「クロウ」
四人で食卓を囲むことに、ようやく慣れ始めたところだった。メニューは魚肉ソーセージと冷凍のベジタブルミックスのソテーと茶碗に山盛りの古い白米。
遊星とジャックとクロウ。マーサハウスで家族同然に暮らしていた彼らが、サテライトの現実に呆然として出来てしまった隙間に、すんなりと入りこんできた存在。鬼柳京介。彼は、手にした箸でクロウの前の欠けた白皿を指した。視線は自然とそこに集まる。
「グリンピース残ってんぞ」
言った瞬間、遊星が顔を顰め、ジャックが鼻で笑う。クロウは顔を赤くして、箸を投げるように皿の上に置いてしまった。
「何だ、まだ食えないのか」
「うるせっ」
皿を睨みつけたまま、ジャックへの反論。
「好き嫌いは良くないな」
「うーるーせー」
耳を塞いでわざとらしく伸ばす声、流石にこうなれば鬼柳も理由に気付く。苦笑を浮かべて、彼はクロウの皿に手を伸ばした。
「じゃあ俺貰うわ」
「えっ」
驚いたのは、残る三人。クロウの皿ごと奪い取って、皿の上に乗った数粒をひょいひょいと口に放り込んでしまった。たしなめることも笑うこともせず。
「嫌いなら仕方ねえだろ。大人になりゃ味覚変わるって言うし、残す方が無駄だぜ」
そう言った鬼柳の言葉に、遊星は「凄いな」と呟き、ジャックは悔しそうに顔を歪めた。クロウはというと、目を丸くしてじっと鬼柳を見ていただけ。
けれどその日を境に、四人の食卓は、そしてアジトでの生活がほんの少しずつずれ始めたのは確かだった。
「きーりゅー」
マカロニと茹で野菜をマヨネーズで和えたサラダのマカロニだけを綺麗に食べて、クロウは席を立つ。間延びした声で名を呼ばれた鬼柳は、自らの同じメニューの乗った皿を持ち上げて差し出した。怪訝な顔の遊星とジャックに得意げな視線を向けて、クロウは動く。
「玉ねぎやる」
「おう」
クロウの皿から移動するマヨネーズを纏った半透明の根菜。鬼柳は平然と、咀嚼しながらそれを受け止める。代わりにとクロウの箸がいくつかマカロニを奪っていっても、気にする様子は見せない。
「人参もやる」
「んー」
スープに浮かんだ細切れのそれが移されるのも鬼柳は厭わなかった。唖然とするのは、遊星とジャック。クロウは決して、こうすることを許すような人間ではななかった。否、許せないタイプの人間だったはずだ。
「お前ホントに野菜嫌いなんだな」
「子供だからだよ」
「そだな」
これにも遊星とジャックは衝撃を受けた。子供扱いを嫌うクロウが、自ら認めて笑うなど。
代わりにやるよ、とスープ皿に戻されるのはサイコロ状に切られたジャガイモ。
「えー、ウィンナーくれよ」
「駄目。俺も育ち盛りだから肉は駄目」
「けち」
こんなことでも朗らかなのだ。ジャックが言えば、きっと大暴れしただろう。遊星には遠慮して言わなかっただろう。マーサの前では叱られるのが見えているからしない。子どもたちの前でも、もちろん、悪い見本にはなれないからと、むしろ分け与える側だっただろう。
おかしい。なにかがおかしい。けれど、クロウの笑みは確かに真実で、作られたものではない。鬼柳の浮かべるものもそうだ。
心からの甘えと許容。兄と弟、父と子、偶像であった光景が眼前に広がっている。置き去りの二人を引き離すように状況は、食後でも加速していく。
食事を終えたテーブルに菓子パンの袋が並べられ、遊星がコーヒーを淹れてきた。鬼柳の横にクロウ。向かいに、遊星とジャックが並ぶ。
泥水だとクロウが言うほどのコクも深みもないコーヒーに、遊星が一緒に持ってきた牛乳を入れようとパックを手にした時。
「それくれ」
クロウは、鬼柳の手にした菓子パンを見つめて言った。
食事だけでは満たされない少年たちの胃袋を宥めるべく、食後に用意されるのは期限切れの個包装されたパン。
この日集まったのは、あんぱん、チョコパン、クリームパン、5個入りのバターロール。子供に分けたいからとクロウはバターロールを取った。鬼柳がチョコを、ジャックがクリームを、遊星が最後に残ったあんぱんを。
クロウは自身のパンに手をつけていない。だが、鬼柳に向けて手まで差し出している。「くれ!」と、楽しそうに。
「半分な」
「よっしゃ!ありがとなー!」
