あいつはいつも見えもしない窓の外を見ている。
怪我をしているわけではない。何も見えないわけでもない、と本人も言っている。だけど真っ黒なアイマスクを付けたまま、あいつは病院の一番端の病棟の一番端の部屋と、その周辺だけでいつも退屈そうに生きている。
鬼柳京介は、特別病棟の患者だ。病名は知らない。ゴドウィン院長の指示で、うっかり道にでも迷わない限り入ることはないだろう小さな病室で療養している男。
おれがそいつと顔を合わせることになったのは、彼の『形式上の』主治医である不動遊星に相談を受けたからだ。遊星はおれの昔からの親友で、おれをこの病院に呼び入れてくれた恩もある。
特別だからといって、流石に主治医が常に面倒をみるわけにもいかず、看護師が時折様子を見に行き世話をすることになっているのだが、三日もたてば辟易して辞退を申し出てくるらしい。被害報告は様々だ。
そんなわけで、鬼柳京介は病院関係者からの嫌われ者。もっと早くおれに話が回ってくるはずだったのを、遊星が気を使ってくれていたようだ。
気に入らなかったら止めよう。遊星には悪いが、おれはそう思って病室に向かった。食事のトレイだけ持って、少し早足に歩く。真っ白い壁。眩い室内灯。ドアが見えなくなってからしばらく行けば、ようやくそいつの病室のドアがある。たったひとつ、ぽつんと。
「鬼柳サーン、お食事ですー」
片腕で支え持ったトレイの上には、病院食じゃない。ごくごく普通の、ジャンクフードだ。病人として病院にいるやつが食うもんじゃねえだろ、と思いながらベッドの膨らみに呼びかける。
「鬼柳さーん。鬼柳さん起きてますよねー? 寝たフリするって聞いてますよーおはようございまーす」
「あー、るっせーな!」
ベッドに転がっていた男が体を起こす。
青みがかった入院着、同じような髪の色、陽に焼けてない肌、それらのせいで浮いて見える真っ黒なアイマスク。薄弱そうな鬼柳京介は、随分と乱暴な口調の男だった。
「まあどう聞いても可愛いナースさん、じゃねぇよなあ。医者…なわけもねーな、そんな頭良さそうな感じしねえし」
はん、と嘲笑。なるほど、態度も随分と乱暴。薄い唇をニタニタさせているせいか、どうにも近寄りがたい。力いっぱい絡んだらうっかり腕か足でも折っちまいそうだし、気楽に構いすぎたら足元すくわれそうだし、下手に出たらつけ上がりそうだ。
「その通り、看護師です。クロウ・ホーガン。まあ、よろしく」
おれはひとまず堅苦しく挨拶してみる。鬼柳の随分な言い草も右から左に流してやると、さっそく舌打ちされた。売られたケンカは買う主義だが、買って損する喧嘩は買わねえ。
そう、出会いは最悪に近かったと思う。
「クローォウ?」
「へっ?」
名前を呼ばれて振り返る。風の強い日、病院の屋上にはあまり人は来ない。フェンスは高く強固に作られているので危険だからというわけではなく、物凄く寒いのだ。眠気覚ましに医者が顔を出すか、おれのように単純にこの場所が好きなやつがぶらりと訪れるだけ。
だから、ぼんやりと思い返していたやつに声をかけられるなんて、全く思ってなくて。
「あっ」
驚いて手から滑り落ちたホットの缶コーヒーが、カラカラと音を立てて床を転がる。中身半分以上入ってたってのに、畜生。
入院着の上にグレーのカーディガンを羽織っただけの鬼柳が、わざとらしく自らを抱きしめて身を震わせた。
「さーみィ! 馬鹿じゃねえの缶ジュース落としてやがるし」
「ジュースじゃねえコーヒーだっ」
「甘いやつだろ」
「……そーだよ悪かったな」
げらげら笑う、鬼柳は耳が良い。アイマスクでほぼいつも目を覆って過ごしているから、聴覚を研ぎ澄ませて周囲を探る。
おれが鬼柳に近づくと、鬼柳もそれを感じて歩み寄ってくる。鬼柳が伸ばした手を、おれが取る。
「何してたんだ」
「さーな」
足元にある缶を拾い上げて、鬼柳に手を引かれるまま、屋上の端までまた戻る。いつからだったか、こんな風に、看護師と患者にはあり得ないほど気軽に接するようになったのは。
こうなってみておれは、随分と鬼柳のことを気にかけていたことに気付いた。患者としてじゃない。同年代に対する興味。そういうと研究者みたいだが、そんな、形式ばったものじゃなくて。
