鬼柳王子様のご機嫌は、おそらく底辺すれすれです。
小さかった頃からみんなが褒め称えたべっ甲飴みたいな瞳はミストブルーのまつ毛に隠れかけていて、唇はつんと突き出されているのですから。
その表情を苦笑いで見つめる青年は王子様に劣らず綺麗な顔をしていましたが、彼の機嫌はそこまで悪くはないようです。ライラック色の瞳と白い肌、透き通る金色の髪。冠などなくても天を向いた髪型と長身のせいで随分と威厳はありますが、それも当然のこと。
彼はジャック・アトラス様。鬼柳王子様の友人で、先日クッキーの国の王様になることが決まったばかりのお方なのです。
「満足できねえ」
「まあそう言うな……来ないと言われたわけでもないのだから」
小さな机の上に乗った、丸いフォルムの小さな容器は二段になっていて、上段部分にはとろみの強い茶褐色の液体が満ちています。そして下段には蝋燭の炎がゆらゆら。部屋に集まった三人の青年には随分と不釣り合いなかわいらしいデザインのそれ、色はカナリアイエロー。
「これだって用意していってくれたじゃないか」
フォークに苺を突き立てて、上の容器の中の液体、チョコレートにその苺を沈める青年が、鬼柳王子様に微笑みかけました。紺色の瞳を細める彼は、不動遊星。王子様の小さなころからのお友達で、キャンディの国の王子様です。
「そうだけどよぉ」
王子様は昔より小さくなったソファに身を沈めました。
「クロウぅ」
鬼柳王子様は幼少期、チョコレートの精霊であるクロウ・ホーガン少年と運命的な出会いをしました。マシュマロの国と遠く離れた場所にあるチョコレートの国。彼と会うためには高レベルな魔法を使うか、何日もかけて互いの国を訪れるしか方法がありませんでした。
しかし、そこで妥協するような王子様ではありません。
「もっとあらゆる菓子があらゆる場所で流通してこそ満足できる世界になるってもんだぜ!」
幼いながら拳を掲げた鬼柳王子様は、途端に勉強家になりました。まずはあらゆる国を飛びまわれる魔法を覚えて、友人であったジャック、遊星と頻繁に未来の理想を語りました。穏やかではあっても改革を望んでいたキャンディの国の国王、遊星の父親はその話に実に素直に目を輝かせました。
「良い案だ! 遊星、良い友人を持ったな」
お菓子の国の連合会議で、キャンディの国の王様はその改革案を見事に練り上げて書類にして提出までしてしまったのです。
不動博士と皆が呼ぶキャンディの国の王さまは、発明や研究が大好きな王様で、普通では考えられないような飴を作っては街の人々に配っていたほどの非常に奇天烈な方でしたから、各国の人々はその改案をいつもの本気の冗談だろうと笑って朗らかに次の話題に移ろうとしたのですが。
「その案、我々の国は全面的に賛成だ」
「私も個人的にですが、興味があります」
挙手したのは、議会の有力者でもあったルドガー・ゴドウィンとレクス・ゴドウィンの兄弟でした。兄のルドガーはマシュマロの、弟のレクスはクッキーの国を治める王様です。二人が博士の提案を冗談だと流さなかったものですから、議会は荒れに荒れました。
改革を起こそうとした子どもたちの知らぬところで動き始めた計画がどうなったか。
それは、こんなふうに王子様と他国の友人たちが王子の部屋に集まっていて、机の上に各国のお菓子が並んでいるのですから、説明するまでもないでしょう。
各国の入口には行き来が楽になる様に魔法の入り口ができました。人間の国にあるもので言えばエレベーターのようなもので、箱型の機械の中で行きたい国のボタンを押せば魔法の力で転送されるというものです。
難しい魔法を機械を使って制御するためのこの箱は、キャンディの国の国王一家が完成させましたが、資金と肝心の魔法についてはマシュマロの国とクッキーの国が尽力したそうです。その後継たちが、改革を真っ先に考えた少年たちであることは、本当の本当に偶然なのですが。
