It’s a bias





 日が暮れてから更に時は進み、人々がほぼ住み慣れた部屋に足を踏み入れているころ。高層ホテルの入り口付近で、右へ歩き、左へ走り。入口のちょうど前で立ち止まっては、見上げ、俯き。
 誰が見ても挙動不審、逆立てた髪が派手なオレンジという目立つ色をしているせいもあり、余計に人目を引いていることに彼はきっと気付いていない。肘あたりから指の根元までをグローブで覆った手で、彼は唐突にがしがしと頭を掻いた。
「っか〜……なんだかなァ」
 クロウ・ホーガン。D1GPの参加者であり、BFと名のつくモンスター群を駆使する決闘者。次々に高レベルモンスターを呼びだすスピード第一の戦術は、対戦者のみならず、観客の緊張感までもを掴みとっていく。どの決闘者も、彼を雑魚とは呼べないだろう。そう、昨今の決闘疾走界の頂点に立つ男、絶対王者ジャック・アトラスを除いては。
 それほどまでの決闘者である彼が、D1GPの予選の続きを控えた夜に何故いつまでも外をうろついているのか。時折向けられる視線には、彼が決闘者(デュエリスト)と知っているからこその疑問を込めたものもあった。本来であれば、翌日に向けての調整を行うか、万全の態勢で臨むための睡眠の準備に入っていてしかるべき時間であるのだから。

「……クロウ・ホーガン?」
「のわぁああっ!」

 疑問を抱いた一人が、彼の名を呼んだ。肩に置かれた手を振り払ったクロウは、一番近い壁に背を預けて声の主を確認する。耳を隠すほどの長さの髪。驚愕に一瞬だけ見開かれた、切れ長の瞳。ネオンの消えた夜の重さのロングコート。

「鬼柳京介ッ!」

 D1GP開催日であった今日、開会の時点から何気なく共に観戦することになった相手。絶対王者との決闘ならば満足できるのではないか、と大会参加を決めたらしい少々変わり者の男は、周囲に知らしめた実力も含めてしっかりとクロウの中にインプットされている決闘者であった。
もうひとつ印象深かったのは、ジャックと近い系統のいわゆる、美形であること。クロウには絶対に認めたくない事項であるが、実際に彼の決闘の後、観客席から黄色い声援が飛んだのが現実。明らかにクロウのデュエルの後とは違う色の声援が。

「何の用だよッ」

 犬が唸る。猫が毛を逆立てる。その両方と何故か重なる姿を見下ろす鬼柳は、自然と頬を緩めた。きつい眼差しが細められれば、随分と雰囲気は変わる。それでもクロウは、牙と爪を剥き出し身構えたままだ。

「ちょっとばかしモテるからってなあ、優越感に浸ってんじゃねーぞ! 俺は別に羨ましくなんかねえし! 顔と決闘はイコールじゃねえぞ! わかってんのか、コラァッ!」

 クロウは鬼柳が口を開く隙を与えず、ひとりキャンキャンとわめき続ける。鬼柳は眉根を寄せた。これでは時間を浪費するばかりで、話が進まないと察したのだろう。
 ふうと息を吐いた鬼柳の手が、クロウの手首を強く掴んだ。

「あ? あ、お、おい?」
「宛がわれた部屋があるだろう。早く帰れ」

 クロウの体を引きずって、ホテルの中へと踏み込ませる。ブーツを履いていても分かるほどのふわふわしたマットの感触にクロウは飛び上がったが、鬼柳は全く動揺しない。あちこちで頭を下げるホテルの従業員にぎこちなく頭を下げ返すクロウを連れて、フロントに立つ。

「鬼柳京介とクロウ・ホーガンだ」

 言いながらポケットから出したのは、D1GPの招待状、『栄光のチェッカーフラッグ』。フロントに立っていた男は頷くと、二つのカードキーを差し出してきた。
 先に渡された一枚を取り、鬼柳はクロウの腕を強くひき、立ち位置を入れ変える。咄嗟のことに、クロウは目の前に差し出されていたカードをしかと受け取っていた。

「行くぞ」
「い、い、おう、あ、え……ドモ……」

 コートを翻しエレベータへと迷いなく進んでいく鬼柳の背を追うクロウは一度振り向き、フロントから見送る男に、軽く頭を下げた。エレベータ前の毛足の長いマットに踵を引っかけ転びそうになった彼を呼びとめなかったのは、一瞬にして彼の心情を察したプロならではの対応だろう。