鬼柳もやはり、嬉しそうにパンを二つに分けた。少しだけ大きい方を迷うことなくクロウに差し出す。嬉々としてパンに齧りつく彼の笑顔を横目に、半分もコーヒーが注がれていないカップに砂糖をひとさじ。かき混ぜながら、牛乳を注いでやることまで鬼柳は当然のようにやってみせたのだ。
自分の分は後回し。半分のチョコパンをくわえたまま、砂糖はさじ二つ。
「……甘すぎる」
ジャックが零した。クロウと鬼柳、遊星も唐突な言葉に首を傾げる。
「……そうか?ちょうどいいぜ」
「それが苦すぎんだよ」
「コーヒーの話ではない!」
遊星は合点行ったようだ。あっ、と声を上げて、途端に眉尻を下げてしまう。ジャックを止める理由も加勢する理由も探せない、どうしたものかと瞳が迷う。
遊星の動揺に気付いたのは、その場では鬼柳一人だったが。
「鬼柳が!クロウに!甘すぎる!」
ジャックの手が机を叩く前に、しっかりと3人はマグカップを手に取った。クロウは最後の一口になっていたパンを頬に詰めて、一人怒るジャックを不満気に見上げる。
「……ジャックも食いたいなら頼めばいいだろーよ」
「するか!」
鬼柳は、そんなクロウとジャックを見ても呑気だ。パンをくわえて、にこにこと笑ったまま、手にしたスプーンでコーヒーを掻き交ぜている。
「いいかクロウ、俺達はハウスを出て」
「あーはいはい、鬼柳もう一口っ」
「ん」
ほぼ説教を始めようと腕を組み立ちあがったジャックをあしらうように鬼柳側に身を乗り出したクロウを、ジャックが叱りつけることはなかった。
できなかった。
あまりに自然に、鬼柳が顔を向けたのだ。咥えたパンをそのまま、クロウの唇に押しつける。クロウは退くこともなく触れたパンに歯を立てた。
「な!…な、なに、をっ」
ジャックにとっては、衝撃の光景だったようだ。たじろぐ彼を、三人分の訝しみの視線が射抜く。
数秒が、数分にも変わる沈黙。ジャックは意味なく机を叩き、大股でクロウの傍らまで歩み寄った。殴られると思ったのか、コーヒーを置いたクロウは両手で頭を庇おうと持ち上げた。ジャックの手が、その手首を掴む。
「来い!」
「こ、ことわる!ノープロブレムだ!」
「こ、と、わ、ら、せん!」
クロウの蹴りが飛ぼうが腕をばたつかせようが、ジャックは両手と長身を駆使してクロウを椅子から引きずり降ろそうと試みる。鬼柳がマグカップを置いた。その上に食べかけのパン。
「ふざけんな!嫌だっつってんだろ離せ、鬼柳!きりゅー!」
「子供か貴様は!」
「クロウはまだ子供だろ!放してやれよ!」
クロウに呼ばれ、立ちあがった鬼柳がジャックを制した。小柄とはいえ本気のクロウの抵抗に、クロウより体格の近い鬼柳の手が加わればジャックも分が悪い。怒りと羞恥に近い感情で染まった瞳を一度は遊星に向けた彼だが、結局鬼柳にいわれるがままその手を自ら勢いよく放すことを選んだ。
子供だと言われたクロウが、そうだと言わんばかりに睨みあげてきたからだ。その時のクロウが、マーサハウスで過ごしていた時代にも見せない、知らない眼をしていたから。
「〜〜ッ、もういい!遊星行くぞ!」
「ジャック、待…」
次に掴んだ遊星の手は、抗うことなく従った。呼び止めこそしたが、すぐに口を噤んでしまったから。
ゆっくりと両手をあけてから立ちあがった鬼柳は、まるで全てを見とおしていたようではなかったか――口にされなかった疑問。
不自然であると疑惑を抱くほど、遊星の中で鬼柳の存在は矮小ではなく、ジャックの怒りを沈められるのはこの場で自分だけであることも、聡い彼は知っていたのだ。不幸なことに、幸運なことに。
荒い足音と不規則にもつれた靴音が離れ、パンとコーヒー、鬼柳とクロウが残される。静かになった部屋。咳払いを、わざとらしく数度。クロウはコーヒーを置いて鬼柳を見た。
「……よし。クロウおいで」
「お、おうっ」
照れ臭そうに笑って、クロウは鬼柳の膝の上に席を移した。背を向けて座ったかと思えば、しばし考えてくるりと体を横に向ける。
ついた手によってテーブルは揺れたが、ジャックの怒号にも耐えたコーヒーたちは強固な器の中、揺れながらも変わらず鎮座している。
