都会の街並みを僅かに外れると、そこには全く違う風景が広がっている。昔から残る駄菓子屋に個人書店、コンクリートの灰色とは違う、木製の建築物が醸し出す灰色の空気。辛うじて現代につなぎとめられているだろう古めかしい通り。
その通りを少し行ったところに、平屋がある。昔は人々の集会場だったらしいその建物は、今は一人の老人が住居兼職場として利用していた。
木製の戸が、がた、と音を立てて開く。
「じーさん、生きてっかー?」
明るい声に呼ばれ、顔を上げた老人の名は屑山鉄蔵。職業、書道教室講師。
昔は名をはせた芸術家だったと言う者もいるが、彼は昔を語りたがらないため定かではない。
気難しい彼を軽い口調で呼んだのは、この書道教室で鉄蔵とともに書を教えている青年、クロウ・ホーガン。赤茶色の穴のあいたスリッパを引っかけて、ぱたり、ぱたり、音を立てながら鉄蔵に向けて歩み寄る。灰色の空間には眩すぎるほどの橙に髪を染めて、グリーンのヘアバンドでその橙を押し上げ、黄色のダウンジャケットを羽織る姿は鉄蔵と並ぶと一層派手に見える。左肩からかけた四角い鞄も青と緑の原色を組み合わせたデザインで、彼の派手さをますます顕著にしている。
しかし鉄蔵は眉を顰めながらも、口元で笑みを作って上げた片手を振る彼を迎えてみせた。
「儂が死んでみろ、お前の稼ぎが減るだけだ」
「あちゃー、ごもっとも」
ヘアバンドの上から額を片手で覆って、青年はわざとらしく歯を見せて笑う。その表情に嫌みはなく、清々しいほどだ。彼は右肩にひっかけるように背負っていた鞄を拾い部屋の隅に下ろし、両腕を腰に当ててあたりを見回した。広い教室には古びた木製の床があるだけで、ここにはこれから複数の長机が並ぶ予定だ。当然机が勝手に並ぶはずもなく、ここを教室に変えるのはクロウの仕事だ。鉄蔵は机を運べないほど足腰が弱いわけではないのだが、力仕事は若者の仕事だと言ってきかず、クロウもそれに文句を言うつもりがないので自然と出来あがった形。
ジャケットを鞄の上に放り投げるように置いて、入口付近まで大股で歩いて戻る。入口の扉を空けたにある横開きの扉は古いせいか重く、クロウが両手で取っ手を掴んで体ごと横に動かすことでなんとか開いた。やや赤みを帯びた黄色の長袖シャツの袖をまくり、覗き込んだ中には、足を畳まれ山積みになった机がぎっしりと並んでいる。「さてと」、一言だけ口にして一つ目の机に手をかけた瞬間。
「こんにちは、もう開いてます?」
人の声と同時に、がた、と音を立てて入り口の戸が開いた。机の両端を掴んだクロウの手が離れ、一、二歩、後へ下がり。
「鬼柳、さん」
「お、クロウ先生こんにちは」
たった今開けたドアを閉めようとしていた黒いコート姿の青年は、クロウの視界の中心にしっかりと収まった。すんなりと開け閉めするには少々コツがいる古い戸も、彼は難なく閉めてしまう。鬼柳京介。彼は、この教室に通う数少ない成人の生徒の一人で、比較的歳が近いクロウを何かと気にかけている。だから彼は今日も、鉄蔵より先にクロウに笑顔を向けた。
「おう、あんたも早いな」
「半休とってきました」
コートのボタンをはずしながら目を細めて、京介は唇の端を緩く上げた。普段、京介がこの教室にやってくるのは日が落ちてからだ。しかし今日は夕暮れ前に訪れた。鉄蔵もクロウも、それ以上理由を問うことはしなかった。鬼柳京介は突拍子もないお喋りを始める傾向があるが、勤勉でひたむきな生徒である。彼が笑って答えたのだから、それ以上追求する必要もないのだ。