「外に用事でもあったのか」

 エレベータが動き始めてすぐ、鬼柳が振り向くことなく問いかけた。クロウはエレベータの隅に寄りかかり、手の中のカードキーをひらひらと振りながら答える。歯切れは、悪く。

「……別に、何もねえよ」
「なら、寝る気になれなかったのか?」
「そういうわけでも……」

 扉の前から、ようやく振り向いた鬼柳がクロウを見る。視線は一度絡んだが、クロウはすぐに外してばつが悪そうに泳がせてしまった。
 エレベータは邪魔されることなく、彼らの目的の階へ進んでいく。一つずつ増えていく数字も目に留めることなく、クロウはつぶやいた。

「こんなとこで、落ちついて寝れっかっつーの……」

 大会と聞けばD‐ホイールを走らせ飛び入るクロウではあるが、こんな待遇は初めてだった。鳥もぶつかりそうな高さのホテル、ピカピカに磨かれた自動ドア、見事な角度で頭を下げてくるホテルマン、動物の毛並みのようにフワフワした足元、鏡みたいなタイル。
 何もかもがクロウにとっては異質。異常。一生関わることのなかっただろう世界。憧れはゼロではなかったが、いざ手の届く位置にやってくるとどうにも、触れる気にならなかったのだ。
 鬼柳は無言だ。この狭い密室に二人きりでいたのだからクロウの言葉は聞こえたはずだが、うんともすんとも、へえとも言わない。馬鹿にもしなければ賛同もしない。安堵と羞恥に襲われて、クロウは口を閉じた。ちょうどそのタイミングで、エレベータも目的の階への到着を告げながら戸を開いてくれた。
 さっさと降りてしまった鬼柳をやや駆け足で追えば、足元の感触がまたクロウの進行速度を落とす。裸足で歩けばさぞかし心地いいのだろうが、そんなことをするためのマットではないことは、クロウもよく分かっている。無駄な金を使いやがって。胸の内で、悪態をついた。
うう、と唸り声を上げながら、手の中のキーを見た。ナンバーは四ケタ。エレベータを降りてすぐに見える案内版を見れば一番先に目に入るような位置にある部屋だった。
 鬼柳は、どうやらその隣。
 ドアの前で立ち止まったクロウを追い抜いて、カードキーをドア横に差し込みかけて、クロウを見る。

「……な、なんだよ」
「入らないのか?」

 キーを持ち上げかけて動かないクロウを訝しんだのだ。鬼柳は相変わらずの無表情で問う。クロウはその逆。明らかに滅入っています、と周囲に悟らせるほど苦々しい表情で、キーと扉、そして足元を見比べた。

「……気が向いたら、入る」

 赤くなった顔を俯けて、それは誰が見ても緊張で今にも走って逃げだしそうな少年の顔。けれどクロウは、敵を前に逃げることだけはしない。あれだけ勇んでデュエルに踏み出すのだから、間違いはない。
鬼柳は数歩、踏み出した。クロウの手を取り、カードキーを無理矢理ドア横のセンサーに通す。

「おわっ、おっ、何すんだ!」
「万全でないお前と当たるのはごめんだからな」

 開いたドアの向こう、シングル用にしては随分と広い部屋に、クロウの体を押し込め、自らの体で蓋をする。ドアの外に向かおうとする力を全て封じ込めながら、一直線に、フロアマットの何十倍も柔らかいベッドへと。
 わあわあと慌てふためくクロウの肩と腕を押さえつけ、鬼柳は彼の体を強引にベッドに押し倒した。素早く身を起こし、蹴り上げられた足を捕まえ、ブーツを引きはがすように脱がせて放り投げる。

「っ、鬼柳!」

 起き上がりかけたクロウの首の上に、鬼柳の腕がかかった。蛙が潰れるような声を発したクロウに構わず、腕に徐々に体重をかける。

「……くっ、は」

 鬼柳の腕にかかった両手が、ただ握りしめられる。鬼柳はそこでようやく、ベッドの上に腕を下ろした。呼吸の自由を取り戻し、呼吸を整えながら、クロウは涙目で鬼柳を見上げる。鬼柳は相変わらずの無表情だ。

