もそれではまずいと思ったのかどうか、コートだけは立派。どっしりと重い厚手のコートは、金ボタンとホテルのロゴである黄金の鷲の刺繍以外は黒。冬は襟に被せるように白銀色のファーがつく。タクシーから降りるとき、恭しくドアを開け、荷物をさりげなく預かる青年がかちっとしたコートを身に纏っているか、見るからにポーターであるかでは矢張りお客様の態度も違うというもので。
ドアマンは、ポーターとベルボーイとは相容れない。ちょっとでも寒かったら(寧ろ少しくらい暑くても)コート着用、そんな鉄則のあるドアマンが本日の仕事と決った日は、朝から晩までドアマンだ。コートを着たまま荷物を運ぶポーターなど失礼極まりないのだから。
だからその日、クロウは朝から晩までドアマンに徹するべく、額にうっすら汗を浮かべながらもお行儀良くコートを纏い、ホテルマン的な笑みでもってランチに訪れるご婦人達をホテル内に招きいれていた。
クロウ自身は“ホテルマン的な笑み”がひどく下手で、親近感が沸きすぎると同僚に苦笑交じりのお小言を言われたりする。けれどそれ以外は文句のつけようがないドアマン(今現在クロウはドアマンなので)なのだ。子供が飛び込んでくる時などは、突拍子もない行動を見込んで少し長めにドアを開け続ける、という真っ当な配慮が出来るくらいには。
ランチタイムももうすぐ終わる。ポーター(もしくはベルボーイ)の仕事が忙しくなるのは夕方から。宿泊客が増え始める時間、その前に交代で休憩をとる。ドアマンはランチタイムの間は立っていなければならないから、休憩は一番最後。あと30分ほどで休憩か、クロウがそんな事をぼんやり考えていた時に、ポーチの前でタクシーが一台止まった。
途端、うっすら汗ばんでいたクロウの肌にぞわりと鳥肌がたつ。
最高級とは言い難いこのホテルにも、一応VIPルームが存在するのだから、それ相応の(金持ちの)宿泊客はいる。VIPが宿泊するという情報は事前に知らされるものだが、今タクシーから降りた男にのみ、心構えは用意されていなかった。
いつも事前予約する事なく、突然泊まりに来る常連。フロントからポーター、ウェイトレスからバーテンまで従業員は全て顔を覚えていて、何かあったときには最善のサービスをご提供するよう上からいわれている男。何の仕事をしているのか、泊まるときは必ず1週間以上の連泊で、異常といえるほど荷物の多い、ポーター泣かせの客。
けれど今の所、泣かせられているのはクロウのみ。何故か図ったかのように、クロウの手が空いている時にフロントに向かう確立が高い(なんてものではない、実際100%だ)その男の前に慌てて飛出し、慌てている事を悟られぬようこっそり息を吐いた。
「いらっしゃいませ」
なるべく落ち着いた声を出すように心がけながらドアを大きく開く。ホテルマンになりきれていない笑みを浮かべるクロウに、一瞬だけちろりと向けられた視線は、直ぐに逸らされて。音もなくフロントに向かった男の背を見送ってから、もう一度息を吐いた。今度のそれは、ため息だ。
タクシーの運転手が荷台を開けている。その中を確認するでもなく一番大きなカートを手にしたクロウは、巨大なトランク2つと手提げ鞄1つを積み上げた。毎度の事ながら、何をこんなに運ぶものがあるのだと言いたくなる。
カートを押しそのままフロントへ向かえば、あっさり手続きを終えた男がさっさとエレベーターホールに向かっていた。キーは持っていない。このホテルにおいて、彼にとってドアは開けるものではない、開けられるものだ。最低でも背後に従業員を従えて動く時には。
フロント脇に控えていたポーター仲間が、カードキーを手に近づいてくる。ドアマンはこのままポーターに荷物を引き渡し、またドアの前に戻らなければならない。
しかし実際にクロウがそのポーターに渡したのは、カートではなく素早く脱いだコートだった。