その機械ができてから、鬼柳王子とその親友たちはある程度定期的に王子の部屋に菓子を持ちより雑談会を開いていました。今日もそんな集会の日で、ここには四人のメンバーが集まるはずだったのです。
いえ、実際一度は集まったのですが……
「悪い、ちょっと用事できたから先にやっててくれ!」
チョコレートをとろとろに溶かしてチョコレートフォンデュの準備を終えたかと思いきや、クロウ少年は嵐のように部屋を飛び出してしまったのです。鬼柳王子様はとある計画を実行するため今日の日を心待ちにしていたというのに。王子様の不満は、そのせいでした。
「折角準備していってくれたんだ、食べないか、鬼柳」
眉をハの字に寄せて、マシュマロやクッキー、苺にバナナと色とりどりの菓子や果実が乗った皿を鬼柳に向けて遊星様が差し出します。しかし鬼柳王子様、それをちらと見やっただけで顔を背けてしまいました。
その様子を見て溜息をついたジャック様は、鬼柳王子には何も言わず、遊星様とは逆に眉間にしわを寄せて遊星様を睨みます。
「遊星、それには賛成するがなぜ飴を放り込もうとしている」
「……マシュマロもクッキーもチョコレートを塗せるんだ。飴にまぶせないはずがない」
「とめないが、お前の口の中で飴が溶けるまでチョコは待ってくれないぞ」
「…………」
フォークの上の飴玉が、チョコレートの海の上で絶妙なバランスを保っています。しばらくそれを見つめた後、遊星様はそっとフォークを引き、バナナの傍らにその飴をころりと転がしました。
「……そのうち俺が飴入りのクッキーを地上で完成させてやる!」
「キングだからか」
「キングだからだ!」
ジャック様は摘んだプレーンクッキーをチョコに半分潜らせて一口で食べると、遊星様もそれにならって同じクッキーに控えめにチョコを付けてかじりました。
鬼柳王子は、ソファに埋もれてむすっとしたまま、動きません。
クロウ少年は今や、チョコレートの国の外交官見習いを務める立派な青年です。顔立ちはまだ幼さを残していますが、声だって低くなりましたし、昔よりずっと気も強くなりました。
国を治める王族である王子たちにも仕事はありますが、慌ただしく駆け回るクロウの忙しさとはまた別のものです。だからこそ、鬼柳王子は今日、どうしてもやりたいことがあったのです。
「クロウぅ……」
「いい加減観念しろ鬼柳!」
「美味いな」
ますますソファに沈み込む王子に、ジャック様はとうとう怒鳴ります。王子様はそのどなり声でスイッチが入ってしまったらしく、ジャック様を威圧するように立ちあがりました。ジャック様も立ち上がります。身長はジャック様の方が上。ぎりぎりとにらみ合う二人の下で、遊星様一人がマシュマロを頬張る、奇妙な風景。
それを遮る、控えめなノックの音。
「鬼柳王子様、お客様です」
「よ、遅くなって悪ぃな!」
相変わらず少女の顔つきをした召使のニコと、その後ろで片手を上げるオレンジ髪の青年。淡いチョコレート色のバスケットの中に本物のチョコレート菓子をつめて笑うのは、鬼柳王子様の至高を占める話題の人。
「クロぉおぉっ!」
「クロウ、早かったな」
「遅い!」
反応は三者三様。机を辛うじて避けてクロウに駆け寄ったのは鬼柳王子、いくつめかのマシュマロを咀嚼し終えて微笑むのは遊星様、腕を組み不機嫌なのは今度はジャック様。ニコはさりげなく王子のためにクロウを前に押し出して、相変わらずの仲睦まじさに微笑んでいます。
こうして国ごとの交流が始まるまで、ニコはとてもとても苦労したのですが、そんなことは悟らせないのが彼女です。ごゆっくりどうぞと声をかけ、礼儀正しく頭を下げて退室する彼女に遊星様が礼を返しました。肝心の王子とクロウは、抱き合い再会を噛みしめていてそれどころではなさそうだったので。