下がってきた袖を捲り直して、クロウはまた机を運びにかかった。
「せんせ、何回書いても右側だけ大きくなるのー」
「ん? ああ、ちょっと貸してみ」
ふくれっ面の少女が墨のついた筆を頭より高く持ち上げて声を上げた。慌てて駆けつけたクロウは、少女の手から筆を受け取り、一度彼女に席を立つよう指示した。隣で半紙に文字を書いていた少年が手を止め、少女とぴったり並んでクロウを見つめる。
クロウは二人に笑みを向けてから、未だ白紙の半紙の上に少女を悩ます文字を描いた。手本より大きく、太い文字。
「今から、こっちが手本」
見本として置かれていたテキストを取り上げ、代わりに今書いたばかりの半紙を同じ位置に置く。少女は不満げに首を傾げたが、クロウに促されるまま座り直し、新しく用意された半紙に筆を滑らせる。書きあがるのは今までの彼女の字と比べて、大きくて柔らかい字。膝に押しあてた手の平で体を支え、中腰で立ったクロウの印象的な薄墨色の瞳が少女の書いた文字を随分と時間をかけて眺める。ふうんと彼が声を上げた時、少女の肩が跳ねた。
「ん、いい字じゃねえか!」
「ほんとに!?」
けれどクロウが向けたのがいつも以上の笑顔であると気づくと、途端に肩から力が抜けた。隣で何やらそわそわと興味深げに二人の様子を窺っていた少年も、一緒に笑っている。クロウが人差し指を立てて、興奮気味の少女に苦笑を向けたかと思うと今度は別の幼い声がクロウを呼んだ。声だけで相手を把握したらしく、真剣な子供らの邪魔をしないように足音を顰めて教室の端まで駆けていく姿は、警戒心の強い動物のようにも見えた。
京介はその一部始終を見届けて小さく笑ってから、ずっと宙に浮いていた筆の穂先を真っ白な半紙に押しつけた。
子どもたちとクロウが簡単な文字を書くのは入口近くのスペースで、全く反対側にいる鉄蔵の傍に、京介達のようないわゆる年長組が集まっている。子どもたちへの基礎指導と趣味や技能として書を磨こうとする大人たち、両方が共存する教室ではその方が落ちついて書道に取り組めるというのが表向きの理由。
だが実際は子どもたちへの指導がクロウの方が得意であることと、ひっきりなしに声をかける元気な子どもたちを一番ほほえましく見守れるのが少し離れたこの位置だからだ。鉄蔵は一度だけ、そのように京介に話したことがあった。
実際ここを訪れる大人の中には子どもと一緒に通っている主婦だとか、いずれ教育者を目指している学生だとか、子どもが好きな人間が多い。この奇妙な空間に何一つ文句が出てこないのは、この環境があるからこそ、この教室を選んでいる何よりの証だろう。
もちろんそれは、京介も同様。すいと筆を走らせる彼の視線の先には、賑やかで和やかな光景。
そこに一つ、不協和音。わざとらしい咳払いを聞いて、京介はぺろと舌を出した。見上げる先には不機嫌な鉄蔵の顔。
「字が乱れておる」
指をさされて見下ろせば、京介としてはいつも通りに書いたつもりの文字。それでも流石と言うべきか、教える立場の鉄蔵には違和感があるらしい。京介は肩をすくめて、腹でも減ったかな、と呟いた。鉄蔵の手が伸びる前に、机の上のまだ墨の乾かない半紙をぐしゃぐしゃに丸めて机の下に転がす。ああ、と少しトーンを上げて。
「そっか、俺今日はちょっと寝不足なんで」
言ってふわりと笑いかけると、鉄蔵はやや不満気な顔を残したまま京介に背を向けて歩き出した。「大事にな」と小さく投げかけられた一言に、京介は頭だけを下げてこたえた。
