「が、…ッ」
ガシャア、と派手な音を立ててブラックバードが倒れた。腹を蹴り飛ばされたおれがぶつかって、下敷きにしたからだ。愛機を案じて立ち上がろうとしたが、その前に鬼柳の靴底がおれの腹を蹴り、そのまま胸を踏んだ。吸った酸素が吐き出されて、反射的に咽る。
「いい格好だなァ、クロウよぉ…」
にやりと笑った鬼柳が、おれの胸を踏み躙りながら笑った。耳障りな高笑い、おれの知る鬼柳の声なのに、知らない鬼柳の笑いだった。胸が痛んでいるのは分かったけれど、それが外からのものなのか、中からのものなのかは分からなかった。
おれはまだショックを受けてるんだと思う。鬼柳の足をよけることも出来ず、呆然と見上げた先の黒と、くすんだ黄色、まるで金色、あの金色だけはどこも変わっちゃいないのに。歯を食い縛れば胸は益々痛んだ。拳を無意味に握った瞬間鬼柳の足が退けられる。あ、と言う間もなく胸倉を掴まれ持ち上げられる。
「んん、クローォウ? 顔もいーい感じじゃねェか」
「き、りゅう…ッ!」
「ああ、ひっでえなァ…マーカーも増えりゃいいってもんじゃねえのにこォんなに」
人間離れした眼がおれの顔を舐めるように眺めたかと思うと、額のマーカーに口付けられた。昔と同じなのに、その唇は記憶にあるものより冷たい。目元、頬、と唇が触れられれば涙が出そうになった。嬉しいんだか、怖いんだか、もうごちゃ混ぜだ。天下のクロウさまが情けねえ、こんなところ、ガキどもには見せられねえ。
「痛かったろう…かわいそうになあ、オレの、可愛いクロウ…」
鬼柳の舌がおれの唇を舐めた瞬間、反射的に身を縮めてきつく眼を閉じたけれど、体が宙に投げ出されるのを感じてすぐに開けた。
「き、鬼りゅ、うッ」
地面に背中がついたら、後退ることはできない。肩を押さえつけられたら、転がって逃げることすら出来ない。逸らそうとした顔も顎を押さえつけられたら、逸らせない。
唇が震えて舌が絡まって、重ねられた唇を拒絶することも出来ず受け入れる。噛み付いてやってもよかったはずなのに、おれの中の何かが、そうすることを戸惑わせている。差し入れられた舌が強張ったおれの口内をぐちゃぐちゃに荒らす。そうなって、とうとう涙が零れた。
昔から乱暴なところはあった。でも、こんなのはやっぱり違う。
鬼柳、鬼柳。なあ京介、どうしちまったんだよ。おれは、お前ならいいやって、こんな気色悪いこと、でもお前だからいいやって思ってたんだ、なのに、なあ、なんでこんなことになっちまったんだ、なんで。
「ん、ぅあ、……う、…すけ、」
鬼柳の舌が俺の口内の熱を奪っていくようだ。冷たい指が首を撫でて、いつの間にか捲り上げられていた服の中も探られる。確かめるようにゆっくりと撫でながら、鬼柳は少し笑ったらしかった。舌が引き抜かれて、代わりに冷たい空気が飛び込んでくる。
「あァ、そうか…背ェ伸びたんだなァ……」
「……ッ」
見開いた目の中に、鬼柳がふたりいた。
男にしては白い頬にマーカーなんてなくて、おれと同じ人間らしい白目の中に浮かぶ金色の瞳の鬼柳。
人とは思えないほど青白い頬に赤いマーカーを走らせた、夜闇の眼の中心に、月のような金を浮かべた鬼柳。
「背が伸びたんだな」。同じ顔の違う鬼柳が、同じことを言った。
もう駄目だ、涙が止まらない。情けなくたって構わない、京介、京介、きょーすけ。心のうちで叫んで、俺は鬼柳にしがみ付いた。赤いシャツの上に羽織った黒い半袖の上着を掴んで、ひたすら呼ぶ。今までこんなに我武者羅にこの名を呼んだことなんてなかった。鬼柳が嫌った呼び名。機嫌がいいときだけ呼ばせてくれた名。おれがこう呼ぶと、甘えられてるみたいだと笑っていた。おれはバカかって呆れた。
でも、嫌なわけじゃなかったんだ。バカなのは、おれだったんだ。
「なんで、なんなんだよ、なあ京介、京介ぇ、ッ」
「……るっせェんだよッ!」
思考が一瞬で吹き飛んだ。右の頬が熱い、マーカーを刻まれたときを思い出すくらいに、痛い。平手で頬を打たれたと気付いたとき、おれの目に映る鬼柳はひとりに戻っていた。俺の手は、あの鬼柳を捕まえられなかったんだと、思い知る。