行き成り肩にコートを引っ掛けられ、手からカードキーを奪われた同僚は目を丸くしている。そんな相手にクロウはこっそり笑うと、耳元で囁いた。
「悪い、俺今日少し早めに休憩欲しいんだ」
暗黙の了解。荷物を届け終わったら休憩に入る。
「チップまるまるお前に渡すから」
こそこそとそれだけを告げ、そ知らぬ顔でフロントを横切る。支配人が出ていたけれど、一々誰が本日のドアマンかまで覚えているような人ではない。そのままエレベーターホールに向かえば、丁度エレベーターが降りてきた。勿論クロウは真っ先にボタンを押し、男がエレベーターに乗り込むのを見届ける。その後直ぐに荷物を運び入れ、カードを確認する事なくプレートの一番下の差込口に差し込んだ。
見なくてもわかる、VIPルームのカードキー。エレベーターはそのカードキーがなければ、最上階まで運んでくれないのだ、面倒な事に。
音もなく閉まったドアと、するする昇り始めたエレベーター。ゆとりある空間のはずが、少しだけ息苦しいと感じるのは大量の荷物からくる圧迫感か、それとも背後にいるVIPか。なんて、考えるまでもない答えに、クロウはまたひとつ、ため息をついた。
クロウだけが知っている事実。
カートに乗っている巨大なトランク2つは、見た目ほど重くない。
「…今回は何を入れてきたんですかね、VIP様は」
監視カメラに口元が映らないよう(読唇術の心得がある警備員などいないので別に映っても構わないのだけれど、気分的な問題で)プレートを見詰めたまま少し俯きながら問う。最早敬語ですらない問いかけに、男は欠伸をかみ殺すかのように口元に手を当てた。クロウはそれが見えなかったけれど、律儀に監視カメラを気にしての行動だろう。ノリがいいのだ、実際の所。
「俺今回すげぇぞ、コンビニのスナック菓子コーナー右から左全部、全店舗分やってやった」
このホテルの従業員の、一体誰が知っているというのだろう。超VIPの男が持つトランクの中身が、コンビニ菓子制覇だなんて。そして誰が知っているだろう、女性従業員の中で絶大な人気を保ち続けているこの金持ちのVIPが、黙っていれば冷たいとすら感じるほどの美貌を持つこの男が、わりと庶民でわりとどうでもいい事が好きで恋人の事が大好き、だなんて。
ゲストルームも含めて(何故客室にゲストルームがいるのか、クロウはその必要性がわからない)4部屋と広い浴室が2つ、展望ラウンジと同じ広さを誇るそのVIPルームに入り、鬼柳京介がまずやる事はフロントに電話をかけること。
「荷物の整理にポーター使うから」
たった一言。勿論迅速に対応した支配人に否はない。
何故鬼柳京介がこんな面倒な事をするかといえば、VIPルームだけに驚くほど警備が厳重だからだ。それはもう、同行したポーターが部屋を出てエレベーターに無事乗り込むまで、確り監視され時間を計られているくらいには。
エレベーターまで部屋を出て5歩のその無駄空間に、何故監視カメラが必要なのかさっぱりわからない。多分不正に部屋に入り込もうとする奴は、エレベーターからなど滅多に来ないだろうに、というのがクロウと鬼柳双方合意した意見だが、システムはシステム。一応クロウの職場で、同性のVIPと付き合っていますなんて知れたらまずいから、鬼柳は毎回クロウが部屋に留まるための理由をつける。
最初から別のホテルに泊まれば、こんな気苦労もないだろう…なんて考えは鬼柳にはないから、クロウもまたそれに付き合う形で毎回こそこそやっていた。今ではクロウ、女装なんてお手の物だった。
今荷物の整理をする事になっているクロウは、広いリビングにトランクの中身をぶちまけて笑い転げている。本当にぎっしり詰まったスナック菓子と、もうひとつのトランクには大量の枕。運ぶのがクロウだからと、鬼柳は毎回軽いものしか詰めてこない。本来ならば必要な荷物は、手提げ鞄ひとつで足りる男だ。
「なんでまた、スナック菓子ばかり!お前甘いもの嫌いじゃないよな?」