「クロウ先生、一緒に飲みに行きませんか?」
教室の片付けを終えて、ずっと残っていた京介がクロウに耳打ちした。
二十歳になったばかりのクロウにとって、魅力的な誘い。ましてその日は冷えていた。アルコールで体を温めて、冷たい空気を胸一杯に吸い込む独特の瞬間を覚えてしまったクロウの脳が、その魅力に逆らえるはずもない。クロウは二つ返事に誘いを受けて、京介に連れられて繁華街へ向かった。
たどり着いたのは、crash townと看板を掲げた小さなバーの前。飲みに行く、と聞いて想像していた居酒屋とは全く異なる洋風の、白と黒のシンプルな色合いとデザインの店。
黒塗りのドアを押しあけて、京介はすっと体の前で腕を振り、先にクロウを促す。高貴な女性をエスコートするのと変わらない動作と明らかに慣れない雰囲気の店を前に、クロウは尻込みして後退る。首を傾げた京介に、首を横に振って見せて。
「ここって、高そ」
「酒は美味いんですよ」
京介の手が、クロウの手首を掴んだ。あまりにも自然に引かれて、とうとうクロウのスニーカーが磨き上げられた店内のタイルを踏んだ。
「は、じめて入った…こーゆー店」
強い黄色のジャケットの前を無意識に合わせて、クロウはきょろと辺りを見回した。席はカウンターにしかない、長く狭い店。都会の片隅に無理やり詰め込まれたのかと思わせるほど。しかし、二人が並んで歩くだけのスペースはあるし、綻び一つ見当たらない店内は高級な雰囲気を醸し出していた。
店内に、他に客はいない。カウンターの奥、グラスを慣れた手つきで磨いていた痩せた男が、狐か蛇のような目を細めた。黒いスーツに蝶ネクタイ。黒髪は肩まであり、前髪は長く、比較的に右に寄せられた分が頬にまでかかっている。顕わになった片耳に見えたピアスはひょろ長い彼とは不釣り合いなほどごついリングピアス。
クロウは男の視線に首を縮めたが、京介は片手をあげて、怖じることなくにこりと笑う。
「約束通り、よろしくマスター」
男と一番近い椅子を陣取り、クロウの手首を開放する。コートを脱いだ京介は、それを左隣の席に置いてしまった。要するに空いた隣に座れと言いたいのだろうと判断して、クロウはおずおずとその横に腰を下ろす。教室の子供たちに見られたら、指をさして笑われるだろうと自覚しながら。
黒く縦に長い丸椅子。小さな背もたれギリギリまで座りこんで、クロウは「マスター」と呼ばれた男が何やら酒らしい飲み物の準備をするのを眺めてじっと待つ。着たままのジャケットに気付き、慌ててそれを脱いで丸めて、膝の上に抱えるように乗せて待つ。
縦長のグラスに次々と材料が注がれ、ぐるりと掻き回す骨ばった手。テレビで見るような派手な動きはなくとも自然で流麗な動きに、感嘆したクロウの唇が開いた。「すげー」、と小さく洩れた声に、マスターは一度だけ視線をクロウに向けて、唇の端を少しだけ持ち上げた。
「家遠いの?」
「ふぁっ?」
唐突な真横からの問いに驚いて、ぽかんと開かれていた唇から突拍子もない声が漏れた。ずっと無言だったマスターもくつりと喉を震わせ、京介も更に笑みを深くして、クロウを見つめる。びっと背筋を伸ばし、真っ赤になったクロウは体ごと首を振る。
「っいや! あ、教室は近いんで、こっからでも近い、っす!」
「そっか、良かった」
二つのグラスが、マスターの手を離れ二人の前に置かれた。円柱状のグラスに注がれた、赤茶色。すっと差し入れられた白色の二本のストロー。紅茶に似た色合いは、慣れない店で何が出てくるのかと身構えていたクロウの気持ちを見事なまでにほぐしてくれた。ほうっと息をついたところで、京介が一つを手にとって揺らした。