「きょう、…すけ」
「泣け、喚け、許しを請え! 可愛い声でなぁ! ……それ以外は許さねえ……絶望に染まった眼で俺を見ろ、クロウ! ヒャァ、アハハハハハッ!」
「……ぁ、!」
ベルトのバックルを外されて、一気にズボンを引き降ろされる。中途半端に前を開いた状態で引かれたものだから、下着も引っ掛けていった。下半身が外気に晒されて身震いするおれを見下ろして、鬼柳は舌を舐めずった。
片足にズボンを引っ掛けたまま脚を広げられ、その間に鬼柳が膝立ちになる。羞恥心から両手で顔を覆い両足で宙を蹴り上げれば、舌打ちをした鬼柳の手がそれを押さえつけた。指が食い込んで痛い。
この細腕のどこにそんな力があるのかと、昔からずっと疑問に思っていた。そんなところばかり変わっていない鬼柳。にやにやと、とんでもない格好のおれを見下ろす。照れもなければ戸惑いもない。おれを安じる言葉もない。さっと血の気が引いたおれの顔なら、今の鬼柳と比べられるだけ青白いだろうか。
「やめてくれ、もう…鬼、柳…ッ!」
「あぁん?聞こえねェなァ!」
地面に背中を擦りながら逃げようとするが、足を捕らえていた手が急に腰を掴んできた。ひあ、と裏返った声が上がる。精一杯の力で体をずらしていた両腕は、鬼柳が愉しそうに笑ったのを見て数秒後、その力の矛先を変えることになった。
気温になじんだ下半身の、一番敏感な箇所が急になにかに包まれる。
「ぁ、っぅあ!」
びくりと体が跳ねた。視線を下げる事が出来ず目を閉じる。何が起こっているかは感覚でわかった、分かりたくもなかったが、鬼柳がおれの、晒されたあれを、咥えた、のだ。
突然の展開に思考はついて行かず、強張った腕は意味もなく地面の上で彷徨い、爪先が砂利をかき集めた。開かれた腿が今更、急所を守ろうと閉じられる。もちろんそこには鬼柳がいて、鬼柳の頭があって、無意味な行動に終わる。それどころか、鬼柳の頭をより押し付ける形になってしまった。
「……おーおー…大胆だなァ……」
「あッ、う、やめ…や、」
いったん口を離した鬼柳がくく、と笑う。そのかすかな空気の振動ですらダイレクトにおれを揺さぶる。反った喉が外からでも分かるくらい、震える。吸い込んだはずの空気が肺まで届いているのか不安になるほど、すぐに飛び出していく。涙は零れて止まらない、擦れる背中か小石の入り込んだ爪の間の痛みか鬼柳がつくる感覚のせいか。
嫌なのか、それとも、イイ、ってのか。
頭を振って、ぐしゃぐしゃに違いない顔を腕で覆い隠した。情け無い声をあげる口も塞ごうと思っているのに、腕は二本とも目元しか隠してくれない。声が聞きたいと、普段よりずっと優しい声で一度だけされた懇願を、二本の腕はしっかりと覚えていた。こいつはもう違うっていうのに。拳を握り締めれば、手の平にくっついていた砂といってもいいくらいの小石がパラパラ落ちた。
鬼柳がおれの脚を分けて、顔を上げた。開放されてもおれのはたち上がったままだって自覚はあって、それどころかまたひやりとした空気に包まれたことに驚いて反応したことも分かっていて、それが余計におれから力を奪っていく。これ以上の恥なんてそうそう無い。
わざとらしく音をたててしゃぶられたかと思えば、形を確かめるように舐め上げられる。先端に舌先をぐりぐりと押し付けられて、片手で根本を強く握られる。冷たい空気を吸い込んで、諦めればすぐに吐き出してしまいそうな衝動を必死に押さえ込む。零れる声をどうにかする余裕なんて、なかった。
「クロウ」
先端をぺろりと舐め上げて、その舌を、唇を動かしておれを呼ぶ。鼓膜をじかに舐められたような生温い声。怯えて声をあげるおれを嘲笑うかのように、鬼柳の指はしっかり形を作ったおれの、それを、なぞる。嫌だ、それすら言えずに首を振る。ガキみたいだ、って笑えそうで、全然笑えねえ。