「オレのことでも考えてたんじゃねえの?」
言われて、どんと心臓が鳴った。自然と鬼柳の手を強く握ってしまって、ますます、自分の心音が重い。
ああそうだと言ってもいい、看護師なら。
でも言えなかったのは、看護師として患者を見ていなかった確信があったから。昔っからそうだ、おかげで損してきた。でも素直に言えるもんならいくらでも言ってる、言えないおれと言えない理由が重なって、やっぱり言えない。
何でもなければ男と手なんてつながないだろ、だったら、もしかして。
そんな甘い希望は、いつだってすぐに打ち砕かれる。
「お節介の、偽善者が」
おれは目を閉じた。鬼柳は黙って俺と並んで立っていた。つないだ手が離れないのが、まだおれを縛りつける。
鬼柳はそうして、空を見ているふりをしている。アイマスクの下の眼が、光に目が弱いのかと聞いたことがある。答えはノーだった。見えないわけでも弱くもない。見せたくも見たくもないだけだ。それが答えだった。
知ったのは、随分と前。
「また来たのかよ、暇だなァ?」
ノックの後声が帰ってきたので、ガラと部屋のドアを開く。
鬼柳はベッドの上でバイクの雑誌を開いて、ひらひらとおれの方へ手を振っていた。
天気のいい日は中庭で小児病棟の子どもたちと飯を食ってた。その時間が短くなったのは鬼柳のせいだが、おれがそれを楽しみにすらできるようになったころ。
鬼柳はだいぶ笑うやつだってこと、子どもみたいなやつだってこと、甘えたくて叱られたくて、どうにもじっとしていられなかったことまで分かれば可愛いもんだ。
1週間で遊星は不安そうにおれを見て、一か月で嬉しそうにおれを見送るようになって、今は心底幸せそうに鬼柳の様子を訊ねてくる。
ただ今日はその遊星が笑みを曇らせて、そろそろ治療を受け入れて欲しい、とぼやいた。そういえばあいつは『病人』なんだと、おれは今更思い出す。
鬼柳が病院にいるのは、眼の治療をするためだ。
詳しいことは教えてくれないが、治療といっても確実に治るわけではなく、あれこれ試そうとしているところらしい。きっと何か手段はあると遊星は真っ直ぐに語り、おれはあのアイマスクの外れた鬼柳と外を歩く日を夢想してみて、えらく恥ずかしくなった。
鬼柳の病の正体も、鬼柳がどんな目をしているのかも知らない癖に、だ。
ベッドに備えつけの簡易テーブルは空けられていたので、そこに食事のトレイを置く。今日は出前のラーメンとチャーハンだ。伸びるから早く持って行ってやってくれと遊星に見送られたのを思い出して何とも言えない気分になる。
チャーハンは、鬼柳は何も言わないが、おれの分だ。
だいたい一品で食事を終わらせる鬼柳が複数出前を取るときは、一品分をおれに食わせる。金だけは払おうとしていたが、それもいつしか諦めた。
たまに弁当を作るとき、鬼柳の分も用意するようになったのはつい最近。唐揚げと卵焼きは口にあったようで、入っていないと目に見えて不機嫌になる。
そういうところ、可愛いなあ、とか。
思ってしまうたびに笑ってしまう。
「暇じゃねえよ、ったくよお、動けんだから飯くらい自分で取りに来いってんだ」
「ヒャハッ! 病人に対して随分言ってくれるじゃねえの看護師さんよォ」
「誰が病人だ誰が、健康体じゃねえかっ!」
部屋の隅の丸椅子を掴んで、げらげら笑いながら鬼柳のベッドの横に置く。鬼柳は何も言わないで、割り箸を割った。チャーシューどこだ、と問われたので、鬼柳の手を掴んで箸の先を器の中に導いてやる。
「はーあ…お前がそんなだから、遊星だって」
言って、すぐに口を閉じたが遅かった。
決して鬼柳の前で遊星の名を出すなと、遊星本人からきつく言いつけられていたのだ。嫌われているからと寂しそうに笑う遊星の顔がよぎって、蓮華を持った手を止め改めて鬼柳を見る。
「遊星」
鬼柳がみるみる不機嫌になっていく。嫌い好きのレベルじゃない、子どもの癇癪かとも思えない。嫌悪か、憎悪。口ほどに物を言う目が見えなくたって分かる。
スープの中に使っていた鬼柳の蓮華が、勢いよく持ち上がって、スープをそこらにぶちまけた。
「っ、てめ何しやがる、食べ物粗末にすんじゃねえよ!!」