「軽くて嵩張る、最高じゃねぇ?あ、でも飛行機の中で爆発しないか、ちょっと心配だった」
新事実発覚、鬼柳京介は飛行機でここまで通っている、多分自家用機。
クロウは鬼柳の事を知らない。聞けばきっと教えてくれる、けれどあえて聞かない。知っていることといえば、自分の事を成金といい、近所にコンビニがなく、ファーストフード店もないためほとんど食べたことがない。大体それだけ。あとはVIPという事実だけ。
もっと長く付き合えば、最後には全てを知る事になるかもしれない。それが嫌だというわけでもなく、知ってしまったなら仕方ないとも思うけれど。
知らない方が楽しめるし、少しだけ気が楽
そんな風に思う。たとえ成金と自分で言ってしまおうが、VIPはVIPなのだから。ドアマン兼ポーター兼ベルボーイとはわけが違う。
ぷちりと、その時ホックが外された。
少しだけ、ほんの少しだけ気を飛ばしていたクロウの、きっちりとした立て襟のホック。縁に黄色(金と言い張りたいらしいが無理がある)のラインが入った、白いポーター服。汚れが目立つからクロウはあまり好きではないそれを、鬼柳が楽しげな顔で脱がしている。
「…俺まだ仕事」
「最後まではしない、ちょっと触るだけ」
そういう問題じゃない…
言ってしまえればいいけれど、クロウも久しぶりなのだから強く出られない。
猶予は大体30分。それ以上かかると、最悪もう一度、今度はクロウがフロントに電話をかけ言い訳をしなければならない。面倒だから鬼柳も、それ以上はいつも引き止めなかった。どうせ街に滞在する間はずっと、仕事の時以外クロウを傍に置くのだから。
「チップ、あげなきゃな」
それはもう、心底楽しげ。胸ポケットに紙幣を滑り込ませながらのキスは、恐ろしい事に出会った頃から変らぬ習慣だ。
初対面でVIPルーム、当時ガチガチに緊張していたクロウにそんな事をして、よくもまあ恋人になってくれたものだと、鬼柳はクロウの寛大さに感謝している。
純然たる一目惚れ。この際金に目が眩んでのお付き合いでもいいや、くらいの気持ちだった。それだけ形振り構わなかった当時の鬼柳は、呆然としたまま部屋から出たクロウが直に引き返してきて、貰いすぎです、と一言紙幣(最高金額だ)を突っ返され軽く落ち込んだ。その後、キス代も含めてと何食わぬ顔で言えば、金額が発生するなら全財産ください、つらっと言われて更に落ち込む。
妥当なチップを渡せずして何がVIPだ。その時点で内心馬鹿にされても仕方のない状況だった。
それでも、どうしても。
どうしても、鬼柳は諦められない。
木枯らしが吹く寒い夕べ、商談で街を訪れた鬼柳がタクシーの中から見かけたクロウは、まるでファーに埋もれるように首を竦め。それでも笑みを浮かべていた。オレンジの髪が全て立っているという派手な外見のわりには慎ましやかな笑み、それはホテルマン特有の完璧なものではなく。まるで家に帰って来たのだと、そう思わせるような種類のもの。
待っている人がいると、そう錯覚させてくれるような。
自分も向けられたくて、けれどどうしていいかわからずに。急遽宿泊先を変えホテルに乗り込めば、ドアマンだと思っていたクロウがポーターとして荷物を運んでくれて。
人手が足りないのだと思った。たまたま奇跡的に従業員が足りず、たまたまクロウがポーターをしていたのだと。まさかの兼用まで頭が回らず、目の前の奇跡に飛びついた自分は今となっては滑稽としか言えなかった。
けれどあまりの動揺に、切々と自分の気持ちを語った事が功を生したのだから、今でもクロウの寛大さには頭が上がらない。受け入れられていなければ、今頃自分はこのホテルに泊まる事が適わないほど不名誉な噂を流されていた事だろう。クロウが寛大であると同時に、かなり徹底的な性格である事はもう既に知っているから。
それはもう、散々嫌がったというのにいざやるとなったら、徹底的に女装してしまうほどには。まさかクロウがビューラーをマスターするとは、思ってもみなかった。
