「おい、鬼柳。起きろよ」
「……ん……」
重い瞼をゆっくりと開きながら、京介は必死で頭を巡らせ声の主を探した。頬をぺちぺちと叩く手の平の暖かさ、腹のあたりに伸しかかった重み、何より聞こえた声も、よく知っている。
本来であればここにいないはずの青年の声。クロウ・ホーガンは、京介の同性の恋人だった。
季節の変わり目、過労と風邪で倒れて、3日目。相変わらず下がらない熱にうなされてながらの思考は当てにはならないだろうと思ってはいたが、唇だけで名を呼びながら、薄く目を開け。今度こそ、声を上げて呼んでみようとして。
「く、ろ……」
そこまで、だった。
ナースコール960
にんまりと笑うその顔は、確かに鬼柳のよく知る顔だ。額とメモとと頬にマーカー、青空と雨雲を混ぜたような瞳は、間違いなくクロウのものだ。それでも京介を戸惑わせる理由はひとつ、彼が着てている服だ。
淡いピンク色の所謂ナース服。スカート部分が極端に短いそれは明らかに本物のナース服とは異なるもので、前部分がたった3つのボタンで留めてある程度の簡単な作りだった。
視線を下に下げて行けば、ベッドについた膝上までが透け感のある素材の白いソックスで覆われている。何が起こっているのか。幻覚を見るほど熱が出ているのかと、京介はただ唖然とクロウを見上げていた。
「……本当に元気ねえな」
「え、あ……あぁ、本物……か?」
「ったりめーだろ。こんな顔の奴が二人いてたまるかよ」
クロウは少しだけ前に出た。腹から胸元へ重みが近づいて、京介は自然と息を詰める。すると、クロウは顔を歪めて更に身を乗り出した。
その体重移動で京介の腹より少し上、そこに乗った明らかな熱の感触に、今度は生唾を飲む。発熱した体に布越しに触れる熱の正体は歴然としていた。さほど硬さを持っていなくても、知ってしまっていれば脳裏に浮かぶ、その熱の発症から解放までの、始終。
「なあ、そんな具合悪ぃのか」
「え、あ…」
旅立っていた思考を呼びもどされ、真っ赤になった京介の両頬を包んだクロウはますます顔を歪める。心底不安気な顔をしている彼に笑いかけて大丈夫だと言ってやりたい気持ちはあったのだが、引きつらせることしかできない。それがどちらの熱のせいなのか、断言することも。
「言ってたじゃねえか、お前。昔、風邪ひいたとき」
え。
何の事だか分からずに黙っていた京介だったが、クロウはそれを体調不良のせいと思いこんでしまったらしい。しゅんと頭を下げて続ける。
「カノジョがナース服で見舞ってくれたら風邪なんてすぐ治すのにって」
「あ」
チームを組んでほぼ直後、そんな話をしたような気がする。京介にとってはその程度の記憶にしかならなかった話だ。
その頃京介はクロウを所謂恋愛の対象として見てはいなかった上、関係もチームのメンバーでしかなかった。ただ熱で魘される自分を不安げに見詰める3対の瞳に耐えきれずに口にした言葉だったのだ。
バカ言ってる余裕があるじゃねえか、と真っ先に呆れたのはクロウだったはずだ。それは、はっきりと覚えている。
そんな彼が、いくら今、密かに恋人と呼ばれる関係にあるとはいえ、こんな奇行に走るなんて京介にとっては夢か幻としか思えない。
カレシじゃやっぱりやべえよなあ、とぼやきながら今更気まずそうにスカートの裾を引き下げる仕草も、幻覚でなければ説明がつかない。気だるさは夢にしては強すぎるが、これだけ熱がリアルな夢ならおかしくもない。
そこに思考が辿りついてしまうほど、鬼柳の脳はやられていたのだ。もちろんこれは、風邪から来る熱によって。
「治す。今治す。だから、な」
ナース服の袖はパフスリーブ、ふわりと丸みを帯びた袖に京介が触れると、その中にクロウの肩の感触がはっきりとあった。袖口は窮屈だったようで、ボタンが外れたままになっている。決してジャストサイズではない、所々アンバランスなナース服。さらに色は、淡いピンク。似合っている、とは決して言えない。お世辞でも言えない。それでもクロウの体をあらゆる意味で知っている京介の眼には、十分すぎるほど魅力的だ。まじまじと眺め、京介は身を起こそうとした。
京介に合わせて、クロウはまた後退する。そしてちょうど京介の足の付け根の位置に、座りこんだ。
「あ……」
