ベッドサイドにおかれたノートパソコンのモニターから、小さなノイズが聞こえる。
ベッドの上でカードを広げ、デッキの調整をしていたらしい青年が、橙の鮮やかな髪を揺らして勢いよく振り向く。モニターに人の顔が映った瞬間、彼の灰色の大きな眼は見開かれ、口元には笑みが浮かぶ。小さくベッドをきしませ、身を乗り出して。
「--クロウ?」
そして一瞬のノイズの後聞こえた声に呼ばれるまま、クロウは弾むようにモニターの前に移動した。モニターの向こうには、クロウよりいくらか薄着の青年。年は同じくらいか、少し上に見える。切れ長の目を細め、耳にかかる長さの淡い青の髪を揺らして彼は手を振った。
「よ、久しぶりだな鬼柳」
「ああ、……遊星とジャックは?」
「遊星は仕事。ジャックは……知らねえ」
「また喧嘩してんのか」
「俺は悪くねーぞ」
クロウが口を尖らせると鬼柳は驚いたような瞬きの後、嬉しそうに笑った。何事かとクロウが問う前に、鬼柳がクロウの名を呼ぶ。
「なあ、そのままキスしてくれよ、クロウ」
こっちでいいから、と自身の頬を人差し指で指して、鬼柳は躊躇なく言ってのける。クロウは耳まで熱が上るのを感じながら唇を戦慄かせて首を振った。鬼柳の発言は止まらない。
「今の顔見たらしたくなったんだって、な?」
「ばっ、おま、……何、いっ」
「モニター越しでいいから満足させてくれよ、俺目ぇ閉じてるし」
クロウは水中の金魚のように唇を動かして、辛うじて時折言葉を発する。彼が身を引いた分だけ近づいたのか、モニターに映る鬼柳の顔の面積は大きくなっていく。
「じゃあ俺からするから、もう一回さっきの顔しろよ」
「馬鹿か!」
どなった後、クロウははっと口を閉じる。深夜と呼ぶほどではないが、すでに夜は遅い時刻であることを思い出したのだ。とたんに訪れた静寂に、鬼柳の静かな声が落ちる。 先程までの明るい揶揄の声音とは真逆の真剣な声だった。
「クロウ」
いつもより少し低音で紡がれる名。無言のまま、クロウはモニターを見つめた。そこに映った鬼柳の大人びた顔を、右頬に縦に走ったマーカーを、少し伸びた前髪の下の、満月色の瞳を。
「お前、俺に帰ってこいって、言わないよな」
「……は?」
いきなりなんだよ。
言葉にはしないものの、クロウは鬼柳に疑惑を込めたまなざしを向ける。鬼柳はほんの僅かに唇を歪めて、小さな声で続ける。
「お前らも、大変なんだろ?」
「……まあ、そうだけどよ。これはオレ達でやるって決めたことだし」
「手助けだったら俺もしてやれる」
「そりゃ、そうだけどよ。…関係…、いや、そうじゃねえな」
相応しい言葉が探せずに、クロウは頭を掻いた。関係ないわけではない。鬼柳は仲間であって、自分たちの夢を応援してくれている一人だ。戻ってきた彼とまた毎日を過ごせるのならそれはきっと楽しいだろうし、帰ってきて欲しくないわけではないのだ。けれどクロウは彼の申し出を拒否する言葉を探していた。
「もし……帰ってこいってお前が言うなら、俺」
待てよ、とクロウが制する。真摯な眼で繰り返す。待てよ、ふざけんな。
鬼柳はその言葉に一つだけ頷き、言葉を待っている。
クロウは自身の感情の中、鬼柳の言葉を拒絶する理由をようやく見定めた。
「なんでオレがんなこと言わなきゃなんねえんだよ」
ほのかな怒りさえ感じる声音にも鬼柳はひるまなかった。ただクロウの言葉を聞いている。ほんの少し、身動ぎはしていたが。
「お前にはやることがあんだろ。お前が決めたんだろ。それとも、もう満足したのか。止めちまいたいってのか」
クロウはさらに身を乗り出した。モニターに額が当たる寸前まで近づいて、語調を荒げる。ベッドの端に寄りすぎて、斜めに傾いた体をサイドテーブルの端に置いた手で支えて、鬼柳を睨む。
「俺のために何かしてほしいなんて思わねえよ、お前はお前で勝手に、やりたいようにやってろよ、オレは逃げ道じゃねえ!」
ひとつ、呼吸を挟んで。
もう一つ、一番言おうとしていた言葉を思い出す。
「……弱音吐くならとっとと吐け。ちゃんと、今度は、聞いてやるから。最後まで、いるから」
鬼柳はもう一度頷くと同時に、目を閉じる。
