伝える意味も理由もなくした言葉は、どこにも行けず彷徨っていた。拾い上げたのは気まぐれだ。気まぐれでしかないのだ、と、彼は何度自らに言い聞かせたろう。
漆黒。蒼。
足を曲げれば床に着くほどには長いローブを翻し、青年は可能な限り静かに歩を進めていく。薄曇の奥の蒼の髪、黒に金を浮かべた眼、右頬を走る赤いマーカー。
無音。吐息が僅かに震わせる空気すらも無視して、扉のない部屋の奥へ、進む。
「……誰、だ」
かた。
灰色の部屋、奥の奥。置かれた椅子が鳴る。
誰だ。ただの椅子に座らされた青年が、掠れた声で問う。
「そこにいんの、誰だ」
暗がりでも映える橙の髪を逆立てているバンドの下に、もう一枚厚手の布地。額のマーカーは晒したまま、普段はくるくると表情を変える瞳を覆い隠す黒い布。一部かさぶたが覆う唇を一舐めし、青年は強く問いかける。
「誰だ! 何の目的で、こんな真似しやがった!」
何度も繰り返された問いに、答える者はこの場にはいない。唯一それが出来る者にその意志がないからだ。
くわんと反響する声。荒い呼吸。木製の椅子の肘かけに幾重も巡らされたロープは、グローブで包んだ青年の腕が持ち上がることを決して許さない。椅子の足と青年の足をひとつにしたロープも、青年の足が地を踏みしめ、歩きだすことを許さない。腿は椅子の下に潜らせ、腹部、胸部もまた、椅子の背凭れと彼の背をぴたりと合わせたまま。
がた。
椅子が鳴る。
「聞いてんのか……ッ! なあ、そこにいるんだろ!」
悲痛な叫び声は、勿論届いている。けれども彼をこうして捕らえた本人は何も言わず、彼の前に跪いた。しかと固定され動かない膝に、唇で触れる。サテライトの悪環境でD‐ホイールを乗りこなす青年の膝部分にはプロテクターが縫い付けられていたが、構わずに舌を這わせた。
「っ、なん、だよ」
青年は弱く呟いた。両手が動くのであれば、顔を覆って泣きだしていてもおかしくない。もっとも、彼はそうはしないだろうが。
――ああ、かわいそうに!
青年の反応を見ながら、想うだけ。
膝から脛へ、脛から、爪先。地に這いつくばることも厭わず、部屋を訪れた彼は泣けない彼へ唇を押し当てる。決して、肩や首、頬、指先。剥き出しの肌には、触れない。
触れたら伝わってしまう。僅かな震えも、ずっと低くなった体温も、
もしかすると、正体も。
かた。
椅子が鳴る。軋む。
動けない彼の不安を恐怖を憤りを、宥めるように。
彼が、クロウがこの椅子に捕らわれてから、時間にすればまだ数時間だ。もっとも、その数時間ほぼ意識を失っていたクロウ自身には見当もつかない。
どれほど長い時間ここで眠っていたのか。その間にも何かが起きているのではないか。
心配の対象は自身ではなく、自身を慕い集う子どもたちだ。血の繋がりもない、ただこの地に生まれ孤独への入り口を潜りかけていたという繋がりしか持たない子どもたちを、まるで家族のように、歳は近いが我が子のように慈しみ、そのために傷つくことも厭わない。純粋。彼の内心は、ただ純粋な、『黒』。
埃に塗れればくすんでしまうだろうに、彼はそこに誇りを纏い、決して汚させない。そんな彼の心に爪を立てたら、傷はきっと、消しきれないだろう。
クロウから離れ、彼は自らの手を見やる。クロウの手と重ねたならば、極端に差のある白。生きているのかも分からないほど、血が巡っているのかも疑わしいほど、白。爪は、さほど長くはない。
すうと頭を巡る思考に、彼は床に座り込んだまま、頭を抱えた。
爪を立てて、滲む赤。抉り取って、戻らない黒。抗えない魅力をか感じ、理性の針が振れる。決して傾けてはならない方へ、伸びかける手を自ら抑え込み、呻き声すらも噛み殺す。
名を呼ぶことも自らに禁じた。降ってくる記憶の重さが己を狂わせることをとうに知っていたから。
背を向けられた時の絶望が与えたのは憎しみだけではなかったはずなのに、今は、もうそれ以外の言葉を探すことを許されないのだから。彼を捕らえたのは、報復のため。憎しみを増長させるため。彼への復讐、そして、憎み合うための布石。言い聞かせる。何度も。飽きるほどに。厭きないように。
