☆☆☆ ミルク(余裕な町長とデレた配達人)
ベッドの端。ただなんとなく、気まずくなったという理由でクロウはじっと、手の中のデッキを繰っていた。どうしてかは分からない。ただ、今日この日にやってきて、二人っきりになった。その事実が、妙に重くて。
鬼柳も同じなのだろうか。ちらと横を見ると、さっきよりも少し近くにいる。少しずつ、距離を確かめるように近づいてきている。
「…さっきから何なんだよ」
クロウがそう聞こうとしたのは、三度目。まさに三度目の正直だった。鬼柳は待ってましたと言わんばかりに微笑んで、一気に距離を詰めてきた。肩に回る手。寄せられる体。
「未来の嫁があまりにも冷てーんで、満足できねえでいる」
「へーそりゃ大変だ」
一番上のモンスターカードを、一番下に。次のマジックカードを下に。使いこなしている自らのデッキをこうしてくるくると眺めることに意味などないと、同じデュエリストである鬼柳は勿論知っている。
知っていながら黙っていた。クロウは舌を打った。乗せられてしまった。目の前で色を変えるデッキを見下ろしたまま、クロウは口をとがらせる。く、と鬼柳は笑った。
「でもさ、今日会いに来るってのは、意味があったんじゃねえのか?」
「ってめ、何言って」
乗った途端に耳元で投下される爆弾。逃げ道はあった、あったはずだ。なのに、クロウはつい、デッキを回す手を止めて、舌をくるくる回してしまった。
「期待してんじゃねーよ、そもそも策略だろ、業界の策略だ、乗っかる方がどうかしてるし、期待する方が願望まみれっつーか恥ずかしい奴っつーか」
「今日が何の日かってのは、きっちり分かってるんだな」
頬を擦り寄せてくる、鬼柳は機嫌がいい。どこまで引き出そうとしているのか。腰のデッキホルダーは二つ。手の中のデッキを入れていたケースを片手で覆って、クロウは奥歯を噛んだ。
抱き寄せられて、頭の上に顎を乗せられて、背中に腕を回される。クロウが動かないので、体勢は鬼柳の思うがままだ。デュエルと同じ。絶好の機会を逃すのは、性に反する。
クロウは片腕で鬼柳を押しのけ、デッキの入っていないデッキホルダーから、アルミのコインを取りだした。
「あ、ぁじわって食えよ!?」
鬼柳の口に向けて突き出されたコイン。強く歯を立てれば簡単に割れる、アルミの包装。これは何かと問うほどに、鬼柳も無粋ではなかった。
コインチョコレートを差し出してくるクロウの手は鬼柳の手に取られ、そのまま正面から抱きしめられた。髪を撫でて、名前を呼ぶ。甘い声に、手の中のチョコが溶けるだとか、何がしたいんだ、だとか、言おうとした言葉は、溶けてしまう。
「俺と同じ匂いする」
背中に降りてきた手。耳の端に落ちる口付け。
鬼柳が部屋に戻る前に、慌てて飛び込んだ風呂場でシャンプーを使い分ける暇などなかった。起きっぱなしのトリートメントと間違えかけたくらいだ。持ちがいいからと置いてある固形石鹸を床に落としたのがばれないように、めいっぱい泡立てたくらいだ。仕方がないこと。
気付かれても別に良かった、なんて、クロウは認めるつもりはない。
「あ、っくあ、ぁ…!」
横たわったベッドの上で、綺麗に身ぐるみを剥がされて、石鹸の香りが残っていた体を曝け出して、クロウは喘ぐ。念入りに解す必要を無くしていたそこに、鬼柳は嬉々として飛び込んできた。
チョコレートはとっくに鬼柳の腹の中。半分は、クロウに押しつけられた。溶けたチョコレートの甘さはまだクロウの舌を離れない、それなのに、行為は思考を焼き切るほど。
「ふ、っあ、きりゅ、う、鬼柳…っ」
手を伸ばししがみついて、穿たれる衝撃を受け止める。逃がしてしまっては意味がない。互いの存在を絡め確かめるための、久方ぶりの時間。わざわざ無理な体勢を変えないのも、向き合っていたいから、それだけが理由。
時間がないから、帰らなければならないから、ニコ達がいるから。あらゆる理由をつけて手早く済ませたがり、時には完全に行為を拒否するクロウが今日に限って何も言わないのは、自身もまた飢えているから。少しでも鬼柳が戸惑う素振りを見せれば、すかさず名前を読んで引き留める。
