黒く長い衣をラフに羽織り、紅く染めた薄い素材の衣を隠す。人で言えば青年と言える外観。
鬼柳京介は、天上の星のひとりだ。ヒコボシ。地上の人々が流星に願った願いを叶えるのが仕事である。薄雲色の髪はさらさらと、黄色い瞳はきらきらと。持ち前のカリスマ性と整った顔立ちは天上の乙女達の憧れであった。
彼の親友の不動遊星はオリヒメと名のついた星である。人々が流星に願った無数の願いを選別し、ヒコボシに託すのが仕事だ。妙に可愛らしい役職名とは裏腹に、意志の強い藍色の目も上向きに尖った金混じりの黒髪も一見して凛々しいものである。纏う衣も夜空色で、きっちりと紅い帯で締めている。
彼らはともに優秀であったから、仕事を共にする機会が増えたのは必然。彼らが組めばさぞかし効率よく美しく、地上にささやかな奇跡を起こすだろうとだれもが期待した、のだが。
彼らは優秀すぎた上に、逸脱しすぎてしまっていた。
「どういうことだ遊星、鬼柳! なぜインドネシアにオーロラがかかる!」
白みの強い長い洋風の衣、所謂シャツとコートを纏った彼はジャック・アトラス。遊星と京介の友であり、『スワン』である。その名が地上で示す通り、白鳥と化して地上にもたらされた奇跡を見届けるのが彼の仕事なのだが、近頃ではすっかり京介と遊星の目付け役と変わらない扱いを受けている。
この日も、見回りの途中で地上の異常気象をしかと見届け、大慌てで引き返してきたところだ。
「病気の子供が見たがっていたんだ」
「いい仕事しただろ?」
淹れたての茶の置かれた卓を囲んであっけらかんと言う二人に、ジャックは強く握った拳を振りおろすこともできずにがっくりと項垂れた。
「……これでは…庇いようもない……っ」
震える声が呟いた言葉に、遊星と京介は顔を見合わせた。どうしたんだ、とどちらともなく問いかける寸前。
「セキュリティだ! 鬼柳京介、不動遊星! お前たちの身柄を一時拘束する!」
鼓膜を殴りつけるような声に、いつもより少しだけ緊迫した空間は崩された。
☆
「ひっでえ話だろォ!? ちょーっとばかしレベルの高すぎる仕事ができちまっただけだってのによ!!」
ごちゃごちゃと散らかったそこは、明らかに私室。ガツンと音を立てて洒落っ気のない木製のテーブルに叩きつけられたのは、白鳥のイラストがワンポイントでついたマグカップ。底にはほぼ黒い茶色の飲料の後が残っている。顔を上げた京介はチクショウと呟きながら窓の外を見た。見えるのは、光の壁。
あれから数カ月、天界の治安維持を務める組織であるセキュリティの本部にある狭い牢獄から解放されたかと思いきや、京介と遊星はこうして光の壁によって活動範囲を東と西にきっちりと分けられてしまった。
年に一度、天の更に上まで伸びるこの分厚い壁が、川のように足元に拡がる。そうすれば川を行き来する船が出て、東と西地区に住む者たちが直接顔を合わせ触れあうことができるようになる。
毎日のように顔を合わせていた親友と引きはがされた京介達の衝撃はたまったものではない。まして、住み慣れた東の地区を離された京介の方は発狂しそうになったほどだ。否、もう発狂してしまっているのかもしれないが。
隣に座る黒髪の女性が、大声に驚いてずれおちた眼鏡を直す。京介がマグカップをもう一度テーブルに叩きつけかねないほど振りあげたので、慌ててそれを奪い取った。
「そうかもしれないけどっ! あなたたち、やりすぎなのはジャックの言うとおりなんだから〜…」
「ケッ! ジャック信者が」
「スワンにはヒコボシ様には分からない苦労があるんだからー!」
彼女はカーリー渚。西地区に住む『スワン』である。体に比較的ぴったりと沿う青と白のボーダーのシャツを纏った彼女は、どうやら『スワン』にしては異質な人間に限りなく近い衣服を好んで着ているようだ。部屋中に質素な素材、デザインの衣服あちこち放り投げられている。そう、ここは彼女の部屋だ。
京介の部屋にはまだ、家具がひとつもない。そう、ベッドどころか、椅子もない。彼は与えられた部屋に帰ったところで床に身を丸めて眠るしかなかったのだ。嫌だ嫌だと、とことんごねた結果、彼は西地区で一番人のいいスワンの家--すなわち、カーリーの家に一晩だけ転がり込むことになった。
ちょうど明日が、壁が下りる日だ。壁が川になれば、川を渡って彼の家具と同じく解放された遊星が会いに来る(だからこそ京介の部屋には何もないわけだが)。
待ち遠しくて仕方がない。今は夜は長すぎる。