「……鬼柳……?」
ことん。
鳴ったのは、心臓。
「……なわけ、ねえ、よな」
自嘲する。クロウは俯いて、ぱたりと抵抗を止めた。
暗闇の中、何故その名を口にしたのか。その名の持ち主はもうこの世にいない、とクロウは知っているはずだ。実際にここにいるのがその名の持ち主であることなど、知り得ないのだ。
問うこともできず、鬼柳は呆然とクロウを見上げた。衣服が汚れるのも構わず、座り込んだ床の上から。 彼の中に射した闇が、光を見つけ軌道を変える。針が振れる。触れたい。告げたい。ここにいると。鬼柳京介はここにいる、と。縋りつきたい。もう一度やり直したい。向けられた背中に声だけでなく、手を伸ばして、プライドも何もなくても、寂しいんだと喚いて、やり直したい。
ずっとあのままでいたかったんだと、もう一度、手を、重ねて。
「ガキどもは無事なのか?」
落ちついた問いに、我に返る。触れかけた指先を引っ込めて、鬼柳は改めてクロウを見た。見えないはずの眼。夜の廃屋色の瞳は、そこに座る鬼柳を見ようと闇の中で彷徨っている。
「いつまでもとり乱してるクロウ様じゃねえんだよ。楽しんでんならそろそろ飽きろ。でもな、もし苦しんでんなら、答えろ。……口がきけねえなら、分かるように何か考えてくれ」
鬼柳の中で、冷えた感情と熱を帯びた感動が行き来する。
これが、拘束された者の態度だろうか!
戦慄した体を抱きかかえ、鬼柳は無意識に唇の端を上げていた。これでこそ。そう。
チームの鉄砲玉と呼ばれ自称までする彼の内側に、チームの誰よりも冷静な目が存在することは、デュエルをすれば分かる。相手を引き込み巻きこんで、己の勝利へのルートを歩ませる。クロウ。もしかするとチームで一番、状況を見定める目を持っていた存在。
「おい。まだ、いるんだろ?」
鬼柳は、伸ばした手をクロウの手に重ねた。
がた。椅子が鳴る。突然の感触に反射的に腕を引いたせい。
「……お前、は。おれを、どうしたいんだ? 殺すのか」
物騒な言葉だ。けれど、誤っているわけでもない。執着の終着点が死だというのならば、鬼柳が選ぶべき選択肢はそれだ。しかし、今それを望んでいるかと言われれば、答えは否。
鬼柳は、クロウから手を離す。
「……違う、ってことか?」
もう一度、手を重ねた。
触れたら応。離れたら否。それが、鬼柳が閃いた合図。手の平を押し当てるだけで勘付かれるほど、過去に鬼柳はクロウに触れてはいない。大丈夫だと、判断した結果。
「おれを縛りつけとかなきゃいけない理由があんのか」
手を離す。クロウが唇を結んだ。
「だったらほどけよ」
揶揄に近い口調。もうクロウの中に、現状に対する恐怖はないようだ。
強く念じた望みを叶えるためにと死の淵から引き戻され、シグナー、ダークシグナー、今まで聞いたこともない『運命』の片割れにされることで生き伸びている鬼柳ですら、驚かされるほどだ。
感嘆と、憤怒。
鬼柳は内側の二つの熱に任せて、クロウの手の甲に置いた手を二の腕に向けて滑らせていく。膝を立てて、伸ばして、クロウを見下ろせるように身を起こして。
がたん。また逃げかけた手が、椅子を揺らす。
「な……」
腕のベルトまでをなぞり上げる。何本目かのロープに触れたところで一度止めて、更に肩まで。昔よりは流石に成長した体躯、それでも所々は少年のままだ。くるりと返した手の甲で、首にかかったロープに触れた。
がた。椅子が、僅かに鳴る。
これは、悲鳴だ。
「そういう……ことかよ」
呆れと自嘲の混じった声。クロウは深呼吸のあと、完全に口を閉じた。鬼柳が身を乗り出し、頬に触れても。
かたり、とも、椅子は鳴らない。
「楽しくはねえと思うぞ」
何が起こるのか、知っている声だった。当然だ。鬼柳は戸惑うこともなく、薄く開かれたままの唇を塞ぐ。片手をクロウの肩に、もう片手は、両足の間、椅子の上。
がた。椅子を揺らしたのは、更に身を乗り出した鬼柳。
「ん、……んっ!」
首を振ったところで、首にかかったロープが邪魔をする。肩に置かれていた手が顎を捕らえ、更に、深く。それこそ、発されるはずのクロウの言葉を抉り取り除くように。