鬼柳は額に浮かんだ汗をクロウの腰を抱えていた手で拭って、ためいきを吐くように微笑った。若干ゆったりとはしたが、繋がった下肢を揺さぶることは止めない。
「…は、…毎月、バレンタインみたいなモンがありゃいいのにな」
「んぁあ…、ア、っう、ぇえ…?」
喘ぎながら、ゆるく首を傾げる。疑問を態度で示しただけのことだが、鬼柳にとっては十分すぎる誘惑。
「口実になるだろ。あーそれなら、毎日あったら、いいか」
クロウは変わらず攻め続けられながらも、必死に考えた。バレンタインのような口実が、毎日あったら。毎日、そんな、特別な日なら。
そうしたら、そうなったら。
荒い呼吸に乗せて、クロウは答えを紡ぐ。
「そのうちおれ、ここに、住んでんじゃ、ね、の…っ」
首を傾けたままのその言葉に、鬼柳は声を上げて笑った。そっか。ああ、そっか。
「あぁぅ、っ!?」
クロウの言葉に満足したのか、鬼柳は再び両手でクロウの腰を掴み、強く腰を打ちつけてくる。今までの様子を窺うような、わざと翻弄するかのような動きとは違う。追い詰めるためだけの、自らも追い詰められるだけの、乱暴で的確な抽挿。
一層高く啼いたクロウに向けて引き上げられた鬼柳の唇は、仄かに引きつっていた。内側からの感触でも分かる。限界が近い。
「じゃあ、さ…っ、いっそ嫁に来いよ」
「ぜってえ、やぁ、だ、ぁっ!」
クロウが首を振った時、一足先に絶頂が訪れた。押し留める余裕もなく己の腹部へ白濁を零し、同時に強く締め付けられた鬼柳も、引き抜く間も得られずにクロウの内側で放つ。
全身の熱は直後に倦怠感に変わり、鬼柳の首に回っていたクロウの両手はぱたりとベッドに落ちた。詰めていた息を吐きだしたのは、少しばかり鬼柳が先。
「……拒否されながらイかれるってのも、クるもんがある…」
「変態…ッ」
力のないクロウの腕が持ち上がり、鬼柳の腕を叩いた。顔は赤いが、怒ってはいない。穏やかに、唇は弧を描いている。
鬼柳は曖昧に頷いて、クロウの背中に腕を回した。下は、繋がったまま。
「まあ嫁云々はシャレとしてもさ」
「ひぇっ!? ぁっ…」
絶妙な角度で鬼柳の上に座らされ、クロウはたまらず抱きついた。不自然に繋がった体を馴染ませるように揺らされ、唇からは明らかに艶を帯びた声が漏れる。鬼柳の精液で濡れて馴染んだ体奥は、仄かな痛みよりも、受け入れる違和感と、確かに与えられる快楽を強くクロウに響かせた。
すぐ傍で、少し詰められた息と、柔らかな声。
「実際どうだよ、落ちついたらさ、こっち来ねえ?お前がいるってだけで、俺もみんなも心強いんだけどよ」
「あ、あっ!……ぁン、ンッ」
「なんだよ、嫌ってか? そういうことなら言わせねえ」
「ン、んんー…ッ!」
鬼柳はクロウの腰を揺さぶる手と突き上げる動きを更に深く、抉るように切り替えた。悲鳴を慌てて両手で塞いだクロウが、背と喉を逸らす。
このまま後ろに倒れ込みかねないクロウの背を支え、鬼柳はさらにクロウを溶かしていく。少し体を前に傾けたのは、形を作り始めたクロウの先端を自らの腹部に押しつけるため。
両手を離し、ぷは、と酸素を取り込んで、クロウはようやく鬼柳を見た。視界は、体ごとぶれてはいたが。
「で、も……毎日こ、っなこと、できねえ…」
死んじまう。
鬼柳は、一度首を傾げた。クロウを揺さぶる手も突き上げも止まり、クロウはようやく安堵して、呼吸を整えるべく胸に手を置いた。飛び出しそうなほど鳴る心臓を宥め、少し、身じろぐ。
瞬きをすると、まともな視界に鬼柳が映った。ぽかんと口を開けて、その目は泳いでいる。
伝わったということだ。
毎日逢えば、毎日だろうと繰り返しかねない。そしてそれに慣れていけば、離れられもしない。それこそ、死ぬまで抱き合っているかもしれない。あるいは抱き合いながら死ぬのかもしれない、等と考えてしまうほどに、二人の時間は大きい。
クロウも口を閉じて、視線を斜め下方へ逸らした。真下へ向けても、見たくないものしか見えない。
「じゃあ、とりあえず不定期、一晩三発」
