蝙蝠



「……眠ィ」

 欠伸を一つ。
 暗闇に埋もれて冷たいコンクリートの部屋の隅、目を開けた鬼柳は、残る倦怠感を引きずりながら体を起こした。
 ずる、と地を這う音。濡れた音。雨漏りの水が落ちるにしては粘着質な滴り。鬼柳は手の平に落ちてきたそれを見やって、にいと唇の端を上げた。

「き、っ」

 聞こえた声が、曇って消える。くつくつ、鬼柳は笑いながら歩を進める。足場には天井から滴った液が広がり、走ろうものなら一大事だろう。だから歩く。彼はゆっくりと、歩く。

「きりゅ、うっ!」

 天井から地へ伸ばされた手。正しくは、天井を埋め尽くしたものの隙間から、伸ばされた手。一見すれば工場の内部を巡る排水か何かの汚れたパイプを思わせ、それとはまったく異なるもの。
 ずるり、ずるりと音を立て、不気味なまでにゆったりと蠢く魔の手。
 見上げた鬼柳の頬に、それらが纏った粘液が落ちた。色はなく、臭いもない。笑みを浮かべたまま片手で拭い、鬼柳は声の主を視界に収めた。濡れてもなお鮮やかな、オレンジの髪の特徴的な青年。クロウ。
 かつて、鬼柳の『友』であった彼は今、もはや役目をはたしていない衣服と天井を這うその不可解なものに拘束され、弄ばれていた。
 

 おいで。
 立ち止まった鬼柳が、そう言わんばかりに伸ばした両の手。天井のうねりが、かぱりと裂けた。咀嚼していた餌を吐きだして、また、天井を覆う一部になる。
 濡れそぼった身体を受け止め、鬼柳はその場に座り込んだ。鬼柳の上に座らされたクロウの両手は、力なく鬼柳のローブを掴む。粘液を纏った頬を肩に擦り寄せ、クロウは荒げた呼吸を呑み下した。

「ッ、う、ぅ」
「クロォ」

 機嫌よく目を細め、湿って垂れた逆毛に顎を乗せる。鬼柳はがくがくと震えるクロウの身体をしかと抱きとめ、引き裂かれて顕わになっていた背中にするりと手を這わせた。ぬめった感触が残り、鬼柳は曖昧に眉尻を下げた。

「溶けてるみてえ」
「……き、…ぅ、っ、何、……ぉ」
「ん?」

 呂律が回らないどころか、言葉を紡ぐことすらままならない様子のクロウを撫でて宥め、鬼柳はゆるやかに首を傾ける。紅潮した頬を離し、クロウは濡れた唇をひたすらに必死に開く。意味のない言葉をぽろぽろと零し、終いにはその目から涙まで落ちた。

「う、……ぅ」
「泣くなよクロウ…」

 蕩けるような声音と笑みとは裏腹に、鬼柳はクロウの背を撫でる手をすっと下ろした。普段のクロウの恰好であればベルトにぶつかるはずの手は、そのまま臀部へと滑りこむ。
 厚手の布で仕立てられている彼のズボンは、既に異常な力であちこち引き千切られ、引き裂かれた状態だった。背中からその裂け目をなぞっていた手は、クロウの臀部の左側の肉を強く掴む。
 クロウの身体が過剰に跳ねたのを確かめ、鬼柳は指を更に進めていく。布地を押しのけ、押し広げた穴から垂れてきた液を指に絡めて。彼は、耐えきれずにとうとう笑った。
 甲高く、突き刺すような笑い声。耳を塞ぐ力すら、クロウにはない。
 
「クロウ、濡れてんだけどよォ? なあ?」
「ッ」
「アレぶちこまれてヨガってたのか?何本?どんだけ太ぇの?」

 鬼柳の白く細い指が、音を立ててクロウの中を出入りする。掻き出すでも押し込むでもない。無造作に、揶揄するためだけの行為。
 濡れそぼった指をクロウが纏う布で拭い、ケタ、と鬼柳は嘲笑う。