やるなら完璧に。
クロウが住むアパートメントの箪笥には、きっちり女物の服が揃えてある。レディに毎回同じ服なんて着せたくないと、ホテルに宿泊する数日前に鬼柳から必ず送られてくる服は、いい加減置く場所がないので止めて欲しい。けれど事前連絡が全くない鬼柳の、唯一動向を知る手立てだからなんとも言えない。思いつきで行動する恋人を持つと苦労する。
兎に角きっちりと。甘くなりすぎない程度に柔らかな色合いのシュフォンスカートは、ポーターで鍛えた足も、ギリギリジムで頑張りすぎちゃったくらいの筋肉で誤魔化してくれている。腰は細い(クロウにとってはコンプレックスだ)から問題ない。胸はまな板ですが何か、くらいの心意気で何も入れない。肩幅だけはどうにもならないから、送られてくる服も襟元はいつもごちゃごちゃしている。赤毛の派手な鬘に派手なメイク、それだけで胸を張っていればわりとばれないものだ。
一番の難関、ドアマン(同僚)と対面するときだけは危険なので、一応サングラス。でもエレベーターホールまで来てしまえばさっさと外す。監視カメラの映像は鮮明ではないし、赤毛のインパクトに比べればサングラスの有無など関係ない。
ビクビクするな、胸を張れ。もし女装に関しての助言を請われたら、クロウは間違いなくそう言いきるだろう。
携帯にメールを入れて数分。待ち構えていたかのようにエレベーターから降りてきた鬼柳は、クロウを見るなり苦笑した。
「今日も見事に扇状の睫だな」
「下睫も褒めろ、20分かかった」
「おまえもう、メイクで食っていけるわ」
「1時間半かけたメイクを一瞬で落とす快感があるからやっていけるんだ、メイクした瞬間石鹸水ぶっかけるアーティストとか、どうなの」
クロウは別に、女装に快感を見出しているわけではない。ただ徹底的なだけ。部屋に入ってしまえばすぐ落とされるメイクにすら、通常洗顔とアイメイク用洗顔をきっちり使い分ける。何がクロウをそこまでさせるかといえば、意地しかないけれど。
VIPルームに入った瞬間から、女装を望まれていないのだから、維持させる努力よりも落とす努力の方が優先される。完璧に、徹底的に。
鬼柳京介という名のVIPが惚れたのは、間違いなくドアマンであるクロウ、なのだから。
これをコスプレというのだろうか?
ぎゅうぎゅうと抱きつかれながら、クロウはぼんやりと考える。
白に黄色いラインが入った制服。黒の胸元に鷲の刺繍が施された金ボタンのコート。クロウにとっては仕事着で、女装の方がコスプレにあたるはず。けれど鬼柳はさほどクロウの女装には興味がなく、メイクを落とすんなり渡されるのはいつも仕事着。何故鬼柳が持っているかは、聞いてはいけない。
わざわざ着替えさせられるのだから、一応これもコスプレなのだろうか。真夏でも登場するコートのために、エアコンが16度設定になる、それくらい鬼柳はコート姿のクロウが好きだ。真夏は流石に長時間の着用は強いないけれど。
秋も深まった今ですら、エアコンで冷やされる室内。鬼柳は寒さに強いのか、それとも抱きついていれば暖かいのか、冷気は気にしていない様子。
「クロウ、クロウ、ドア開けてくれないの?」
それどころか、少々頭が沸いている様子。でもそれは残念ながら、何時もの事。
よくこれに毎回付き合っているなとも思うけれど。VIP様はこのホテルでは特別だ、指示される要求は何でも適えなければならない。それに、クロウはそれを叶えたいと思っている。残念な事に。
例え苦笑を浮かべていようと、しぶしぶ腕の中から抜け出そうと。寝室のドアを開けたときは完璧に。ホテルマンになりきれない笑みを浮かべ、いつも恭しく告げるのだ。
「いらっしゃいませ、お客様」
さてこれは、一体何プレイというのやら。
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