「帰れ」
低い声。聞いたことのない、落ちつきすぎた声。さっきまでケタケタ笑ってたのはなんだったんだ。
怖いわけじゃない。ただ、困惑はした。
「っ…鬼柳?」
「帰れ。遊星の差し金なら帰れ」
「差し金って……あいつはお前のこと心配して、」
「お前も?」
睨まれた。アイマスクの奥から。
凍ったみたいに動けなくなって、血が引く音すら聞こえた気がした。チャーハンの盛られた皿に置いた蓮華が震えて、カチ、と鳴る。おれの手が震えたからだ。
息を吸って、胸を撫でて、出来る限り明るく。
「そんだけ元気なら心配はいらねえって言いたいところだが、おれだって、どうにかできるならって、思ってる」
こごえて、しまいそうだ。
「だって、だってよ、普通の生活送れるんなら、その方がいいじゃねえか」
ラーメンだって外で食える。
好きな服着て好きな場所にいって、興味深げに眺めていたゲームだってできる。おれだって一緒に行ける。行けるんなら行きたい。
鬼柳は鼻で笑った。
「そのために治療しろって?」
「……目、病気なんだよな?」
「病気…病気ね、そうかもしれねえ、原因は不明だけどな」
肩を竦め、鬼柳はアイマスクの上から片手で目を覆う。痛んだんじゃないかと身を乗り出すが、鬼柳は喉を震わせ笑いだした。
「治療って言やぁ聞こえはいいが、要するにお前ら、モルモットが欲しいだけだろ」
「は?」
「奇跡の子? 悪魔の子? 遺伝子レベルの何とやら、外的要因の特殊変異? 知らねえっつの」
目を押さえつけていた手が、アイマスクの縁にかかって。
黒いマスクが入院着の上に、ぱさり、落ちて。
「……クロウの顔、初めて見たなァ」
細められる目は、想像してた通り切れ長で、睫毛の色素も瞳の色素も薄くて。だけど、おれの視線を奪っていったのは眼球の黒。
鬼柳の眼は明らかに異質だった。コンタクトレンズかと思いもしたが、視力には自信がある。この距離で、気付かないはずがない。間違いなく裸眼の鬼柳の眼、黒の中にくすんだ黄色の、それは。
「目……おまえ、これ、っ」
思わず鬼柳の頬に触れ、身を乗り出して覗き込む。
悪戯でも夢でも幻でもない、しかと合わせた瞳は、現実だった。
「なあ、クロウ。お前にはどう見える? 天使か悪魔か、どっちの仕業だと思う?」
顔を歪め、鬼柳はおれの手を払う。笑顔を浮かべているようには見えるが、視線は冷めきっていた。
今まで鬼柳を拒絶した人々は、これを目にしたのだろうか。目にする間もなく離れたのだろうか。今おれにこれを見せたのは、何を考えてのことなのか。
鬼柳の手が、行き場を無くしたおれの手を取った。
「所詮お前は、遊星のためにここにいるんだろ。遊星は、オヤサシイからよォ……お前もそうなんだろうな」
至近距離で見つめられると、後退りもしたくなる。動かなかったのは、動けなかったから。
「反吐が出る」
がつんと殴られた気さえした。
おれはそのとき、鬼柳京介のことを何も、本当に何も、しらなかったんだと。
それでも、結局立ち向かうことも逃げ切ることも、できない。
何を話すこともなく過ぎる時間の途中で、ふと、おれは口を開いてみる。
「なあ、鬼柳。気は向きそうにねえか」
「たりめーだろ」
たまに問いかけてみる。「治療をする気には、ならないのか?」と。
鬼柳の返事は決まってる。不機嫌な声で、ノーだ。
「ステーキ、食いに連れてってやりてえんだけど」
「広い世界なんざクソくらえだ」
何度も繰り返されるこの言葉。鬼柳は世界を嫌悪する。拒絶の言葉には飽きないのか、いくらでも口にする。あんなにも期待に満ちた声で紡ぐ世界への期待は、鬼柳の理想の中でだけあればいいという。
だから見ない。だから、見せない。
おれは鬼柳のこの思考と外観を知った時点で特別なのだ、だから、そこまでで立ち止まっていろと。そういうことだ。
「……だよな」
強く握った手から伝わる体温はおれが求めているものよりずっとずっと低く、屋上の風がまた、おれの体温も下げていく。おれだけが熱い。気持ちも手の平も、さめきってくれたら、楽になるのに。
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