「へっ、……っ!?」
視界に火花が散るほど強く突き上げられて、クロウは声もどこかに放り捨ててしまった。数にすればまだ1.25といったところか。言った以上、鬼柳はやりとげる。そういう男だ。
後悔と幸福のはざまで、クロウはもう一度鬼柳の背に腕を回した。
☆☆ スイート(思春期リーダーと素直な鉄砲玉)
「ただいま!お前らに土産だぜ!」
右手に汚れた紙袋を提げて、ドアを蹴破る勢いでアジトを訪れた鬼柳を迎えたのは、たった一人の声だった。パソコンの前の椅子から、おかえり。明るい声と笑顔は鬼柳を十分に満たしたが、期待と異なる現状に、自然彼は首を傾げる。
「ジャックと遊星どした?」
「ガキどもと遊んでるぜ〜」
「お前は何してんだよ」
「ん? …あー、おれはその、まあ……」
ぎこちなく、椅子の奥に隠れようとする右足。本人はさりげなくのつもりだろうが、どう見ても動きが不自然だ。出来るだけ大股で近づいて、隠れたクロウの足を軽く蹴ってみる。
「イッで……」
正直に上がった悲鳴に、鬼柳の機嫌は急降下した。その場に膝をついて、今度はそっと触れる。クロウが身構えたが、今度は痛みを与えることはなかった。
どうしたんだと鬼柳は聞かなかった。
「この前の作戦の時のか」
「ちげーよ、おれが勝手にドジったんだよ」
「あの後から足引きずってただろ」
ぱたりと黙ってしまったクロウを見上げ、鬼柳は嘆息した。何故黙っていたのか。自分も自分で、何故言ってやらなかったのか。あのとき背負ってでもやっていれば無理することもなく、もう治っていたかもしれない。
「ったく。顔に出るんだよ、お前は」
「わりー」
「デュエルのときは完璧なのにな。まあそこがいいと俺は思ってるけど」
完璧だったらつまんねえもんな。
言い聞かせるように呟いて、立ち上がる。くしゃとクロウの髪を撫でると、気まずそうに目をそらした。子どもじゃないと怒らないのは、子どもじみた意地を張った自覚があるからだ。
あっとクロウが声を上げた。最初と同じ笑顔で、鬼柳を見上げる。
「で、土産って何だよっ」
「ん? ああ、そっか。みんないねえなら早い者勝ちでいいや。選べよ」
鬼柳は、右手の髪袋を両手で広げてみせた。中身は個包装の菓子の山。包み紙は緑赤金白黒青――どれもこれもつやつやキラキラと華やかに輝いている。それが何であるか、クロウは直感的に気付いたようだ。
「チョコレート!」
「シティのバレンタインの売れ残りだってよ。大量だ」
悪戯っぽく笑う鬼柳が袋をよりクロウに近付けると、クロウは両手をその中に突っ込んだ。取り出したのは透明な包み紙。おお、と声を上げ、両手で左右に引き開く。
「白いぞこれ!」
「ホワイトチョコしらねーの?」
「牛乳入ってんの?」
「あ、それは俺にも分かんねえ」
「ふーん」
食えば分かるか、と、クロウは四角い白いチョコレートを摘んだ指ごと咥えてしまった。引き抜いた指の腹をぺろと舐めて、クロウは目を細めた。
それを立ち尽くして眺めていた鬼柳は、いつの間にか袋を片手でぶら下げていた。
「……鬼柳?」
「あ?」
呼ばれて、気付く。
袋を離した右手、人差し指で、いつの間にかクロウの唇を突いていた。頬や手の平とは違う、独特の弾力。すこしかさついた下唇。
「あー、ああ、おう……」
数度くにくにと押しつけていると、クロウは眉間に皺を寄せた。現状打破。方法はないか。じっとクロウの唇を見詰めたまま、鬼柳の開きっぱなしの唇は器用に嘘を紡ぎ出す。
「あ、いやさ、その、…チョコついてんぞって」
「マジか、わり」
「へっ」
クロウはきょとんと目を丸くし、次の瞬間舌を出した。鬼柳の指の腹に、生暖かく濡れたものが触れる。視界に入れはしたが、何が起こったのかと戸惑う程度には予想外の出来事。
がたんと椅子が鳴った。真っ赤になったクロウが、必死に首を振って鬼柳の手首を掴んで遠ざける。
「っわりい!!癖でっ、勿体ないからって昔ッ」
ジャックと遊星がよく、と昔話を始めかけたクロウの唇に、鬼柳は懲りずに指を押し当てた。
「…?」
