明りを消したガレージで、整備を終えたブラックバードに寄りかかり、今はすっかり使い慣れた携帯電話を開く。整備を手伝ってくれた遊星も、ブルーノも、ジャックも、今はみんな眠りにつくため部屋に上がっていった。みんな真剣に協力をしてくれたから疲れたのかもしれないし、明日のデュエルを思ってブラックバードを見つめるおれに気を使ってくれたのかもしれない。どちらにしても、明日、改めて礼を言おう。そう思いながら、携帯の画面に表示された時計を見つめる。もう数分で日付が変わる。何度確かめても時間は当然過ぎるばかりで、おれはゆっくり息を吐いた。
「無理だな」
携帯を閉じて、天井を見上げる。明かりの消えたガレージにずっといたせいで、もう見慣れた天井の構造は良く見えた。過去を思い返すのは一日でも十分すぎて、毎日が一瞬だったなんて、そんなことまで考えながら目を閉じ、ぽんと携帯を放り投げた、ら。
「っお!?」
思わず大きな声を上げてしまったことに自分で驚きながら、受け取った携帯電話を見つめる。バイブレーションだけで伝える着信はどうやら思い出や空想、幻覚でもない。うそだろ。唇だけで呟いて、どれくらいそれを見つめていただろうか。ずっと手の中でそれは震えていたから、そんなに長い間じゃなかったと、思いたい。
「き、きりゅう!?」
電話の向こうで、くっくと笑う声。すこしこもって聞こえるけれど、確かに鬼柳京介の声。
「おまえ、おま、何してんだ!?」
『起きてるだろうと思ってな』
「なんでっ……」
言いかけて、気づく。それぞれの寝床になっている部屋の方へ視線を向けてみるが、人影は見えない。おれは携帯を握りしめて、意味もなく振り上げた手をそっと下ろした。99パーセント遊星だ。それしか考えられない。
『デュエルすんだって?』
「おお……お前それ遊星から聞いたろ」
『それしかないだろ』
やっぱりか。空いた手で額を押さえたが、怒っているわけじゃない。ああやっぱりそこまで読まれていたんだなと思うと、自然と頬が緩む。優しいどころか甘くておせっかいが過ぎる幼馴染のこと、きっと事情も状況もある程度は伝えているんだろう。それでも嬉しいと思うのは、きっと自分で口にするのが、少し怖かったからだ。
「……相手、ボルガーな、すげえデュエルするやつなんだ」
『そうだろうな、お前に挑むくらいだから』
鬼柳は問わない。おれにかける言葉を探してか、おれがかける言葉を待っているのか、黙っている。昔はもっと捲し立てるように口を開いていたはずなのに、今は見えないおれの姿を見る代わりに、声から知ろうとしている。
壊れないように、壊さないように。伸ばせない手の代わりに何を差し出すか、鬼柳はきっと考えている。その方法を、その意味を知ったから。
「継げてんのかなぁ、おれは、あいつの意思ってやつをさ」
遊星は頷いてくれた。だからおれも、きっとそうだと思ったばかりだ。
でもなぜか、沈黙を破ったのはそんな言葉だった。言ってからはっとする、こんな弱気はらしくない。これじゃまるでそんなことはないって言われたがってるみたいじゃねえか!
「っきりゅ、」
『継ぎに行くんだよ、お前は』
今のは忘れてくれ、言いかけたセリフを遮った穏やかな声。
『俺だってそうだった。デュエルの中で、きっと答えは見つかる。……何より鉄砲玉のクロウはまず突っ込んでいかなきゃ、だろ?』
鬼柳が、小さく笑ったのが分かった。途端にすとんと、自分の中で何かが落ちる。ピンときた。ちょうどはまった。
「あ、そっか」
つい、そんな声あげちまうくらいには。
『そーだよ』
からかうように鬼柳が言って、見えないとわかっているのにおれは頷く。見えているみたいに鬼柳は笑う。 あ、ちくしょう。
「……なんか、悔しいなくそ、鬼柳にそれ言われちまうとっ」
『何だよそれ?』
「なんだよチクショー、バカヤロー」
『ひーっでえ』
言いながらおれも鬼柳も笑っちまって、あとはもう会話になんてなりそうになかった。首を振って、笑って、しゃがみ込んで、深呼吸してまた笑って。そう言えば、気づけば背筋を伸ばし過ぎていたような気がする。背中を丸めて、膝を抱えて、携帯を持つ手に力を込めて。
「鬼柳」
その名前の音とリズムが、好きだった。強張った身体から力を抜いてくれる。
「京介」
その後で笑顔をくれる。鬼柳京介。めったに呼ばないフルネームが、おれは好きだ。息を吸ったら、鬼柳がああ、と遅れて答えてくれた。また、ぴんと背筋が伸びたって窮屈さなんてどこにもない。鬼柳がくっくと笑う。そうだな、これを言ったら電話を切ろう、よし、決めた。