零れた声。ただの声。クロウは飛び跳ねる勢いで京介の上、ベッドの上からも降りて床に転がった。アクション映画並みの動きに、思考の伝達速度の随分と鈍った京介は付いていくことができず、床から見上げてくるクロウを呆然と見つめる。クロウはゆっくりと起き上がると、床に何故か正座した。
「き、鬼柳っ…おま…」
「あ、いやその、なあ?」
クロウは緩く首を振る。京介は嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、フォローの言葉を探す。最中、愕然としたクロウの、震える唇が放った次の言葉は。
「すげえ熱じゃねえか…っ!!」
「へ?」
膝立ちになったクロウは、何故か四つん這いで部屋の隅に向かう。短いスカートから健康的に焼けた足が伸び、突き出された臀部は綺麗な曲線を描いていた。
部屋の隅にあったのはクロウの荷物らしい。そこから深い紙皿と林檎、使い古された果物ナイフを取り出して、にっこりと、それこそ天使のように笑ってクロウは振り向いた。
「林檎って熱下げてくれるらしいぜ!」
「え? あ、ああ、すげえな、けどクロ」
「剥いてやるな! 兎がいいか? 得意なんだぜ」
今度は膝立ちでずるずると近寄ってきて、手の中で林檎にナイフを入れる。笑みはひたすらに無邪気。林檎を八分の一にカットする手つきは見事。さくりさくりと刃を立てて、種もヘタも綺麗に取り除いて、ピンと兎の赤い耳を尖らせる。一匹兎が完成すると、クロウは確かめるようにそれを眺めて、更に京介のベッドに近づいた。
「ほら、あーん」
天国と、地獄。
京介は頭に浮かんだ二つの単語をくるくると脳内で回しながら、言われるままに口を開けた。兎カットの林檎を初めて目にした感動も初めての「はい、あーん」の感動も残念ながら下半身の熱が気になって霧散してしまい、味覚もマヒしていたので林檎が甘いかどうかも分からなかった。皮が口の中に残るので、これは林檎であると理解できる程度。
それでも次の林檎を用意するクロウはナース服のせいか楽しそうなせいか少し低い位置に座っているせいかとても可愛い。
確かなその光景だけが、京介をこの夢につなぎとめた。取りあえず自分は相当イイ目を見ているんだ、と死んだ思考にも分かりやすい光景だけが。
「あ、あのな、クロウ」
「ん?」
「俺としては、林檎よりだな、ぉ」
「水か?」
「……ハイ」
ずっと置いてあったのか、ベッドの下からペットボトルを取りだしクロウは首を傾げる。切りかけの林檎は皿の上。邪気のない瞳を瞬かせる彼に、言おうとした言葉をぶつける罪悪感。京介は結局、頷く。
ペットボトルを受け取ろうと手を伸ばす京介に構わず、クロウはキャップを開けた水を自分の喉に流し込んだ。嚥下する。動く喉が晒されて、京介の熱はまた、上がる。ペットボトルから離れた濡れた唇が近づいて、そこに視線を奪われていたと気付くも、ベッドに乗り上げてきたクロウを押し返す腕は持ちあがることはなかった。
「ん」
京介の眼前まで近づいた唇が消えて、唇に濡れた感触。すっとそこだけ冷えていく。戸惑いから閉じなかった唇に、入り込んでくる二種類。暖かいものと、まだ、すこし冷たいもの。さらさらと口内に広がる液体と、ゆるゆると歯列をなぞる固体。
京介が目を閉じてみると、与えられているのが何であるのか、体の方が教えてくれた。重なった唇。口内を満たす水。差し入れられた舌。唇を押しつけたまま角度を変えて繰り返され、掻き回されて、唇の端から飲み込めるはずもない水と音が零れて伝う。
奥まで水を流し込もうとする舌を、京介自ら止める。舌の表面、小さな突起をぐるりと擦り合わせて、引いた舌を追いかけて、絡める。また水が零れた。クロウの唇が隙間を塞ぐように角度を変える。
「ぅん…っ」
一層強く唇を押しつけ、クロウが苦しげに呻く。居心地悪そうに揺れた体が、京介の体をかすめる。汗でぬれたシャツを心底取り払いたいと思いながら、京介は口内に残った水を飲み込んだ。
「……は、……零すんじゃねえよ」
唇を離しただけの距離で笑って、クロウは舌先で京介の唇の端を舐めた。そのまま、水の流れた跡をなぞって、下へ。顎の先から、喉元まで。キャップを閉められたペットボトルが、京介の枕元に倒れた。