「あ……あ、ははは」
乾いた笑いは、クロウにどう届いたのか。冷や汗の伝う背中をぴんと伸ばして、鬼柳はクロウに触れた手を、紙袋の中に突っ込んだ。取り出したのは3個のチョコ。そのうち、緑の包装だけを指先に残す。
「クロウ、なあ」
「は…?」
「もう一回やって、今の」
鬼柳の足元に袋が落ちる。たどたどしく包みを開いて、出てきたチョコレート。アーモンド入りらしく細長い形のそれを、クロウの唇に押しつけた。
クロウは瞬きを繰り返した後、のそりと唇を開けた。鬼柳の指ごと、チョコを咥える。
「ひるぅ?」
名前らしきものを呼びながらちらと見上げる眼には、純粋すぎるほどの疑問。ぺろと舌を出して、同じように鬼柳の指を舐めて離れる。唾液もチョコも残さないように、軽く吸い上げるおまけつき。
何が楽しいのか、クロウには全く分からない。鬼柳とて、おそらくクロウが思うように楽しいわけではない。
「やべえ、どうしよ、俺」
頬に昇った血を隠すこともできず、湿った指を拭うこともできず、鬼柳はあからさまにうろたえていた。逃げ出すことも、いっそ押し通すことも、今の鬼柳の頭からは抜けている。空気に冷えていく指先を、捕まえておきたいくらいには、歓喜している。
鬼柳の動揺を、クロウはどう解釈したのだろうか。ううんと首を捻って、突然、口を開けた。
「……ん、え。え?」
「…え…チョコ食わせたい気分なんじゃねえの?」
閉じた口を居心地悪そうに噛んで、クロウは困ったように視線だけを上げた。そんな気分あるわけない、そう言って笑ったら最後、もう誤魔化しようはない。
「お、おう、おう!クロウ次どれがいい!」
「べつに、な、なんでも…」
「じゃあこれな!」
茶色いぎらぎらしたパッケージのやや太めの棒状チョコ菓子をクロウに突き出すと、クロウは大人しくその先端にかじりつく。鬼柳は片手でガッツポーズを作っていたが、ほんの少し、すれ違っていたことには気付かないまま。
鬼柳の我儘は、わけが分からない。それでも聞いてやってもいいかとクロウは思ったのだ。それで鬼柳が自分にしか見せない顔を見せるなら。
下心は時に、単純なハッピーエンドを阻害する。
☆ ビター(鬼畜優しい半死人と欠食義賊)
思い返せば、最初から随分と泥まみれで生きて来たものだ。汚いことも山程した。
比喩にとどまらず、実際に泥にまみれる羽目になっても業ゆえかと納得してしまうあたり、成長しないな――
雨水に打たれて、クロウは乾いた笑みを浮かべる。わずかとはいえ確かに存在した足跡を飲み込んだ泥の上に伏せて、まだ1日もたっていないはずだ。水と土が体温を奪う。逃げ場はあるのに、体はぴくりともしない。
疲弊しきることなど初めてだ。ろくな食事もなく、飲むには相応しくない雨水でも飲み下したくなるほど、それすらできないほど、クロウは疲弊していた。
ポケットに押し込んだ、今まで手にしたことのない額の紙幣だけがこの数日間彼を支えていた。収容所の生活の方が何倍もマシだと思わせるほどの労働環境。シティですら破格と言わしめる賃金。それでも見合っているのか、怪しいものだ。
立たなければ。帰らなければ、ならない。
ここで倒れていては、せっかくの稼ぎもまさに水の泡。誰かに見つかる前に、立ち上がって帰らなければ。薄く開けた目、視線の先。二人の男が見える。クロウを指差して浮かべたのは、憐憫など微塵もない嘲笑。嫌な予感しかしない。向かって来る。立ち上がって。何でもないふりをして。帰らなければ。
しかしクロウの瞼はゆっくりとおりていく。限界を訴える。視界が閉ざされたとき、かち、と奥歯がなった。クロウは、噛み締めたつもりだったのだが。
やがて頬に触れた手はひとつ。
仰向けに転がされ、クロウはまだ意識があることに気付いた。左のポケットだけは守りきる、そう決めて、かちりと奥歯を鳴らす。途端、男が笑う声がして、唇にひたりと押し当てられた何かの甘い香りに、無意識に、クロウは口を開けた。
「ハッピーバレンタイン」
口内に広がる甘さに、クロウは目を見開いた。
食べ物だ。知っている味。チョコレート!