鬼柳が瞳を閉じていたのはさほど長い時間ではなかったのだが、倍以上に長く感じたのはクロウにとって彼への不安が残っているからだろう。自分の言葉は伝わったのか、今度は、互いに伝えられているのだろうか。
信じられない、わけではない。
けれど分からないことがまだ多すぎて、この目が開いたとき、彼の口がどんな言葉を紡ぐのかが、分からない。
「クロウ」
「んだよ」
静かな声で呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。
それを隠しながら発した言葉は、想像以上に冷たくてクロウ自身を焦らせた。
しまった、また、離してしまう。ようやく分かりかけているというのに、また、はなれてしまう。それでは駄目だ、それは嫌だ。そう思うばかりでどう繕えばいいかも、分からない。
「超好きだ」
真顔から発された言葉。目は茶化す色もなく、ただ真剣にクロウを見つめる。
クロウの混乱を極めた思考が一瞬にして方向を変えた。たどり着くべき場所へたどり着けず、ただぽかんと口を開けて鬼柳を見つめる。
鬼柳が大きく息を吸ったのには気づいたが、何を言うこともできず。
「っ好きだぁああああ!」
音声にノイズが混じるほどの叫び声の途中、ブツ、と音を立てて会話は通信ごと途切れた。
クロウが通信終了のボタンを押したのだ。真っ赤になった顔をいまさら隠す意味もないのだが、そうせざるを得なかった。
熱くなった顔を両手で覆ってベッドに転がり、深く、深く息を吸い、すべてまとめて吐きだす。
「……ばっか、やろ」
先刻までクロウの内を占めていた不安はどこかへ消えていた。こんなにも簡単に思考を奪ってさらってしまう、そんなところだけは変わらない、チームのリーダー。
そういえば、この妙な安心感が昔から好きだったと、クロウは思う。手も足も出ないのに敗北感はない、この不思議な感覚。
最後まで聞いてやるから。
己の言葉がリフレインする。
ゆっくりと身を起こしたクロウの手が、通信機能をオンにした。
「……鬼柳」
鬼柳はまだモニターの前にいた。見透かしたようにも見えるし、諦めきれなかったようにも、何も考えていなかったようにもみえる。
どれが答えとも悟らせず、薄く笑って名を呼び返すだけだ。
「……鬼柳、まあ……頑張れよ、旅」
違う、そうではない。言うべきことは、もっと他にあるはずだ。ぶんぶんと首を振れば、鬼柳が笑った。
ひたすらに無意味に唸り声を上げるクロウに、鬼柳が言う。
「ああ、サンキュ。頑張れよ、お前も」
「あー……おう」
「遊星たちにも頑張れって言っといてくれ」
「おう」
笑顔から紡がれる言葉は、心からの言葉。
それが偽りだったらと恐れる必要など今のクロウにはない。絆されている、上等だ。そんなことまで考えられる。余裕などないはずなのに妙に強気になれる。
鬼柳京介は、凄い。
一生口にはしてやるまいと思っているが、彼は確かにクロウ、遊星、ジャックにはない何かを持っている。そしてそれを与える力を持っている。
「…………寂しくなったら、連絡寄越していいぜ。喝入れてやる」
「そうだな。お前の声聞いてると元気出るしな」
小さく言ってみた言葉に、鬼柳は上機嫌で返答してきた。
クロウは思う。きっと自分に出来ることは鬼柳とは別の道を進み続けることだけなのだ。支え合うでもなく、励まし合うでもない。ただ、こうしてここに、それぞれが存在していることこそが、ベスト。
違うものを見て。
違う道の途中で。
それでも。
ここにいることを、誇って進む。
「好きだぜクロウ!」
またやや大きく発された告白に、今度は通信停止に手は伸びなかった。反射的に動きそうになった手をぎゅっと握って堪えて、赤くなっているだろう顔を隠すこともせず答える。
「……おうっ!」
笑って返しながら、クロウは確信する。確かに二人の間に存在する絆に名前はないが、それと酷似した感情を表現する言葉は、鬼柳同様に持っている。きっといつかは自分も口にしてしまうのだ、耐えきれずに。
鬼柳の張ったトラップは想像以上に強力だ。
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