「じゃ、思いっきり飲めますね?」
言う頬笑みも、いつもと同じで。
すっかり肩の力の抜けたクロウは、へらりと照れ笑いを浮かべて同じようにグラスを手に取った。
「きりゅぅ……う」
右に左にとよろめく体を、呼ばれるままに京介は手を伸ばして支えた。真っ赤な顔と潤みきった目が、ぼんやりと京介を見上げ、ふにゃりと笑う。深夜の人気の少ない路地は、クロウの家までの近道だった。
「せんせ、大丈夫?」
「らぁいじょう……うー」
ふふふ、と笑いながら京介の腕を離れ、またふらふらとクロウは歩く。辛うじて腕を通して引っかけたジャケットはずりさがって、そこまで厚手でもないシャツの肩部分が露出する。寒さにもかまえないほど、アルコールの回ったクロウはすっかりご機嫌だ。
しかし歩くたびにほんの僅かな鞄の重みにすら負けて、どこぞの家の壁や電柱にぶつかりかけているのを流石に見ていられず、京介はまたクロウを自分の背後に引き寄せた。そのまま彼の目の前で片膝をついてしゃがみ込み、「乗って」と一言促した。
「いらねー、よぉ」
「どうせ誰も見てないですって。歩くの面倒でしょうし」
面倒、の言葉にクロウが反応した。こくりと首を傾げて、直立していてもふらふらと動く足元を見下ろす。そして結局彼は、『この足で家まで帰るのは「面倒」だ』と、結論付けたのだろう。勢い良すぎるほどに飛びついてきた体は、コートを着込んだ京介にはどこまで熱いのか分からなかった。
しがみつくように回された足の膝裏あたりを抱えて、京介はすっくと立ち上がる。片方の手首に下げた鞄の重みで体が傾いたのは、一瞬だけ。
京介の頭の上に顎を乗せたクロウはけらけらと笑い、両手で京介の髪を掻き回した。
「たっけぇー、きりゅー、背、たかいなー」
「どーも。それで、家は?」
「あっちー」
「あっちじゃわかりませんよー先生……ああ、あっちか」
クロウの右手が、真っ直ぐ前を指した。京介は視界の端でそれを捉え、しっかりと歩き出す。少し歩くと、曲がり角でもう一度クロウの「あっち」の声が放たれる。指先はしっかり右側を指していた。ひとつ頷き、京介は細い路地を行く。
そこは書道教室がある通りと変わらないほど古い建物が並ぶ通りで、女子供はもちろん、学生が真夜中一人で歩くには向かないように思えた。しかしクロウは手首を楽しげにくるくると回しながら路地の先を指している。いくら酔っていても、これだけ迷いがないなら嘘ではないはずだ。京介は一層辺りを注意深く見まわしながら
一層弾んだ声で、今度は「ここ」と聞こえて、京介は右左を見やった。クロウの指はくいと左を指す。
京介の前にあったのは、辺りの情景に問題なく溶け込む古いアパートだった。白と呼ぶのも戸惑われる薄汚れた壁、踏み込めば音がしそうな鉄板の階段、それらを眺めていると、不意にクロウの左手がじゃらりと音を立てて京介の耳の横から突き出される。鳥のキーホルダーのぶら下がった、いくつかの鍵。
「おれんち、ここ」
「……一階? 不用心だな……」
左手の指が指したのは京介の前のドア。表札もなく、ドアに郵便投下口が設置された茶色のドア。ノブはガタガタで、壊そうとすれば壊せるんじゃないかと思うほど。京介が指先で探って選んだ鍵は、運よく一度でドアノブに付属した鍵穴に収まった。
「きーりゅー、きりゅ、えっへへ」