はああと大げさに息を吐いた京介は、勝手に彼女のベッドに飛び乗った。
「ええ、ちょっと、ベッドはひとつしかっ…ちょとおぉー!」
鬼柳京介には遊星にも感嘆されるほどの特技が、能力以外にあった。
ベッドに入ればいついかなる時でも朝まで熟睡できることだ。
☆☆
カーリーの怒鳴り声に起こされて、京介は転がるように部屋を飛び出す。東と西の境目、駆けつけてみればきらきらと光る星の壁。高さは昨日見たより確かに、ずっと低い。京介の背よりも高い位置にはあるが、よじ登れなくもない。寝癖の残る髪を撫でつけて咳払いを一つ、さっそく地を蹴って飛んでみるが、壁の淵に引っかかるはずだった手は何も掴まずすとんと宙を掻いた。
「…れ?」
壁に手を突き入れると、難無くするりと入っていく。このまま、あっさり突き抜けられそうだ。昨日までは確かに、硬く強固な壁だったのに。
とにかく、これなら向こうに行ける。そう判断した京介が一歩踏み出そうとした時だ。
「おい! 何やってるそこの馬鹿! お前かキリューキョースケってのは!」
やや離れた位置、それも、頭より上からの声に、足を止める。
顔を上げた京介の視界には、黒いボートが映った。星の川の上に浮いているものだから、地味なだけのはずの黒も、地上の人が言う夜空のように美しい。そこからひょっこりと覗いた橙色が、これまた鮮やかだった。しかし、叫んでいる少年に見覚えはない。
「お前、誰だー!?」
「遊星の使いって言や分かるかぁー!? とりあえず、そっから離れろー!」
遊星。
その名に、京介はぱっと瞳を輝かせた。言われた通り大きく二歩は引き、両手を広げて彼を迎える体制を取る。
少年が乗っているのは決して大きくはない船だったが、山ほどの荷物が積まれている。ふわふわと独特のリズムで揺れながら近づいてきたボートは、川の一番端まで来ると制止した。黒い船体に黄色い翼のようなオール。漕ぎ手である少年は、黄色の翼を脱ぎ捨てた鳥の如く船からひらりと飛び降りてきた。
立って並べば、京介よりもほぼ頭ひとつ分低い身長。それを埋めるように胸を張り、彼は腕を組んだ。
山吹の衣に、袖のない濃茶の羽織。肘から下、手の甲までは褪せた布を巻いて隠している。苔緑の薄手の布をぐるりと額に巻きつけて、耳の上、やや後ろでぎゅうと結んで逆立てた髪。船に乗っていても浮いて見えるほど鮮やかな橙色。幼さの残る顔には、セキュリティに連行された形跡であるマーカーが複数、京介や遊星の頬のものとは比べ物にならないほどはっきりと刻まれていた。
「ったく…ホントに早すぎんだよ、天の川なめんな」
「そんなやばいのか、これ?」
「油断して飛び込んだら最後、ブラックホールまで流されんぞ。……常識だろうが……」
呆れたように呟きながらも、口元はにやにやと、揶揄を浮かべている。けれど嫌みではない。だからこそ京介も一度言葉を詰まらせた後、自然と次の発言に繋ぐことができた。
「だってよ、興味なかったんだよ…関係ないと思ってたし」
「極端すぎんだよ! ったく、遊星の言ってた通り……」
言いかけて、少年が不意にぱちと瞬いた。じっと京介を見上げてから、少しはにかんだ笑みを浮かべて頭を掻く。
「…名乗り遅れちまったな。俺はクロウ。遊星とジャックの幼馴染だ。親友のキリューキョースケってやつがブラックホールに流されないように、早く行ってやってくれって遊星に頼まれた」
「あー、なるほどさすが遊星! 俺のことよく分かってるぜ!」
クロウが噴き出した。くつりくつり、笑いながら京介の胸元を小突く。ついでと言わんばかりにやや右にずれていた黒い羽織を真っ直ぐに直し、とん、とまたひと押しした。
「俺とブラックバードだからこの段階で渡って来られたんだからな。感謝しろよ、俺と! ブラックバードに!」
クロウがあまりにも朗らかに笑うので、京介も笑顔で答える。
全く興味がなかった星の壁、星の川。その強大さと危険性をリアクションを交えてクロウが語ると、驚くほどするすると京介の中にはそれが刻まれていく。教え方が上手い、と京介が素直に口にすると、クロウの方がますます眼を輝かせて語った。
一番力が入ったのは、川になりきらない状態の壁を渡りきれる船はそうそうないこと。そして、自身の小型のボート、ブラックバードこそが一番高い状態で川を越えられること。
ヒコボシである京介は地上での奇跡はいくらでも起こせるが、天上での奇跡を起こす力はない。星の壁の番人兼川渡しであるクロウは地上では何もできないが、こうして奇跡のように星の川を渡ることができる。