「……鉄砲玉のクロウ様、弾けてくらぁ!」
デュエルが決着しても、ブラックフェザー・ドラゴンは消えなかった。黒く染まった羽は白に戻ったが、受けた痛みは、消えない。
「……ボルガー」
俯いた友人に、声は届いただろうか。クロウは唇を噛み、メットを外した。バイザーを介さず見たブラックフェザー・ドラゴンの翼は眩しいほどに白く大きい。クロウはデュエルモードを解除し、その翼が消える様を見届けてからブラックバードを降りる。
「ピアスンは、おれに何も言わなかった……」
ボルガーが顔を上げた。三年たってすっかり大人びた顔は再開の時と比べ物にならないほど弱く見える。フィールドに出されたブラックフェザー・ドラゴンのカードをとる。白いシンクロ枠のカードに描かれているのは、すべてを抱えた黒い翼。
「おれに、何も、言わなかったんだ」
踏み出した一歩が想像より重く、クロウはそれでも前へ進んだ。距離はほとんどない。カードを手にした右手を前に差し出せば、もうボルガーの手が届く距離。
「……何の真似だ、クロウ……!」
「ピアスンは、あんたのこと、言わなかったんだよ!」
張り上げた声が震えて、クロウは再度唇を噛み締めた。息を吐くだけで猛烈な疲労感が襲う。味わったことのない感覚に翻弄されながらがも、クロウはさらに一歩を踏み出した。
「ピアスンはあんたの夢も知ってたんだっ、だからっ」
ボルガーの手を取ろうと左手を伸ばして、その瞬間に全身から力が抜ける。膝をついた瞬間全身を走った痺れまでは知覚できた。ボルガーが自分を呼ぶ声がガタガタに震えて裏返っていたことを、笑ってやろうと唇の端を持ち上げた瞬間、クロウの意識は途絶えた。
「なんだこりゃ」
目を開けたクロウの前には、何もなかった。闇ではない、黒。先ほどまで感じていた体の痛みもなくなっていたので、試しに歩いてみる。足音は黒に飲み込まれて、聞こえない。足が地についているのかどうかも分からない感覚に戸惑うクロウが顔を上げると、不意に映った白。
あ、と声を上げる間もない。左右に広がる大きな白は、確かに先ほどまで見ていたものだ。
「ブラックフェザー・ドラゴン……」
名を口にした瞬間、竜の眼が紅く光り、高く、咆哮した。大きく羽ばたき舞い上がった瞬間感じた風が、唐突にクロウの感覚を引きもどす。解放を喜ぶように宙を泳ぎ、再度クロウの前に降り立つと頭を下げる。触れてくれと言わんばかりに、その鼻先を近づけて。
「クロウ」
伸ばしかけた手を、クロウは止めた。ブラックフェザー・ドラゴンの後ろに、誰かがいる。それが誰であるか、声だけでクロウは理解していたのに、何も言えなかった。
足音が聞こえる。先ほどまでゼロだった足音が。そして見えたくたびれた上着と、癖の強い赤茶髪。現れた男は緩く笑い、腕を組む。
「マーカーが増えたな。やんちゃのしすぎだ」
「……ピアスン」
こんなに穏やかな声の持ち主だったか。そうだ、穏やかな声もしていた。クロウは呟いた名の持ち主の鮮明すぎるほどの記憶を重ね、また言葉を無くした。ピアスンが近づいてくる。作業場をあちこち歩き回いていた同じ靴音。懐かしいはずの音は優しくクロウの聴覚を刺激する。反響がくすぐったい。駆け寄ろうとした足は張り付いてしまったように動かない。痺れを切らしたのか、ブラックフェザー・ドラゴンがクロウの肩に顎を触れさせた。翼を下げて畳む姿は、鳥が羽を休める様にどこか似ている。
こつ。足音が止まり。慌てて顔を上げようとしたクロウの頭の上に、大きな手のひらが置かれた。
「……辛い思いを、させたな」
声を潜めた理由は何なのだろう。クロウは目を見開いて、ぎゅっと唇を結んだ。
「守ってくれたな。君も、どれだけ傷ついた?」
クロウは首を振る。ブラックフェザー・ドラゴンはクロウの肩を叩いて頭を持ち上げた。流れる毛がクロウの耳をくすぐって、離れる。
「おれは、何もっ」
言いかけて、クロウは息をのむ。首の後ろに回された太い腕に引き寄せられて、背中に回った腕がクロウの体を締め付ける。頬を押し当てた胸は熱くて、ますますここがどこなのか分からなくなる。背中にまた別のものが触れた。振り返ることもなく、クロウは気づく。ブラックフェザー・ドラゴンが首と翼を伸ばして、クロウとピアスンを抱き込むように包んだ。
「辛、かった、なぁっ」