「溢れてくんだよなァ、ってことは中に出されたのか、アレに?すうげえ貴重な体験じゃねえかクロウ良かったな、なァ!」

 クロウを抱いたまま、鬼柳は背を反らせる。ゆるやかに息を吐き、見上げた先から一本だけ降りてきたそれを、伸ばした右手で撫でた。 
 するりと、指はクロウの頬へ降りる。
 だが、瞬間、優しい手つきは一転し、白い指はクロウの顔を掴んで無理矢理上向かせた。クロウがぐうと喉をならし、眼前で動きを止めた丸みを帯びた先端は変わらずぬらぬらと光り、彼に先の行為を思い出させた。

「ほら」

 低い声。ぽたりと、粘液がマーカーを刻んだクロウの頬に滴る。

「言えよ」

 縋ることすら出来なくなったクロウに、鬼柳は逃げる間を与えなかった。両肩からだらりと下がった腕の先だけが、反応を示す。鬼柳の言葉を理解していたのか否か、クロウの眼は、眼前の悪夢に奪われている。

「こんなんじゃ嫌だって。オレのがいいって言ってみろ」

 天井が蠢いて、クロウの目と耳から揺さぶりをかける。薄らと開かれていた口は乾いて、自らの意思で締めた喉は言うことを聞かない。答えられるはずもない、見れば分かるだろうに、鬼柳は許さなかった。

「……足りなかったみてェだなァ」
「っァ、――!」

 待て、そう紡ぐはずだったクロウの声は高い悲鳴になり変わった。天井から降り注ぐ無数の異物、クロウを突き放し立ちあがった鬼柳の黒衣がひるがえる、薄暗い中に黒が、かき消える。

「あぁああああァあッ!」

 空気までも、おぞましさに騒ぎ立てた。
 ガラガラと転がる悲鳴が、地を離れて宙へ浮く。
 下肢を捕らえ、うねるものが全て、黒に近い青色を持っていることを鬼柳だけが知っている。窓のない室内では、まるで黒そのものだ。クロウの眼にもそう映っているだろう。
 引きずりあげられ、喰らわれる――過ぎた快楽、限度を超えた苦痛、内から外から裂かれる痛みに、クロウの思考だけが、この場で白を訴えた。

「えッ、ぅ、りゅ」
「聞こえねえ…聞こえねえよ」
「っふあ、ア、……!!」

 こぷりと、耳奥を揺らす音。一度響いた後は、あちこちで音を立てる。折り曲げられた膝の内側、背中に回された腕、手の平の中。擦りつけられる粘液が、クロウの肌を伝って落ちる。開かれた下肢の穴を塞ぐものは、中で小刻みに震えた。

「っあ、…ァく、ぅあっ…」

 逆さになった世界を、見開かれた瞳に映す。彼のすぐ前には鬼柳の顔。歪な笑み。
 地へ向けてぶら下がったままの彼の手を、鬼柳が取る。グローブから伸びた手の先、短い爪の表面に、ひたと、舌先を押し当てて。

「コウモリみてえ」

 ぱくりとそのまま指先を咥え、ざらついた舌で指の腹を包み込む。下肢の率直な刺激とは異なる緩やかな感覚が、血の昇ったクロウの頭をさらに掻き乱した。
 軽く吸って、離れる。濡れた舌と濡らされた指の先が、細く糸を引くのを、辛うじて認識しながら、クロウは弱く喘いだ。

「どっちつかずの、半端者」

 揶揄の意味を悟ったのか。ぐいと奥歯を噛みしめて、零れかけた唾液も喘ぐ声も飲み込んでクロウは鬼柳を見据える。
 闘う運命を抱えた二組の、どちらでもない存在。彼は、所謂普遍的な正義の側に立つことを選びながら、その真逆に立つ鬼柳に対する愛着を捨て切れずにいる。
 執着は、不動遊星ほどではない。だが彼は、運命において既に両断されている。選べるという事実が残酷にクロウを追い詰めて。