「はいはい、鬼柳ですよ、先生。……ったく、不用心すぎ。それがいいんだけどな」
ゆらゆらと膝から下を揺らして、クロウは適当なメロディを付けて何度も京介を呼んだ。それを聞きながらひとりごちて、京介はドアを開きながら今度ははっきりと「おかえりなさい」と返してやった。京介の頭に頬ずって、クロウはふにゃりと笑った。「ただいま」。
クロウの靴をまず脱がせてやってから、彼の体を玄関先に下ろして座らせ、京介も自身の皮靴を足元に落とした。転がるブーツとスニーカー、そこに革靴が混じって転がる玄関。京介の家とは異なる光景。靴は散らばってはいるが、靴箱の上にはちょんと芳香剤が置かれている。そこだけが、京介の玄関と同じ。芳香剤の香りは違っていたが、メーカーは偶然にも同じ。
そんな偶然にくつりと笑みを零しながら、京介はいつの間にか部屋の奥へ文字通り転がり込んでしまったクロウを追って、コートのボタンを外しながらそっと室内へ足を踏み入れた。
「ふーとーんー」
「やっぱ和室か」
玄関と部屋を一枚のドアが仕切り、その奥には畳らしい敷物が敷かれた空間が広がっている。畳らしい、と言ったのは、畳と呼ぶにはずいぶんとつるつるした素材でできていたからだ。ダミーだろうと京介は思う。口には、しない。クロウの鞄とジャケットはその床の上に無造作に置かれている。放り投げられたのだろう。
次に目に入ったのは、クロウが転がるくたびれた布団の横に置かれた四足を折りたためる形式の小さなテーブルとどう読むべきか戸惑わせるような、けれど視線を奪っていく力強さのある文字の書かれた半紙。筆は転がっていなかった。机の下には、きっちりと手入れされた道具が揃っている。京介はそれを目で確認しながらコートを脱ぎ、腕を軸にして簡単に畳んだそれを、机の傍らに放った。
「家でも、字書いてるんだ」
「きりゅーは、書かない?」
「書く場所ないから……」
しゃがみ込んで、鞄を置く代わりに筆を拾う。教室で子どもたちに持たせているものよりも少し太くて、古い印象の筆。
「高そうな筆」
「やらねーぞ?」
ふふふと笑いながら、クロウは掛け布団をかき集めて抱え、ころりと布団に転がりなおした。うつ伏せて顔を布団に押しつけて、ぱたぱたと足を揺らす様は子どもよりも幼い。普段の彼ならば不意に見せるだろう鋭い眼差しはすっかり溶けて、あまりに無防備な姿。
京介は薄く笑う。想像していた以上に堕落した彼に抱いたのは絶望でも幻滅でもなかった。感情は、予想していたとおりだ。
手にした筆の穂先で、酒のせいで真っ赤になったクロウの耳を撫でた。意味のない声を上げて京介を見たクロウは、少しばかり不満げな顔をしている。
「きゅうりゅ」
口をとがらせ咎めるように、鬼柳、と呼んだつもりなのだろう。濡れた唇で濡れた目で、そんな甘ったるい声で言われたところで京介の別の感情を煽るだけだというのに。
「……ねー先生」
意味なく鬼柳と呼び続けるクロウの声に重ねて、京介がクロウを呼ぶ。クロウは猫が喉を鳴らすように唸って、布団に転がったまま京介を見上げ首を捻った。京介は傍らに座り、手にした筆の柔らかな穂先でクロウの頬を擽った。
「くすぐったい?」
「んん……も、ばぁかあ……」
「可愛い」
京介は薄く笑みを浮かべたまま、頬から首筋へと筆を滑らせる。汗ばんだ長袖シャツの襟首に筆が当たると、シャツをまくりあげて、今度は腰のあたりから首筋へ向けて筆を滑らせる。肩甲骨の裏側はわざとゆっくり、軽く撫でた。
「ん、ン……」
「先生、ホントに書道好きですよね……嫉妬しちまうな、俺」