位置を決めたクロウを、鬼柳の両腕が包み込んだ。ぎゅうと抱きしめて、寄ってきた頬を擦り合わせて笑む。
「ん〜、あったけぇー」
「へへ、クロウ様だからなっ」
「うんうん、クロウさまさま」
片手を頭に回し撫でくると、クロウも仕返しだと言わんばかりに鬼柳の髪をかきまわす。鬼柳の手がクロウのヘアバンドを引き弾くと、クロウの手は鬼柳のバンダナの結び目の端を摘んだ。
玩具の遊び方を探す子供のように、触れては離れ、また触れる。不意に鬼柳が、笑みを深くしてクロウを呼んだ。
「ほんっと、最初はあんな噛みついてたのにな」
出会って間もない時。デュエリストとしては絶対の信頼を受けこそしたが、過ごす期間が長くなるほどクロウの目は不満と疑惑を訴えていたものだった。人懐っこい性格の彼ではあったが、幼馴染がいる場において、他人である相手との間の壁は薄くも高い。ましてサテライトの悲惨さを説いたのは鬼柳自身であり、そうして尚、信じろなどとばかげた話。
だから鬼柳は、クロウが壁を打ち砕くための近しいポジションになり変わることを選んだ。
鬼柳が得られなかったもの。甘えられる場所。子供でいてもいいのだと思える相手。全てを許容する、ただ許容する存在。
叱ることも愛情であると幸福にも知っていた彼にだからこそ、夢のような空間になりえる場所で、鬼柳は両腕を広げ続けた。
クロウはその腕の中、大きな目を瞬いて首を傾げる。
「おれ、お前噛んだことねえぞ」
「例えだよ。誰か噛んだことあんのかよ」
「昔知らないおっさんとかよく噛んでた」
鬼柳の笑みが陰る。クロウが、自らの口を塞いだ右手に歯を立てたからだ。言葉通りに、そうして噛んだということだろう。
昔。彼が今よりも幼かった頃。知らない男の手をそうして噛む原因など、容易に想像はつく。
きっとクロウは、薄汚れた男たちの目的を半分ほどしか知らないだろう。
「……なるほど」
頷くと同時に、強く抱きしめる。少年期の発展途上の身体は、決して柔らかくも滑らかでもなかったが、鬼柳は十分に満足した。
「鬼柳?」
「ちっとゾッとした。よく噛んだ、偉いぞ」
良く分からないが褒められたことは分かった。その程度だったろう。
クロウはむずむずと唇を結び、やがて鬼柳の胸に顔を埋めた。耳が赤い。隠すように、鬼柳は限界まで頭を垂れて彼の耳元に唇を寄せた。偉い偉い、言い聞かせるように繰り返される言葉に、クロウは居心地の悪さを覚えて鬼柳の腕から逃れるべくもがく。
居心地が悪い、けれど嫌ではない。妙な感覚の最中、クロウは若干見上げた鬼柳と視線をぶつけた後、彼の頬に唇を押し当てた。
「おい、クロウ」
反対の頬にも繰り返そうとしたクロウを、鬼柳が手の平で押し留める。手の平に正面からキスをして、クロウははじめて不満気に顔を歪めた。
「そういうことはなあ、するもんじゃねえの。もっと大人になってからな」
「……おれだって大人だ」
「説得力ねえよ」
逆の頬に唇を押しあてようとするクロウをかわし、鬼柳はまた、彼の頭を撫でた。クロウはとうとうキスを諦め、その手をむっつりと受け止める。
「ま、俺も子供だけどな」
我儘だし、と鬼柳は肩を竦めた。クロウは否定しない。鬼柳の我儘と言われて思い当たる節が山ほどあった。些細なことだ。どれも些細過ぎて、子供だと笑ってしまうほど。
「なんだよ、駄目じゃねえか」
「大人になったら、大人っぽいことするさ」
「何だ、それ」
好奇心でぱっと光った目を、鬼柳の手が塞ぐ。そうした自らの手の甲に、鬼柳は唇で触れた。相手になんの感覚も与えないキスから伝わるものなどない。
それでいい。
「今はまだ、いい」
クロウに何も知らせず、伝えず、覚えさせない。薄汚れた世界の一部をひた隠す。
賢しく育てばいい。強く育てばいい。たったひとつ、介入させない領域が、己のためにあればいい。耐えるわけではない、育てていくのだ、最後の扉を開く日に、非現実的な現実を見たい。何も恐れず真っ直ぐに生きてきた彼は、その時、どんな目をするだろう。
「まだ、子供だもんな」
最後の一つにした扉の先を教える未来を想い、鬼柳はほうと息を吐いた。
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