クロウの頭の上から聞こえるピアスンの声は、耳を疑うほど震えていた。クロウ、と呼ぶ声も酷いもので、呼ばれたのかすら確認が必要なほどだ。クロウは首を振った。首のあたりを押さえつけられているせいで、身動ぐ程度で終わってしまったが、何度も、何度も、機械油のにおいがする彼の胸に頬を擦りつけた。
「理想を、私を…押しつけた、っな、クロ、ゥ」
「違ぇ、違えよ、おれはそんなのっ」
「ああ。ああ……そうだなぁ」
そんなに泣かないでくれ。言おうとした言葉が、喉でひっかかって出てこない。どうしてだろう。ピアスンの腕に押し当てた右手を握って、クロウは気づいた。
左手で、空気に触れた頬を撫でる。指先に触れた水滴。あれ、と間抜けな声を上げて、クロウは口を開いた。
「……おれ……っは、ぁはは……何だぁ、これ」
ピアスンが、抱きしめる腕にさらに力を込めた。ピアスンを引きはがそうと慌てて伸ばした腕はそれに遅れてしまい、ただピアスンの胸を叩く。
「はなせピアスン、はなせ、ぇっ……」
自分の声まで震えたのに気づいて、クロウは必死に奥歯を噛んだ。目の奥と鼻の奥が熱い。鼻を啜ってみると余計に熱い。泣いていることを自覚してしまえば、もう口を開くことはできない。無言でピアスンの胸を叩き、放してくれと訴える。夢なら、夢なら覚めてくれ。
「っすまなかった……」
きっと自身も呼吸を整えようとしているのだろう、吐き出した息に乗せられた謝罪に、クロウはまた振れない首を振った。
「伝えてやれなくて、すまなかった……!」
首を押さえつけるように力を込めていた腕が動き、大きな手のひらがクロウの頭を掻きまわした。子供じゃないのだからとクロウが嫌がるのを知っているはずなのに何度も何度も繰り返し、クロウの頭をさらに強く自分の胸に押しつける。
クロウは瞬時に理解する。子供たちに。自分に。そしてボルガーに。
伝えきれなくてすまなかった。
「……っえ」
開いた口からすぐに言葉は零れなかった。クロウの両手が、ピアスンの薄汚れた若草色の上着を掴む。
そんなことない。そんなことはないんだ。もっと早く気づけばよかった。分かってたのに。分かってたのに!
「ごめ……ごめんな、ごめんなぁぁ、ぴあす、ぅえ……っ」
衝動は、放たれてしまえば止まらない。目を閉じていても流れる涙をどうにかしたくて一度開いた目で見える世界は、相変わらずの黒だった。ぼやけた黒に、赤が見える。ブラックフェザー・ドラゴンの翼。徐々に黒く染まっていくそれが、どの痛みを受け止めたのか。考えるまでもなかった。
「ぅああぁぁあっ、っぅえ、う、ごめ、ぇっぐ」
掴んだ服がぐしゃぐしゃになっても、ピアスンは責めなかった。責める余裕がなかったのかもしれない。クロウの慟哭を受け止めているのは、ドラゴンの翼だけではない。クロウの両腕が背中に回っても、ピアスンは微動だにしなかった。クロウの声を逃さないように、自身はただ黙って、頬を伝う涙をぬぐうこともせずに。
「おれっ、ちゃんと、やってっから、守る、からっ」
嗚咽に負けじと紡ぐ誓いを、ピアスンは一言も逃さなかった。そして最後に、呼吸を整えたクロウが吐いた言葉を、繰り返す。
「ありがとう」
ありがとう。
今まで、それから、これから。
「クロウ!」
「あ……え?」
名を呼ばれて目を開ければ、見えたのは親友。左頬にマーカーを刻んだ、同い年のチームメイトの顔があった。
サーキットの中心に仰向けに横たえられていることに気づいて、クロウはひとまず体を起こす。遊星がその背にすかさず手を回して支えた。ジャック、ブルーノ、その後から破損したブラックバードの翼を抱えて子供達が駆けてくる。彼らがクロウを見つけてぱっと笑みを浮かべたのを見て、無意識にクロウも笑みで返した。
「体は痛むか?」
「え、……あ、いや、良く分かんねえ……なんかビリビリしてっけど……」
「頑丈だけが取り柄とはいえ、相手は未知のカードだ。病院にでも行ってこい」
遊星の問いに答えると、腕組みをしたジャックは淡々と述べて、役目は終わったといわんばかりに横を向いた。その言葉に頷きかけて、クロウははっとあたりを見回した。遊星。ジャック。ブルーノ。子供たち。
「ボルガー、は」
一度安堵の表情を浮かべた遊星が、眉根を寄せて不安げに表情を歪める。そして戸惑いがちにカードを一枚取り出した。
「……これを残して立ち去った」
黒い翼の竜。ブラックフェザー・ドラゴン。ピアスンと対峙したことに後悔はない。それがあれば会社を救える。そう言っていた彼が、残していった。