布団を抱きしめ肩を竦めて、クロウは京介の声をまるで子守唄代わりにしながら、ゆるゆると瞼を閉じはじめる。京介はそれを許さず、柔らかな穂先を不意にクロウの右の耳窪に差し入れた。
「ふあっ」
「先生、どっちがいい?」
熱を持った体を更に昂らせることは容易い。京介は左の耳朶に唇で触れ、ひくりと跳ねたクロウの腰のあたりに腰を下ろした。ぴょんと擬音がつきそうなほどはっきり上体を跳ねさせて、クロウは横に倒した顔をそのまま、閉じそうな瞳を必死に開いて視線だけで京介を見上げる。
「何……なに? え、ぁう」
「どっちがどっちでしょうか」
京介の左手が、その目を塞ぐ。
「筆と、俺」
そのまま、京介の舌がクロウの肩甲骨を舐め上げた。その右手の筆は、右の肩甲骨をなぞる。クロウは一度頭を振りかけたが、開きかけた唇から零れたのは熱を持った吐息だけだった。
「は、ふっ……っ」
出来る限り同じ動きではっきりと隆起した肩甲骨の付け根から先まで舌先、穂先で左右の同じ位置を辿る。クロウの右手が、ぱたりと床を叩いた。
「こ……ち」
「ん?」
「こっち、筆……」
吐息に混ざった回答。京介はふっと笑みを浮かべ、身を起こした。解放されたクロウの視界は、ぼんやりと潤んで先ほどよりずっと弱く京介を見上げている。
「流石」
くつ、と普段とは色の異なる笑みを浮かべ、京介はクロウの体をうつ伏せで覆う。重い、とくすくす笑うクロウの耳元に顔を寄せ、先生、と彼を呼ぶ。左手は、彼の下半身へ伸ばしながら。
「先生、お願いがあるんですけど」
「ふあぁ……」
「寝ないでくださいね、寝てるとこでやっちゃうと気分的に、俺悪い人になっちゃうんで」
細い腰と腿を包むやや厚いジーンズの前のボタンを外し、引き下ろす。クロウは仄かに目を細めたが、抗うことはしなかった。それどころか、左手が布団の横に畳んであった黒いジャージに伸びる。京介のその行為を、着替えの助長だと思っているのだ。
不用心、と口にして京介は彼の下着までも引き下ろした。それでもまだ、クロウはジャージを掴んで抗おうとしない。それどころか、それを穿こうとして顕わになった臀部をゆるく持ち上げようとする始末だ。
京介は右手の筆を小指で押さえ、残りの指で通勤鞄の内側のポケットを漁る。クロウの愛用の筆よりやや太い程度の細長い黒色のボトルを取り出して、中指と薬指で支え、残りの指でキャップを摘んで捻る。クロウの膝裏に座った京介は、開かれたボトルの中身を少しだけ持ち上がったクロウの二つの曲線の間にぶちまけた。
「ひゃ!?」
火照った体には、常温でも液体は冷たかったのだろう。クロウの両手が、布団とジャージをそれぞれ握った。
「な、きゅ、きりゅっ」
「鳴き声みたい、先生可愛い」
「違、や、熱……」
「今度はエっロい」
僅かにとろみのある液体によって濡らされたその穴は、きゅうと閉まって異物の侵入を防ごうとする。京介はそれを見下ろしながら、また慣れた手つきで鞄の別のポケットを漁った。ぱさぱさとクロウの背に落ちたのは、小さな正方形の小袋。
それらは色も大きさもそれぞれ異なっていて、何も考えずそれだけを見れば視界を楽しませる芸術の一種にも見えたかもしれない。それを選ぶ京介の笑みもいっそ芸術的なほど清々しかったのだから、なおさら。
「大丈夫大丈夫、気持ちいいですから」
「きもち……い……?」