どう考えても看病の域を超えた行動に、京介の眼は完全に醒めきっていた。夢ではない。もう、認めるしかない。
恋人であるクロウ・ホーガンが、薄桃色のナース服を着て、えらく官能的に『看病』をしに来てくれた、現実だ。
「ク、ロウッ!」
「でけぇ声出すな。ニコもウェストも今日は下で寝てる。看病手伝うってずっと言い張ってたんだぜ?」
クロウの左手が京介の唇を塞ぐ。下から覗き込む顔は、真剣だった。京介は唇を動かしかけて、結局、頷いて押し黙る。
「だから…ちゃんと治して、元気な顔見せてやれ」
優しくほほ笑めば、兄か、親が見せるような顔。
額を叩かれて顔を顰めれば、大人びた笑みは崩れて普段から浮かべる朗らかな笑みに代わる。ただしその目は、決して穏やかではないことを企てている時のそれだ。
「鬼柳京介なら出来るだろ? クロウ様が看病してやったら絶対だろ?」
言って、顔を離して、右手を胸から腹、下腹部まで滑らせていく。そして汗に濡れた寝巻の下で燻っていた熱の塊を、強すぎるほどに握りしめた。京介の体は跳ねる。
「っお、ま!」
「こっちだって元気だもんな?」
「ッ、クロウてめ、わざとか…!」
最初に見た笑みよりもはっきりと、「してやったり」と笑顔が語る。唇の奥にちらと見える赤い舌が、あらゆる意味でいやらしかった。ここまでされてその気はありませんではシャレにならない。縋るような京介の目線を受けながら、クロウは相変わらず笑って言う。気付いているのか、いないのか。
「ったりめーだろぉ、最初は本気で心配してやってたけどよ、こっちが元気なら大したことねえよなー」
「元気すぎるのも割と辛ぇ、んだけどな」
今度は、言葉にしてみる。
クロウはじっと京介を見つめ、熱と興奮でうるんだ瞳同士をぶつけて笑みを深めた。機嫌がいいのだと、一見して分かる。
「今日のクロウ様は、すこーしだけ、お前に甘いぜ?」
だからその言葉を聞いた時、京介は両腕でクロウをきつく硬く抱きしめたい衝動にかられながら、曖昧に微笑み返した。
この特効薬を前にして、風邪などで倒れている場合ではないと体中が信号を送り合う感覚を確かに感じながら。
「ただ、病人だからな。一回だけな」
スカート部分にポケットが付いているらしい。クロウは左のポケットから手の平に軽く収まるサイズのボトルを取りだした。中に入ったとろみのある液体が何のために今取り出されたか、考える間もなく期待した京介の体は震える。
ボトルを手の中に入れたまま、クロウはベッドを下りて下着を下ろしかけて手を止めた。灰色のボクサーパンツ。首を傾げて思案しているのは、妙に冴えた今の京介ならば推測できた。
さて、せっかくこのためだけに仕入れた衣装をどこまで脱ぐか。これだ。下着だけを脱ぎ捨てて、ソックスに手をかけて、また首を傾げる。こうなれば京介の中でも確信が芽生える。こそりと笑みを浮かべて、試しに声をかけてみた。
「なあ、そのまましようぜ」
「マジかよ変態」
「ナース服着てる奴に言われたくねえよ、否定しねえけど」
振り返ったクロウは最初こそ目を丸くしたが、京介の続いた言葉に苦笑を浮かべて素直にベッドに戻ってきた。そっと乗り上げて、また京介の体をまたいで膝で立つ。
ボトルのキャップはまだ開かず、両手で京介の寝巻の下を引き下ろす。汗で濡れた下着も腿まで下ろし、京介が居た堪れなくなるほどに見つめてから、ようやくボトルの中身を手の平に垂らした。
「ビンビンじゃねえ?」
「はは、素直だろ。笑っていいぜ…」
クロウは体をやや前に倒し、濡れた手を後ろから臀部に運ぶ。スカートの中にその手を潜り込ませると、眉を顰めた。呻く声と、かっと赤く染まる頬。ひく、と痙攣するように震える体。
「ここまでにした責任は、とってやるっ、けど…は、ぁ、…そこまで、な」
「分かった」
京介は両手をクロウの臀部に回すと、その肉に指を食い込ませながら左右に掴み開く。クロウの喉から高い声が漏れて、無意識なのか、京介を挟んだまま両足を擦り合わせた。
スカートを押し上げる存在を隠すように、京介の胸に頬を押し当てるまで体を折り曲げる。荒い呼吸に混ぜて意味のない声を発しながら、片手のボトルの中身を自らの穴を押し広げる手指に垂らして、準備を整えていく。
「鬼柳、手、あちぃ……」
「熱あるからだろ…でも、クロウも十分熱い」
「おまえ、いつもそう言うだろ…」