二人分の体重を受けて、椅子が軋む。クロウが何度も背を反らそうと試みても、クロウの背を受け止める椅子の背は、認めない。クロウと比べるとずっと冷たい舌が絡み、温度のない拘束が強張るクロウの身を締め付ける。
がた。がた、と。椅子の足が弱く地団太を踏む。
「……ぁ、……くぅっ」
がたん。一瞬の解放の合間、クロウが大きく吸った息をまた呑みこんで、鬼柳は角度を変えて頑なに閉じようとする唇を貪った。嫌悪に顰められる眉すら、鬼柳を駆りたてる。
強いからこそ脆い部分から、くずしていく。
人形よりも不自由な人の体を弄ぶことの虚しさは、言葉にもならない。虚無ですらも生温い。だが鬼柳は飽きずに行為を続けた。根負けしたクロウが開いた唇に舌を滑り込ませ、抉じ開けて、椅子を軋ませながら水音を聞く。
行為をクロウが嫌悪しているのなら、これは復讐と呼べるだろう。だが万一、クロウの中で僅かでも行為を望む感情が芽生えたならば、これは、何になる?
愉快だ。虚しさがすりかわり、鬼柳の唇の端が上がる。
唇の端からぬめった液が伝う。かき混ぜすぎてどちらのものかも分からないものが、鬼柳の指、クロウの顎、どちらも濡らす。その不快感がもたらす征服感に酔った鬼柳は、唇を離す時の癖を、隠しきることを忘れてしまった。
濡れそぼった唇を、猫がじゃれるように舐める癖。
そうしてから、額と額を触れあわせる癖。
「……え?」
呆然としたクロウの声を聞いて、鬼柳はようやく過ちに気付いた。今更触れた額を離しても傾いた天秤は戻らない。
「き、りゅ……う?」
ありとあらゆる感情が滲んだ、名前。クロウは濡れた唇を震わせ、両腕を振り上げようとした。ただ、がたがたと椅子が鳴り軋む。椅子を掴む手に力を込めても、解放は訪れない。答えは返らない。
「鬼柳! 答えろよ、鬼柳なんだろ!」
呼びもどそうとする声。渦巻く感情の中から、唯一鬼柳が誰にも見せなかった感情を、唯一、クロウにだけ垣間見せた感情を、引きあげようとする声。鬼柳はすぐに離れた。
引き下がる際に引きずった靴音。明らかな狼狽。
「何の真似だ! なあ! もういいだろ、答えろよ鬼柳!」
確信を持ったクロウが、椅子ごと声を荒げる。鬼柳を底から揺さぶる声。真剣で必死で真っ直ぐな、クロウの声。ガタガタと鳴るのが椅子なのか鬼柳の心臓なのかそれ以外の何かなのか、もう判別もつかない。鬼柳はクロウに顔を向けたまま、後退する。乱れた靴音を置き去りに、出口へ。出口へと。
だが、逃げ切る前に、鬼柳の逃亡は遮られた。背を捕らえた男の手。鬼柳は振り向き彼を見上げ、開きかけた口を、閉じた。
「お前が足掻いたところで、鬼柳京介は戻らない」
クロウは息を呑んだ。聞こえてきたのが、予想していたよりも低い、知らない男の声だったものだから、呑みこむしかなかった。
鬼柳の背後に立つ男は、ダークシグナーの中心人物。黒地に赤の文様を描いた衣を纏った、褐色肌の男の名は、ルドガー。
「運命の輪、とでも言おうか。輪の外にいる限り、貴様には何をすることもできない」
低く笑う声に抗おうとクロウは一層もがくが、クロウが歯を食いしばったところでロープが肌に食い込むだけだ。無駄だ、諦めろ、と椅子だけが騒ぐ。
「認めるのだな。用意されているのは、部外者の指定席だと」
「ふざっ、けんな!」
ルドガーは、立ち尽くす鬼柳を押し除けて前に出ると、蜘蛛の痣の刻まれた腕をクロウに向けて持ち上げた。喉にロープが食い込んで噎せるクロウの目元、瞳があるだろう位置を、大きな手で正面から覆う。
かたん。椅子とクロウが動きを止めた。
「や、……ぉ、っ」
鬼柳の喉が震える。締め付けられているのはクロウの身だけのはずだ。それでも全身を締め付ける何かが、鬼柳の邪魔をする。ひゅうと漏れる息。呼吸だったのか発言だったのか、不明瞭な。
蜘蛛の痣が光る。クロウの唇が開きかける。鬼柳は踏み出せず、けれど、絞り出した。声。己に架した枷を放り出して。
触れてはいけない。触れさせたくない。
触れるな、振れるな、震えるな!