声で返す前に、いきなり両脇の下に手を回されて抱え上げられる。子供を抱き上げるみたいに。見上げた鬼柳の目は爛々と輝いていて、何か楽しいこと、鬼柳曰く満足できそうなことを思いついたときの顔をしていた。抱きしめられるような形で引きずられるように運ばれて、その衝撃すら刺激になるほど弱くなった体が悔しくて、唇を噛む。すると突然、今度はうつぶせになるよう突き飛ばされて、思わず悲鳴をあげた。
「な、何、ッ」
「D-ホイールってのは便利だよなァ」
「は……?」
完全に倒れることはなく、おれの体は腹に触れる冷たい何かに支えられていた。少なくとも鬼柳の手ではない、ならば何かと瞬いて、おれはすぐ状況を知った。鬼柳のD-ホイールの車体を横から抱え込む形でおれは辛うじて立っている。右を見れば、電源が点いたばかりのモニターが見える。ブラックアウトのモニターには、まだ、何も映らない。
「お前の巣で待つ可愛いガキどもに届けてやるのもいいよなァ……テレビも機材もあったみてェだし、送ってやれば何度でも見られるな、大好きな『クロウおにーちゃん』をよォ」
鬼柳のD-ホイールのモニターに鬼柳とおれが映る。はっきりと。
鬼柳のバイクのサドル部分にうつ伏せで押さえつけられているおれは、間違いなく今のおれだ。呆然と見詰め合う見慣れた顔。片隅に映る鬼柳はニヤニヤ哂っている。その手が何やらモニターの周辺を操作すると、小さく電子音が聞こえた。
おれの脳味噌は、鬼柳の発言を繋いで答えまで運んでいく。
映像を、届ける?
通信機能では、あいつらのところには届かない。でも、録画した映像なら見る術はいくらでもある。まさか録画でもする気かと思い至ってぞっとした。いや、ぞっとしたのは録画云々の話じゃなく、鬼柳がアジトの状況を言い当てたことに対してだ。
こいつに、知られている。あいつらのことを。
「成長すりゃ性教育も必要だろォ? 身をもって教えてやれよ、『クロウおにーちゃん』?」
カメラがあるだろう箇所に顔を近づけられて、無理に捻られた体が痛む。抗おうと振り回した両手は鬼柳のD-ホイールを叩いたが、鬼柳に届くことは無かった。
突如訪れた先程までとは比べ物にならないほどの衝撃と痛みに、悲鳴すらも掻き消える。
「ひ、……ぐ……っ」
「あァ……?面倒臭ェなあ、ギチギチじゃねえか」
晒された下半身は、そういえばずっと鬼柳の目の前にあった。普通は考えもつかないような場所から、普通は考えも付かないモンが入りこんでくる、苦痛。開始の合図も無く始まった行為が中断するのも再開するのも、鬼柳の手にゆだねられている事実を思い知らされて唇を噛む。
おれが抗ったところで、きっとこいつを楽しませるだけだ。けれど抗わないわけにもいかない。インナーシャツが少し捲れ上がったところから露出した腹は当然D-ホイールより熱くて、その温度差に身を竦めた。
「キツ……っク、クク、アァハハハっ、だけど愉しいなあ、なあ、クロウよぉ!」
ぐりぐりと中に押し付けられる。鬼柳の肌の色とは対照的に、熱を持ったそれが。しかし同じように触れているほかの箇所、例えば指だとか、今腿を掠めた足だとか、そんなものはおれより冷たい。突き入れられたそれだけが熱くて、リアリティに欠ける。ああ、でも、痛えもんは痛え。
「ちゃんと締め付けられてんだって分かんだよ、ククッ、嬉しいぜェ! もう二度と味わうはずなかったのになァ! クロウ、たまんねえぜ、相変わらずなあ!」
笑いながら、鬼柳が腰を打ち付ける。おれはただ唇を噛んで耐える。けれどそれももうすぐ終わる、いつだってそうだ。情けないほどおれは、痛みには強いが、快楽には弱い。そういう身体になっちまっている。そうあることで、無意識に自分を守ってきた。望まない行為を幾度強いられたことか、実際におれは覚えていない。
鬼柳、京介のときは違った。最初は困惑して、暴れて、拒んで、そこまでは一緒だったけれど。京介はただ静かに、おれに謝罪した。
おれをののしりながら、あるいは気色悪いくらいに褒め称えながら笑っていた、他のやつらとは違った。謝るくらいならすんなと叫ぶおれに、京介はさらに謝った。そして、