「んっむ!」
「がっつくなよ、動物じゃねえんだ」
一粒のチョコレート菓子を指ごと咥えて、クロウは伸ばされていた腕にすがった。両手で掴んだ腕は冷たく、雨と泥のせいで滑る。黒い衣服を汚してしまったが、男はくつくつと喉奥で笑うだけだった。口内から甘味が消えたので、はっとして顔を上げる。雨足は強く、目を細めていなければ上は見えなかった。しゃがみ込んでいる、すぐ近くにある男の顔も、良く見えない。
「もうひとつ食うか」
「ん、」
「よぉし。いい子だ」
くつくつくつ。男は静かに笑い、二粒目のチョコレートをクロウの唇に押しつけた。クロウはまた口を開け、男の指ごと齧りつく。歯を立てても男は怒らなかった。染み渡る甘味に、生を感じてクロウは目を閉じる。
「満足したか?んなはずねえよなあ」
男の指が離れて、クロウは次を期待して口を開ける。甘えきっても許される、そんな気がして。
「起きろ」
「…ッ」
「ほらよ」
金具の鳴る音。髪を掴まれ無理矢理起こされて、クロウは目を閉じたまま顔を顰めた。腕にどうにか力を込めて、泥の上に座りこむ。倦怠感を逃がそうと吐いた息のあとに、熱いものが押し当てられた。
「しゃぶれ」
「…っ!?」
押し当てられた、どころか。力なく開かれた唇を押し割ってくる、味わったこともない味。苦い、辛い、塩辛い、甘、い。
「これは食うんじゃねえぞ?流石に食う気も起きねえだろうけど」
「んっ…ぐ」
舌の上で脈打つ熱は、雨の中にいてもまったく冷える気配を見せない。冷え切ったクロウの身体、一番熱いかもしれない口内ですら、その熱に悲鳴を上げた。クロウの髪を掴み、喉奥へ、舌の上を、侵略していく。それでも、クロウはされるがままだった。目を開けることすらしなかった。だらりと下げた両腕も、開いた唇も、そのまま。
くつくつくつと笑っていた、男が不意に押し黙る。
「抵抗しねえのかよ」
不機嫌極まりない声。クロウは、雨音に消え入りそうな声を聞きながら、まだ黙り続ける。しばらく男は乱暴にクロウの口内を蹂躙し続けたが、顔をしかめながらも抗わないことを確信したとき、舌を打ちクロウの頭を引きはがした。泥水に再び倒れ込んで、クロウは噎せる。雨水と泥水が、唇を濡らした。
「つまんねえ…なんだよ、慣れっこってか」
「……ぁわけ、ねえだろ」
「あん?」
咳こみながら、クロウは男を見上げた。下肢の衣服を引きあげている男の、黒いフードに隠れた輪郭が、どこか見覚えがある気がしていた。朦朧とした意識では何も思い出せなかったが。
サテライトは広いようで狭い。どこかでデュエルでもしたのだろうかと。そこまでが、精一杯だった。
「おれは、お前に、きっと生かされ、た…から」
喉奥に引っかかるものが発言を遮る。何度も唾液と雨水を呑みこみ、唸るように喉を鳴らして、クロウは最後まで紡ごうと口を開く。
「借りは、作らね」
礼になるなら、それでいい。
最後まで紡ぐ前に、男はクロウの顔の前で泥水を蹴りあげた。咄嗟に目を閉じたクロウの顔面はますます泥にまみれ、雨に流れ、悲惨なありさまだ。
「止めろ」
男は変わらず不機嫌。ばしゃ、とまた泥を蹴りあげた。汚れるクロウの身体を雨水が撫でる。肌は洗われていくが、服はさらにひどく汚されていく。
「お前は一人でも生きる。そういうやつだ。甘えんな」
甘えさせておいて、何を。
苦言の代わりにクロウは笑んだ。ふわと意識が宙に浮く。何かを腹に入れたせいか、たまらなく眠かった。
「やっぱ…」
優しいやつだったな、あんた。
言いきる前に消えた意識。子どものように丸くなって眠る体を抱き上げて、男はもう一度舌を打った。黒いローブに青い文様。死人のような白い肌。男には、ちゃんと名前がある。
「自分のために自分で生きろよ…何度、言わせんだ」
その名をクロウは知っている。記憶の奥底沈んでいても、幾度でも浮上するだろう、それほど鮮烈な過去。
鬼柳京介は、本質的に優しい男だった。
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