キスの時より控えめな水音がした。クロウが両目を閉じて、大きく揺らぐ。やがて薄く開いた目は潤みきっていて、言葉なくして次の工程をねだっているかのようだった。京介はクロウの体を持ち上げるように手を引いて、その欲を促す。
顔を俯けたクロウは、濡れた手を京介のそそり立った性器に添えて、意を決したように体を沈めた。クロウの後穴は、必死に口を開けてこの場で一番熱いそれを飲みこんでいく。
「……ふ……うっ」
「き、……っつ」
知ったものよりずっと熱い体が繋がり、二人はたまらず声を上げた。クロウは苦痛に顔を歪めるが、京介にはそれを和らげてやる余裕もない。ゆっくりゆっくりと、肌が触れあうまで座りこんでやっとクロウが息を吐く。時間にしては一分に満たないが、倍以上に長く感じられた時間。沈黙の中、呼吸を整えながら、不意にクロウが笑みを零す。
「あー、……あ、ぁ……もう、おれ、何やってんだろな」
ん、と京介が顔を上げて目線で問えば、その先で泣きだしそうな瞳が瞬いていた。端を持ち上げた唇を噛みしめ、自身の体をそっと見下ろして。
「っンなカッコまでして、こんなことまでして、さぁ」
京介の胸元に置かれた手が握りしめられる。京介はクロウの臀部から腰へと移っていた手を離し、自分の胸の上、クロウの拳に重ねた。窺うように上がった視線を受け止めて、熱のせいか疲労のせいか閉じかける瞼を押し留めて、京介は微笑む。クロウの笑みに負けないほど、穏やかに、柔らかく。
「そりゃ…愛だろ?」
くだらねえよ、と掠れた声でクロウが吐いた。少しだけ傾いた体を戸惑いがちに起こしながら、もご、と唇を動かす。
「けど、そうなのかも、な…」
ぼんやりと零れた言葉が届いた時に、京介はもう自身を止めることができなかった。力の抜けた身体に鞭打ち、クロウの両手を握りしめながら思いきり突き上げる。
「ば、ぁ、っざけんな、病、人っ!」
裏返った悲鳴を上げて、けれども容赦なく突き上げられて。それだけで、クロウの体は彼の望むようには動かなくなっていた。引き抜こうと腰を上げても、追いかけてくる熱に引き戻されてしまう。
ベッドが激しく軋む音に耳を塞ごうとしても、両手は京介に掴まれたまま。
「クロウが動かねえから仕方なく…」
「これから、だっつ、っあ、ベッド、うる、さ、ぁ」
「大、丈夫、下にベッド入れた時っ、ウェストがはしゃいで飛び跳ねたらしい…けど、俺、全然気付かなかったから」
いつの間にか、クロウの体も律動に合わせて上下していた。京介はまた両手をクロウの方へ伸ばし、腰回りをしかと掴んで奥に奥に先端を届かせようと腰をぶつける。スカートの記事を押し上げるクロウのそれも、もう十分すぎるほど熱を持っていた。
主導権を奪い合いながら、そろって快楽を追う。
「そう言う問題じゃぁっ、は、ううう、っ、ん」
解放された手に気付き、クロウは両手で自分の口を塞いだ。くぐもった声を聞きながら、京介は本能の赴くまま、クロウの中に熱を放った。
「…か、患者に、注射打たれる看護師なんて、ねえよぉ」
ふわりと浮いた意識の途中、本当に弱りきった声でクロウが呟いた言葉に、京介はまた手を伸ばそうとした、のだが。
「……ん、ん?」
京介が目を開けると、見慣れた天井だけが広がっていた。
外は明るく、部屋の中はきっちりと整頓されている。林檎もペットボトルも、ナース服もなければ、クロウもいない。
「夢…?」
呟いてみると、真実味を帯びていく。すっきりと冴えた頭は身を起こしても変わらず、首を振ると、昨夜の出来事もありありと思いだせる。
しかし痕跡はゼロ、それが、現実。
「…夢だよ…そうだよなあ」
片手を額に当てて、項垂れ深くため息をひとつ。
下から階段を駆け上がってくる賑やかな足音がしたので、ウェストだろうかと顔を上げる。
「鬼柳さん、おはようございます!」
「風邪、もう平気だよね!?」
「食うよな、飯できたぞー!」
ドアを開けて顔を出したのは、ニコとウェストと、クロウ。
白いレースのフリル付きのエプロンを三人そろって身にまとって、ニコはレ―ドルを、ウェストは真っ白な皿を、クロウは杓文字を手に。
京介はもう一度額に手を当てた。
「……なあ、どっからどこまで、夢だ?」
クロウがこっそりと、一度だけウィンクをした。
|