背中に撒かれたものは、クロウからは上手く判別できていなかった。もう眠気に半分以上思考を支配されているせいもあるだろう。京介の手が柄付きの一つの小袋を開き、筆の後ろ部分を袋の中から出てきた別の袋に突き入れていても、理解が追いつかないのだ。
「先生の大好きな筆ですしねー」
「いぁっ!?」
弾んだ声とともに、薄いゴムで覆われた筆が中途半端に濡らされた臀部の穴に突き立った。咄嗟に暴れたクロウの体は、京介の左手がシャツを掴んだ結果、さほど移動できず布団に沈む。
「いた…ぃっ、た…、きゆ……」
突如感じた異物感に、クロウは眼に涙をためて訴える。京介に向けて伸ばした手は空振ってばかりだが、未だ正気に戻らない酔いの回った頭ではそれ以上の抵抗が思いつかないらしい。
京介は笑って、クロウの後穴に突きたてた筆を指ではじいた。クロウの体が震えるのに合わせて、穂先を震わせる筆。クロウが荒く呼吸を繰り返すものだから、ちょうど尾を振っているようにも見える。
「ほら、わかります? 筆」
「うぅ……っ」
枕に顔を埋めてしまったクロウがそのまま頭を振った。拒絶なのか、涙を拭っているのかは分からない。筆を更に押し込みながら、京介はクロウの顔をどうにか覗き込もうと体を捻った。しかし見えるのは震えるオレンジの髪と真っ赤になった耳、その耳朶に下がったナットのピアスだけ。嘆息したあと、京介の右手が無理矢理クロウの顎の下に滑り込んだ。喉を擽られて、クロウの体が跳ねる。
「や、め」
「ん、こっち見てくれます?」
「んゃ、あ」
顎を掴んで顔を無理矢理自分側に向けると、京介は満足げに笑んだ。筆に添えた左手でぐるりとナカをかき回して、クロウの表情が歪むのを真正面から見届けて更に笑みを深くする。
「いい感じかな……っと」
京介の手が離れると、クロウは枕に頬を擦りつけて鼻を啜った。子どもが駄々をこねてぐずるように枕の両側に置いた手で敷布団をぐしゃと握って、京介を見上げる。拗ねたような甘えたような、幼いような熟したような。そんな不可思議な瞳と一度だけ視線をかちあわせて、京介は笑みを貼りつけたまま膝立ちでクロウの足元に移動する。
クロウの布団の上に落ちた小袋を一つ摘みあげて、動揺の結果動けずにいるクロウに横顔を見せながら先ほどと同じように、白く長い指がその封を切る。
「俺って、童貞じゃないんですけど」
「ん、ん……?」
「男はさすがにハジメテ、なんですよね」
クロウと同じように京介もスーツの上着を脱ぎ捨て、さらに自らの下肢の衣服も引き下ろした。何をしているのか、問うこともできないでいるクロウが瞬いて、いつしか浮かんでいた涙が枕に落ちる。白いシャツの背中は、クロウの目には驚くほど広く見えていた。尊敬するどころか、いっそ、恐ろしいほどに。
しかし振り向いた京介は誰が見ても見惚れてしまうほど優しく笑んで、クロウの腰を持ち上げた。
「俺の筆おろし、お願いしまーす。なんてな?」
「え? あ、ひぁ、ああ!?」
引きぬいた筆の代わりに、別のものが突き入れられる。高い悲鳴がクロウの喉からあがり、クロウの中に押し入った京介は息を詰めた。薄いゴムの膜など何の意味があるのか、疑問に思わせるほど強く締めあげられる性器からの感覚に耐えかねて、京介の喉からも僅かに声が漏れる。
「……っま、墨汁プレイは、さすがにね……、マニアックすぎるでしょうから」
「あ…、っああ、あっ」
「準備すんの、大変、だったんですよ?」
やや強引に腰を進め、小刻みに震わせればクロウは喉を引きつらせ、徐々に結合部分から音が漏れ聞こえ始める。京介は休むことなくクロウの奥を味わいながら、時折食いしばる唇を何度も開いて語る。