「ほォら、頑張れよ」
「……ッ!!」

 拒絶の方法を見失った身体が、強張る。ぴんと反った背と、声なく開かれた唇。濡れた睫毛が震えた。
 絶頂と、そこに至るまでの常識外れの過程を短時間で叩き込まれた彼は、引きずり込まれればあとはただただ実直に、溺れる。
 下肢を覆い隠した無数の黒は、繰り返し教え込んできた快楽を引き出すためだけに今はある。散々内側から広げられた後孔の奥、執拗に攻め立てられる強引な引き金。脳髄を撃ち抜くほどの強い刺激に、言葉を言葉として叫び吐くことすら、もう。

「っき、っぁ、くあ、ぁ、ぁあっぁああ!?」

 声ごと身体ごと、がくがくと震えるのは、物理的に揺さぶられているから。掠れた絶叫を、鬼柳は目を伏せて聞いた。
 がむしゃらに伸ばされたクロウの手が、鬼柳のマントを掴んで、髪を掴んでも、笑みを刻んでまで、じっと目を閉じていた。
 動いたのは、クロウの両腕が鬼柳の頭を抱き寄せた時。
 朦朧とした意識の中、クロウが口にした、言葉らしい言葉を拾った時。

 ゆっくりと、天井から伸びたそれらがクロウを鬼柳から引きはがし、その身を床へと近づける。
 指先。手の甲。腕。頭。背中。順番に、人として立つべき場所へ、身は返されていく。踵が地につくと、天井は何の変哲もない、ただのコンクリートへと戻っていた。
 消えゆくのは、全てが夢、幻と思わせるほどの一瞬。しかし、濡れた床と穢れたクロウの身はそのまま。鬼柳の髪も、服も、しっとりと湿り気を帯びたままだ。

「……萎えること、言ってんじゃねえよ……」


 守る、と彼は言った。
 意識を失う直前に何を思い浮かべたのか、想像は容易い。

 自ら過酷な環境に飛び込むほど追い込まれて、可哀想に、かわいそうに――
 そうして投げ込まれた餌を、当然のように雛に差し出す親鳥。親鳥がいなくなることなんて考えもしない雛たちの前で、雛たちを失う不安に突き動かされ飛び続ける親鳥。
 溺れても、絡め取られても。自ら羽を引き千切ってでも、きっと雛の元に還る。
 食い止めようと思っているのだろう、闘いの波を何としても、彼らに及ぶ前に。鬼柳の狂気もその一つとして捉えているからこその、無意識。
 彼の名、クロウは、実に皮肉な名前。



 濡れた唇を緩く舐め上げて、そのまま、横たわるクロウの頭を正面に向けて、逆さのまま、上から深く口付ける。舌の表面同士が触れあう馴染みの薄いキスで、ゆるやかに削り取られていく、錯覚。

「……クロウ」

 耳を塞いでいた手を肩に添え、そこから背中側へ回して、わきの下を抱える。唇を離す代わりに引きあげた彼の力の抜けた身を、座り込んだ足の上に座らせ、自身側へ持たれかけた。
 鬼柳の肩あたりに、重みがかかる。甘えるような角度で、触れた頭。

「オレのことは、守ってくれねえの?」

 濡れたままの髪に頬を押し当て、弱く鬼柳はつぶやいた。
 地縛神の力は、復讐のために。自らを裏切り捨てた仲間たちを傷つけ地に伏せ葬り去るため。全てその一環。
 だから、これは、恨みの言葉だ。
 鬼柳は自身に言い聞かせ、クロウの身体をそっと抱いた。

「オレのことは捨てたのに、あいつらは、守るんだろ?」

 癖の強い髪を食みながら紡ぐ言葉を、濡れた髪から沁み込ませる。クロウの意識はない。あえて浮かべようとすることもしない。甘く優しく、紡ぐ呪詛。

「どうして俺を裏切った?」

 人形同様のクロウへ囁き続けることに、鬼柳は一つとして疑問を抱いてはいなかった。彼が理解できなかったのは、自然と右目から零れた涙の理由。瞬きひとつで止まってしまった、マーカーを辿って落ちた滴の理由だけ。
 衝動的に強く抱きしめた身体の熱さに、鬼柳は目を閉じ浸った。

 愛か憎悪か。どちらかに、決めなければ。
 いつまでも彷徨ってはいられないのだ。
 

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