「……クロウ、好きだぜ……」
モニターに映るおれの目から、涙が落ちた。
「好きだぜ」。耳元で囁かれた、こんな状況には場違いな言葉に。きっと哂いながら吐き出されたであろう言葉にでも、おれの防壁は崩壊した。血の味を感じながら、唇を開く。わかっていたことだ。おれはまだ、こいつに、かつてのこいつを見ているのだから、こうなることは。
「なあ、だから可愛く鳴けよ、なァ? っく、ハハハッ」
「ッ、ふあ、あ!」
決壊してしまえば流れるだけだ。鬼柳の声にすら縋るように快楽を探すおれの感覚は、次に与えられた強い快楽に簡単に喰らいついた。唇の端をぬめった液体が塗らす。おれの血か涎か、どちらにしても最悪だった。
「ぁ、あッゃめっ、は、ああ、ぅぁあーッ!」
ぐちゃぐちゃとかき回される音を聞きながら、視界の端で闇の中で仄かに光るものを見つけた。ブラックバードのモニターが、点いている。倒れた衝撃で点いたのかもしれないが、可能性は低かった。もっと高い可能性がすぐ目の前にある。鬼柳の、モニター。
こいつの作動に連動して、ブラックバードのモニターが点いたと考えるのが自然だ。なら、きっとあそこに映るのは。
「いやっ……だ! きりゅうぅっ、嫌だ、止め、」
「よぉし、調子出てきたみてェだなァ!」
汚される。おれの翼が。おれがどれだけ汚れても黒く輝いていたおれの翼の眼に、こんな汚えおれが映ってる。やめてくれ鬼柳、おれは嫌だ、こんなおれを見るのは、お前だけでいい。お前だけでよかった。
鬼柳が何を言っているのかすら理解できなくなった頭で、そんなことばかりを考えた。いや、考えられていたのかも分からない。閉じられなくなった唇から拒絶はどれだけ吐けただろう。まだ吐けているか、分からない。
わからな、
目の前、が、点滅、する、
モニター、
みたい、
に。
あか、くろ、
あお、きんいろ、しろ、
くろ、
し、ろ、 。
「なぁんだよ、きったねえなァクロウよぉお!」
鬼柳が笑うのを聞きながら、からだがガチガチに強張って、跳ねる。
溢れた唾液を今更ながらに飲み込めば、からだのおくで脈打つ異物の存在が、はっきり感じ取れた。二箇所に固まっていた熱は、今は一箇所だけからしか感じない。心臓に突き刺さりそうな、熱だ。鬼柳の。熱。
「……あぁ、う、ぅ」
「なんだ? 泣いてんのかぁ? 可愛いじゃねえかよ、ほら、もっとちゃんと見せろよ、ん?」
鬼柳の手がおれの顎を掴んで顔をカメラの方へ向ける。モニターに映ったおれの顔はひどいもんで、どこを見ているんだか、何を考えているんだか、死んでるんだか生きてるんだかわからない、そんなもんだった。鬼柳は満足気に息を吐くと、おれの中にまだ居座っていた熱をまた奥へと進めはじめた。がたがたとおれが揺さ振られればD-ホイールも揺れる。このまま転倒してくれたらいったんは開放されるだろうか。そう思って自分でも体を揺らしてみたものの、それには結局鬼柳がおれに与える苦痛と快楽を割り増しする効果しかなかった。何やってんだろう、おれ。
そうしているうちに、おれの中で鬼柳が一際確かに反応した。間を置かず、体の中、妙な位置に、遡る熱を感じる。どろどろした嫌な熱だ。これならさっきまでの方がずっといい。でも相変わらず鬼柳はこっちの方が好きらしい。かき回されて中で出されて本来の使い道を想像させないほど違うもんになってるそこに、飽きずにまだ形を残すそれを出し入れし始める。
おれはああ、とか、うう、とか、言ってたと思う。でも、そこからは覚えていない。
気付いたら、悪路を走る鬼柳のD-ホイールの後ろに無理矢理詰め込まれてた。服は着せられていたけど、中も外もそのままだ。そのままどころか、記憶に残っているよりひどい気がする。ということはつまり、服はすぐに用済みになるんだろう。どういう形で取り払われるのか想像するのも疲れて、おれはまた、眠ることにした。
ブラックバードのモニターは、もう消えているだろうか。
ごめんな。
汚しちまって、ごめんな、おれの翼。
|