流石に男同士は大変だろうから、本来であればもっと時間をかけたかった。しかしどうにもがまん強い方ではないものだから、結局少しばかりズルをしてしまった。
crash townのマスター、ラモンはいわゆる旧友で、多少どころか相当無茶な相談もできる相手だったものだから、まず酒に色々、そりゃもう色々と混ぜてもらって。
それでひとまず引き込めても、行為に至るとなればまた不安が生まれる。そりゃもう想像するだけでも恐ろしいほど痛いだろうし、何を頑張ったところで、全ての痛みを取り払うことはできない。ならばせめて快楽で染め上げてしまえれば、と結局また薬を使った。
どれだけ薬を使ったか分からないから、正直この後で体調が心配だけど。
けれども。
「でもやっぱ、先生がっ良かったっ……ですよね……っ」
「ひゃああうっ」
ぐちゃ、と柔らかな肉が擦れる。クロウの濡れた唇が開いて、また悲鳴を上げる。快楽が理性も眠気も塗りつぶしてしまったのだろう、京介の熱を絞り取る様に締め付けながら、揺さぶられるまま、その身を震わせる。
外は寒かった。そんな事実も忘れさせるほど熱くなった体が、さらに近づいた。クロウの腰を掴んでいた京介の手が、クロウの髪を掴み、涙と唾液で濡れたその顔を枕に押しつけた。
「う……ぐぅ、うう、うっ」
「あっぶね……見たところ、あんまり壁厚くないから」
苦しげにもがくクロウの背を宥めるように空いた手で撫で、更に乱暴に腰を打ちつける。枕に吸い込まれる悲鳴じみた声に構うことなく続く行為が、クロウにとって拷問と変わらないであろう事実も押し込めて。
「ああ、そうだ……もし、…これで、先生がどっかおかしくなっても」
思いきりクロウを貫いて、京介は縋る様にクロウの体を掻き抱いた。薄いゴム膜へ自身の熱を放って、残った熱の籠った吐息をクロウの耳元でゆっくりと吐いた。ああ、と低い声が混じったのが、遂げた想いがどれほど京介にとって大きかったかを感じさせる。
それを感じるべきだったろう相手に、もう意識はなかったのだが。
「……俺がずっと、クロウが書くの好きな気持ちよりずうっと、愛してくから安心しろよ」
寝息を立てる横顔に囁きかけて、濡れた柔らかな頬に口付ける。そうしてから浮かべたのは、今まで誰に見せたよりも穏やかな笑み。
狂気すら感じさせるほどに。
「…………ふあ」
クロウはうつ伏せで目を覚ます。いつも寝巻代わりにしているジャージが素肌に触れる感触が、いつもよりもなんだかもどかしいことに気付いて、首を傾げ。
「あたま……ってケツいてぇ……?」
もそと身を起こすと、今度は下半身が痛んだ。それも、ぶつけたような痛みではない。何が起こったのかと、辛うじて布団の上に座り込んでまた首を傾げる。視界に人が映ったからだ。
仄かに青みの髪。白いシャツの背中。よく知っている、憧れの背中。ほんの僅か、腕が動いて、止まる。
「……きりゅう?」
それが彼の名。しかし違和感を覚え、クロウはまた首を傾げる。鬼柳さん、と呼んでいたはずなのだが、その単純な敬称がなぜか、違和感を感じさせて紡げなかった。
振り向いた彼が朗らかに笑う。右手にはクロウ愛用の筆。貸した覚えはなかったが、あれだけ自然に使っているのだから、貸したのだろうとクロウは納得した。彼になら、まあ、それでもいいと思ったから。
「おはよう、クロウ先生」
おはよう。そう返してから、クロウは途端に感じた寒気に自らの体を抱きしめていた。理由は一向に分からなかったが。
|