「あ、そうだクロウ」
「何だよ、今日は変だぞお前」
ぎゅうとクロウを抱きしめて、鬼柳王子は今やジャック様を追い越して上機嫌です。
「ああ、そりゃ当然だ!」
がばとクロウを押し剥がし、くるりと身を翻して部屋の隅にある机の上からヒマワリ色の包みを手にとって、鬼柳王子はさっそくそれを突き出しました。クロウの髪より明るいオレンジ色のリボンが結ばれた紙製の包みは、ちょうど王子の手の平に乗る大きさをしていました。
「何だそれ」
「ホワイトデーだからな、レアなマシュマロもあるんだぜ」
ぱちと右目だけを瞬かせて、王子はまたクロウの前まで歩きます。軽やかすぎるほど軽やかに。ジャック様はまた座って、黙々と皿の菓子を平らげていく遊星様を言葉で制そうと試みています。クロウもそれに加わろうと踏み出しましたが、王子に遮られてしまいました。
「これはお前に」
手の平に乗った柔らかい包みと王子を交互に見て、クロウは首を傾げます。
「お前をもっと俺に頂戴」
「……へぁ?」
「バレンタインにチョコレート、ホワイトデーにマシュマロ。俺らこれでずっとやってきたし……もうそろそろいいんじゃねえかな、って俺は思ったわけだ」
「何がだよ」
王子はううんと小さく唸り、何かを言い淀んでいる様子です。クロウはますます分からなくて、眉間にしわを寄せて王子を見つめます。両手に力が入って、薄紙の包みがかさり、鳴ったことには気づかずに。
「だから、もうさ、一緒になろうぜ」
「…………あ?」
クロウの両手を包み込むように手を重ねて、王子はぱっと笑顔を浮かべました。どうやらもう、怖いものはないという顔。
「好きだ!」
「え、ぇ?」
「俺専属の外交官になってくれ、クロウ!」
「ええぇ?」
それ以上何も言えなくなってしまったクロウを見て、クッキーをかじっていた遊星様が顔をあげました。
「出会ったころから気になって仕方がなかったらしい」
「……要するに独占させてくれと言うことだな、今のは」
一度摘んだマシュマロを皿に戻し、ジャック様はフォークを取って苺に突き刺しました。少し固まりかけたチョコをどうにか纏わせて、口に入れたところでようやくクロウの思考が動き出します。
「わ、わけわかんねえ! おれは別にそんなんじゃ……」
真っ赤になって言ったところで説得力などないのですが、クロウはそんなことを気にかける余裕もないようです。じっと答えを待っている王子様を見つめ返すこともできず、手を振り払うこともできずただあわあわと、ときどき意味不明な声を洩らしながら、クロウは必死に考えます。
「あ、ぁの、あのな、きりゅう」
ジャック様と遊星様がコーヒーのお代わりをする光景を背景に、王子様はとても真剣です。きっと国の人たちが見れば、いろんな意味で大騒ぎになるのではないかと思わせるほどきれいな顔。
そしてクロウは、王子様がどんな少年時代を過ごし、今どんな青年に育ったのか、出会った日からずっと見てくることになったのですから、この顔をするのがどんな場面であるかもよくわかっています。
「あ、あー……」
泣きそうで笑いそうな顔。
鬼柳王子様も、クロウのこの顔がどんなときに出てくるのか、よく知っています。縁あって鬼柳王子より前からクロウと幼馴染であったという、ジャック様と遊星様もめったに見ない表情。
「…遊星」
「ん」
「あの包みの中身、当ててやろう」
「……それなら俺にも分かる」
「あれだろうな」
「あれだな」
二人の予想通り、包みの中身はチョコレート入りの真っ白なマシュマロ。
王子とクロウの出会いのきっかけになった菓子は、今思えば、未来への暗示だったのかもしれません。
……クロウ青年の回答についてのお話は、必要ですか?
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