「やめ、ろッ!」
訪れた沈黙。鬼柳はどっと襲ってきた疲労感に膝をつき、肩で息をし、ぎこちなく頭を上げた。椅子の上、クロウは力なく項垂れている。無理矢理に括りつけられた体は、それ以外に何の変化もない。
ルドガーが横を通り過ぎる途中、立ち止まった。
「眠らせただけだ」
「……勝手に、触るな」
「勝手はどちらだ? まあ、この程度で何が変わるわけでもないが」
悟りつくした嘲笑。鬼柳は出来得る限りにルドガーを睨みあげ、呼吸を整えながら、ゆらりと立ち上がった。不規則な足音が、無音の中心へ進む。ルドガーはもう興味を無くしたのか、二人に背を向け歩き去ってしまった。
鬼柳は、椅子の下に手を伸ばす。はがれかけた粘着テープを引きはがし、小型ナイフを取る。ナイフを右に、もう一度クロウの前に跪くと、彼は左手で、そっとクロウの右足をなで下ろし足首まで、下げた。
足首と椅子の足を固定したロープが、解けかけている。鬼柳が隙間に指を引っかければ、簡単に解けてしまった。一本で巻きつけられていた膝上まで。
息を吐く。あと十分もあれば、クロウはこのチャンスをものにしていただろう。あるいは知らずに、ずっとこのまま、捕らわれていただろうか。選択肢は鬼柳にもクロウにも二つあった。逃がすか否か。逃げるか、否か。
ロープを巻き直しナイフを取り上げれば、分岐は消える。ダークシグナーとして、チームへの復讐を果たすのであれば、このままでいさせることが選択としては正しいはずだ。
クロウは当然苦しむだろう。知れば、遊星も苦しむだろう。そしてジャックも。敵味方に分かれた事実のみならず、鬼柳京介という人間がもう変わってしまったのだと思い知らせるにはいい材料になる。
理解していながら、鬼柳の手は逆の道をたどった。腕、首、胸、腹、足。あらゆる部分に巻きつけられたロープを、ナイフで無造作に切っていく。拘束を逃れた身体は、前に向かって倒れ込んできた。
「クロウ」
ようやく呼んだ名を噛みしめて、抱きとめる。随分と暖かく感じる体をしばしそうして抱きしめて、改めて椅子に凭れかからせる。最後に、目を覆う布を取り払えば、随分と幼く穏やかな寝顔が浮かんでいた。
昔と変わったのは、マーカーの数くらい。目を開けて、寝惚けきった笑みと一緒に名前を呼んできそうな寝顔。正面から眺め、鬼柳は黒と金の眼を細めた。
膝をついて、力の抜けた彼の右手を取る。両手を重ねて包み、頭を垂れる。
「お前の番は、まだだ」
予定はまだ定まっていない。定めていない。いつになるかも分からない未来は鬼柳も想像しない。
「それまでは高みの見物で、満足してろよ」
全てをただ見届けるだけの位置に彼の特等席を、と、鬼柳は願う。針が真逆に振りきれる前に、一番遠くに、互いの手も届かない位置に、彼のために特等席を。
「……じゃねえと」
本当は壊したくないものまで、壊してしまうから。
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