いつの間にか京介も口を開いていた。噛み合わないはずの二つの奇跡がくるくると二人の口から紡がれる。先日起こしたばかりのオーロラの奇跡も、クロウはけらけらと笑い飛ばした。
以前一日フライングで壁を渡ろうと試みたところをセキュリティに見つかって謹慎処分を受けたことがある。できそうだったのにな。出来ることならやってみたっていいよなあ。
けらけらと、笑いながらも最後には肩を竦めて、「集団じゃ、ルールってのは大事だってのは分かってるけどな」と現実じみたことを言う。説教くさくもない言葉は、やはり京介の中にするりと入り込んできた。
「でもよー」
「やってやりたいよな」
「な!」
歯を見せて笑顔を突き合わせて。お互いに、小気味良いテンポで会話を続けた。立ち話もなんだと言いながら地べたに座り、いつの間にか乾いていた喉はクロウが持ち歩いている水筒の水で紛わせ、背後にあった壁が完全に川になっていたのにも気づかずに。
「鬼柳!」
「お……、遊星、ジャック!」
振り向けば、ブラックバードの何倍も大きな貨物船が停まっていた。わらわらと下りてくるのは、川の向こうの人々。遊星とジャックは、一番先に下りてきたようだ。
これだけ大きな船の向こう側にも続いている川だ。クロウの小さな船ではいくらスピードも自慢とはいえ、どれだけ早くからこちら側へやってきたのか見当もつかない。そんな様子を微塵も見せないクロウに内心感嘆しながら、京介はひらと手を振った。遊星とジャックの名を聞いて、クロウの体が跳ねて振り向く。
「んぁ!? なんだ、早かったな!」
「予定の時間通りだぞ?」
「マジかよ!?」
飛び上がる勢いでブラックバードに駆け寄ったクロウを、遊星が微笑しながらゆっくりと追った。慌てて船に積んできた小さな荷物を下ろしていくクロウの傍らで、同じように荷物を持つ。悪いゆーせー、クロウの早口は京介たちの元まで聞こえてくる。
「気があったみたいだな、気が早い者同士」
「まーな」
にっ、と笑って持ち上げた拳をぶつける。もっと早く紹介しろよな、と責めるように京介が言うと、ジャックは一瞬言葉に詰まったようだったが、京介はすっかり上機嫌だったのでそれ以上追及はしなかった。ジャックの腕をしかと掴んで、せっせと船から荷を下ろすクロウと遊星のもとに、弾んだ足取りで向かう。
「引っ越しソバ、食おうぜー」
振り向いた遊星とクロウは、心底うれしそうに笑った。ジャックは一瞬唇の端を引きつらせたが、誰にも気づかれることはなかった。
☆☆☆
天上も一日は24時間制だ。
地上と密接にかかわるための時の枷は、実に実に短いものだと、すっかり居住空間となった部屋の二人掛けのソファの上で京介は思った。
部屋の真ん中に敷いたふわふわのマットをクロウはお気に召したらしい。熱いからと床に転がりながらも、右手はしきりにふわふわとマットを撫でている。ジャックは窓辺が気に入ったようで、傍らに立っては外の星を見ている。
遊星は部屋をうろうろと歩いている。足りない物がないか、逆に無駄なものはないか、自分の部屋でもないのに真剣に悩みながら。
星の川はゆっくりと高さを取り戻しつつあり、あの大きな貨物船はもうない。残るのは小型のボートが数隻だが、それらも走りはじめていた。それを見送っていたジャックが、ふとクロウを見下ろす。二つの瞳はしっかりとかちあい、クロウが長く息を吐いた。
「そろそろ、行かねえとな。ブラックバードでも越えられなくなっちまう」
丸めた身を縦に揺すって反動をつけ、身を起こす。
だよなあ。京介の声に、遊星も足を止めた。
「寂しくなるな。……一年は長い」
「考えたくもねーよ……」
頭を抱えて明らかに沈む京介に、遊星もジャックもクロウも、書ける言葉を失った。三人の居住区は東。川を渡れば、一年はここには来られず、京介も向こうには行けない。
「あ、そうだ! 遊星はこっち来れないけどジャッ」
「断る」
今までのように顔を合わせるためには同じ地区に住まなければならないのだが、セキュリティに居住区を定められた場合、認められない限り転居は許されない。遊星と京介に刻まれたマーカーにはしっかりと刻まれた情報があるから、当然許可は下りないだろう。しかしジャックにそれはない。
ならばと発されかけた京介の提案は、あっさりと却下された。
「ジャック、俺からも頼む」
「断る。……俺が残ったところでどうせすぐに飽きるだろう貴様は」