クロウはカードを受け取り、目を閉じる。ボルガーの唇が謝罪を紡いだ時から、本当は分かっていた。ボルガーが内に秘めていた後悔、ピアスンが内に秘めていた後悔、そしてクロウ自身が抱えていた過去、すべてを翼の黒に変えて、この竜は姿を現したのだ。
もう歯車は止まらない。動かしてしまったから。
「従業員に話をして、明日、自首するらしい」
「……そう、か」
やっぱり、とは言わなかった。無意味に目の前の星の数をやっつ数えて、黒い翼を指でなぞる。クロウは何も言えなかった。鉄砲玉と呼ばれるほどまっすぐに駆けてきたことに悔いはない。守りたいものがある。それを守っていく決意がある。それで十分だと、確かに思っている。けれど。
「お前に、感謝していた」
顔を上げると、遊星は微笑んでいた。クロウと目が合うと、更に笑みは深くなる。そんなに可笑しな顔をしていたのかと思い、両頬を手で軽く叩いてみる。
「後悔できたことが、嬉しいと」
クロウは両手を下ろした。深く吸った息を吐くと途端に力が抜けて、俯くと目尻が濡れるのがわかったので、両手をついて空を見上げた。駆け寄ってきたヒカリが、そっと近づいてきてクロウの手の甲に手の平を置いた。それに続いて、子供たちがぞろぞろとクロウを取り囲む。クロウの心情を察したのか、笑みを消してじっとクロウの反応を待っていた。クロウ兄ちゃん。いつもは明るく呼ばれる名が、弱い。
「ん、病院。行ってくらぁ」
クロウはただ一言告げて、笑った。子供たちがまた笑ったので、クロウは一人の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
夢の中で自分がされたように。
日も暮れて、壊れた家屋の修理から戻った京介は受話器を片手にあたりを見回していたニコを見つけて首を傾げた。
「あ、鬼柳さん! よかった」
名を呼ぶ前に鬼柳を見つけたニコは、一度受話器を置いてぱたぱたと軽く駆けてきた。そして喜びをそのまま笑みに変えて告げる。
「クロウさんから、お電話です」
京介は頷くと同時に、電話機に向かって走った。
「……こちら、鬼柳京介!」
『おー、お疲れさん』
「……お前こそ、お疲れさん」
電話の向こうの声は明るくて、京介は自然と笑みを刻んだ。壁に寄りかかり、次の言葉を待つ。
『終わった。そんで、……これからまたはじめる』
「……そっか」
そこでまた、間が出来た。京介は受話器を持ちかえて、足を交差させて待つ。
『何が、って聞かねえのかよ』
「言うなら聞く」
『何だよそりゃ』
電話の向こうでクロウが笑った。それがわざとらしく聞こえたので、京介はしばし考える。ふうん。一度、興味のない振りをしてから。
「今度、聞かせてくれよ」
『……え?』
「なんだっけ。俺が知らねえ、お前のダチの話」
クロウが完全に発言をやめた。何かを考えているのか、ただ、言葉を失ったのか。声だけですべては悟れない。
「決めた。聞きに行く」
目を見て話そう。それが早い。京介は頷いて、もう一度繰り返した。今度は違う言葉で。「会いに行く」と。
『は? だってお前、そっち』
「来てくれてもいいけどな」
くつ、と笑えばクロウは息をつめて、ゆっくり、ゆっくりと息を吐いた。
『上手く話せねえこと、ばっかだ』
「構わねえよ」
『他の奴らに、余計なこと言うなよ』
「独り占めだな」
ばかやろう、とクロウが叫んだ。けれど、京介の脳裏に浮かんだのは笑顔だ。ちゃんと笑った。
「日程決めて連絡する。ま、お前の方が早かったら連絡くれよ」
クロウは言い返さなかった。小さく一言、おう、と答えただけ。きっと少し困った顔をしている。悪戯心が沸いた京介は、ぺろと下唇を舐める。きっとクロウも電話を切るタイミングで悩み始めるころだろうと踏んで。
「泣いてくれてもいいんだぜ」
『阿呆!』
会えるのならば電話はいらない。罵声と一緒に切られた電話を戻して、京介は振り返った。ニコとウェストが、並んでこちらを窺っている。早いものでその手には、家にあったという旅行鞄がひとつ。パチと瞬いて、京介は肩を竦めた。
「……満足してくるぜ」
「いってらっしゃい!」
京介はもう一度電話機を見た。電話を待つ必要もなく、すぐに折り返しかけることになりそうだ。
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