「こ……殺す気か」
「そんな勿体ないこと、するわけがない」

 否定はしたが、冗談だと笑うことすらしない。不気味と形容しても許されるであろう言動は、ひたすらにクロウをヒヤリとさせるばかりだ。そりゃあよかった。そう言ってクロウが返そうとした笑みは、引きつってまともには浮かばなかった。

「俺を満足させてくれる相手とやるまでは、俺は勝ち残る。クロウ。お前もそうだろう」

 鬼柳が指すものが、この大会のこと、決闘(デュエル)のことだとクロウはすぐに気がついた。気が付いてすぐに、内側に灯った火を一気に燃やすことは容易い。

「あったりめえだろ! 俺の目的は優勝、もちろん絶対王者にも勝っての完全勝利でな!」

 決闘、特に決闘疾走を思えば、いくらでも熱くなれる。鬼柳のペースに飲み込まれかけた空気が、目を輝かせたクロウの朗らかな声音でリセットされた。
 予選一日目でありながらも、白熱した決闘を魅せた勝者たち。そのうち誰かとクロウも決闘することになる。そして最後には、絶対王者。
クロウと鬼柳が揃って気になる決闘者として名前を上げたサテライトの決闘者、不動遊星も、所詮そこにたどり着くために通らなければならない選択肢の一つ。
 そして勿論、クロウにとっては鬼柳、鬼柳にとってはクロウも、途中経過に過ぎない。
 そう。最終地点にたどり着くまでは、何が何でも負けるわけにはいかない。体調不良で決闘に支障を出すなどもってのほか。
だから今日は早く寝ろ。
鬼柳は、つまりそう言いたかったのだろうか。
 クロウが少し離れた位置にある枕に手を伸ばしてみると、鬼柳がベッドの端をポン、と叩いた。

「そうだ。分かってるなら、食わず嫌いは止めることだな」

 言われなくともそのつもりだ、と言い返すこともできず、クロウは眉根を寄せた。寝るつもりこそあったが、慣れない空間で拭いきれないむず痒さから躊躇していたのも事実である。はいもいいえも嘘になる。それなら、とクロウは別の言葉を探した。

「食わず嫌いなんか、……う、ふぁ……ふ」

 しかし、言葉の途中、唐突に眠気が込み上げた。大きな口を開けて欠伸をひとつ、手の甲で目元を擦り、もう一度鬼柳を見る。

「本気で、嫌い、な、だけだ……」

 慣れないものは、慣れるまでは嫌い。慣れてからはまた別の話。それが、クロウの出した結論だった。
 この今まで味わったことのないほど柔らかなベッドは、クロウにとっては慣れれば「好き」なものに分類される。
確信を覚え、クロウは鬼柳に構わず、襲ってきた睡魔に身を任せた。鬼柳は驚くこともなく、クロウの額からヘアバンドを取り除いてやった。無表情は相変わらずだが、先ほどまでの元気が嘘のようにくったりと力の抜けた身体を、ベッドの中央に移してやることも、布団を引きだしてかけてやることも、鬼柳は忘れたりしなかった。


 ――翌朝。二人が部屋を出たのは、偶然にもほぼ同時。エレベータの前、顔を合わせて互いに肩を竦める。シャワーでも浴びたのか、クロウの髪はやや湿ったままだ。

「早いな」
「少し、外走りたくてよ」
「……そうだな。俺もそうするか」

 整備を終えたD‐ホイールは、彼らの宿泊階からは離れた地に近い場所で再会を待っている。クロウは腰に下げたデッキケースに手を置いて、にんまりと鬼柳を見上げた。

「ついでにテストでもするかあ?」
「ふ……何のための大会だ?」

 僅かに、鬼柳も唇の端を上げて答えた。到着したエレベータには、誰もいない。どかどかと乗り込むクロウに続いて、鬼柳もドアギリギリの位置に立った。

「ジョーダンだ。こういう楽しみは取っておくのもまた一興、だろ?」

 鬼柳は言葉では答えなかったが、一度クロウに振り向き、ほんの僅かにだが目を細めてみせる。ほんのわずかな変化に、欠伸をしていたクロウが気付いたかどうかは分からない。
 鬼柳が押した一階のボタンが光り、密室に戻ったエレベータはカウントダウンを始めた。




D1GPにおける勝者は、たった一人。
その立ち位置を求める彼らの闘いは、まだ始まったばかりだ。

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