「んなことねえよっ」
「黙れうるさい。とにかく俺は嫌だ。断る。遊星の見張り役の方がマシだ」
京介がソファに倒れ込み、遊星がむっと眉根を寄せた。クロウは素知らぬふりで帰宅の準備を始めている。慣れているのだろう。
「俺は見張られるほど無茶はしない」
「オーロラの件を忘れたか!」
「あれは鬼柳がいたから…」
「また同じ願いが来たらどうする」
「……叶えてやりたい」
「それを! させるなと! 言われているんだ!」
ジャックと遊星の口論は続く。京介は口をはさむこともできなくなり、諦めたようにまた肩を落とした。ぽん、とその肩に手の平が乗る。
「来年、一番先に会いに来てやるからよ。こっちのやつらもいい奴ばっかりだぜ」
「……クーローウーうぅう」
「情けねえなー天才ヒコボシ様がよー」
京介はクロウにしがみつき、その腹部にぐりぐりと額を押しつける。クロウはその頭を掻き回すように撫でてから、軽く叩く。子どもをあやす手つきだったが、京介の中の絶望に限りなく近い感情は弾けて消えていく。代わりに顔を出すのは安堵。一年は長い。けれど、必ず会える――
茶の羽織の裾をそれこそ子供のように握りしめて、京介はとうとう決断した。
☆☆☆☆
「それじゃあ、元気で」
「また問題を起こせば戻れるなどと考えるなよ。牢獄行きになるぞ」
「おう、お前らもな」
積んできた荷物の代わりに遊星とジャックをのせて、ブラックバードは星の川に浮かべられた。川の高さは、鬼柳の腰よりやや低い高さだ。クロウが乗り込むのはやや大変そうだったが、無事に三人乗りこんで、京介に向き直る。
「あ、クロウ」
「ん?」
京介が小さく呼んだので、自然とクロウは身を乗り出してそれを聞こうとする。遊星とジャックは長く続く川を見ていた。にこり。綺麗に笑って、京介はクロウの肩を掴む。
「っ、え」
ガタ、と。
音と衝撃に引きずられ、遊星とジャックが振りむいた時には遅かった。
「鬼柳!?」
「クロウ!」
クロウをブラックバードから引きずり落として抱きとめた京介の足が、ブラックバードを川に蹴りだす。慌てて伸ばしたクロウの手は、船体には届かなかった。
「お前らなら帰れるよなー! 来年、待ってるぜー!」
「おい! おいおいおいおいおいおい! 待っ、ゆうせ」
暴れるクロウを笑顔で押さえつける京介の顔に曇りはない。ああなれば何が何でも放さないだろうと遊星もジャックも思った。しかしクロウを見捨てる気にも慣れず遊星は慌ててオールを取ろうとする。
だが、コンマ数秒、ジャックが早かった。オールを漕いで船が進むのは、東側。遊星が悲鳴染みた声でジャックを呼んだ。
「ジャック! テメェぇえ!!」
「鬼柳の面倒はお前に任せる! 気が合うようだからな!」
「そういう問題じゃねええ!!」
クロウが吠える。振りあげられた足は星の川を蹴っただけ。満足げな京介とジャック、慌てふためく遊星とクロウ。バランス良く別れた2種類の表情が、だんだん遠く見えなくなる。
「ジャック、これではクロウがっ」
「大丈夫だ、あれだけマーカーを付けられているんだから居住区などもうどこだかわからん」
「…そういう問題じゃ、」
「そういう問題だ!」
言い放ったジャックの声が、海のように広い星の川に響く。彼はもう完全に後ろに眼を向ける気はないようだ。クロウの怒鳴り声はまだ聞こえている。遊星の手は何度もオールを止めようとする。全てを振り払いジャックは、今までにないほど決意を固めた眼差しを正面に向けていた。
☆☆☆☆☆
ブラックバードが見えなくなって、とうとうクロウが大人しくなった。京介が腕から力を抜いても、遠くをぼんやり見つめるだけ。
「クロウ」
「……おう」
「一年よろしく」
クロウは拳を握りすらしなかった。京介が心底爽やかに笑っていることが、驚くほど容易く想像できた上に、案外悪い気はしなかったから。
そしてクロウは別に西地区を嫌いでもない。京介以外にも気の合う仲間はいる。ブラックバードも、遊星がちゃんと手入れをしてくれる確信もある。
京介を詰ろうと一瞬思ったものの、これといって理由が浮かばなかった。
クロウはそこで、結論づける。
「……まあ、いいか」
クロウには自他共に認める長所がある。
それは、限りなく高い順応性だ。
彼等の新しい一年は、この日に始まることとなる。
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