くろがね







 がら、がらん。


 音がして、クロウは目を開いた。

 壁にもたれて座りこみ、眠っていたわけではない。窓を塞がれ明かりのほとんど差し込まない、夜の廃ビルの光景を眺めたところで無意味であると悟ったから、瞼の裏に希望を見ていた。
 それは先ほどまで見ていた変わりないサテライトの風景であったり、これから見て行くであろう子供たちの姿であったり。この場を避けて浮かべた希望は、仄暗くもあり、眩くもあった。

 部屋の端を伝い立つパイプ。内側の空洞に何かを通すための細い鉄柱、幾度も揺らしてみたが、軋みはすれど外れはしない。
 グローブを外された素手、手首と指先に絡みつく針金が肉に食い込むだけで、それが皮膚を裂く予感にクロウは背後の拘束を解くことはとうに諦めていた。

「…相変わらずお利口だな、クロウよォ」

 がら、がら、がら。
 音を立てて、クロウを縛りつける張本人がやってきた。黒いローブ。右の手から真っ直ぐにぶら下がるのは、錆びたパイプ。
 張り付けたような笑みは、暗がりでは随分と絵になる。
 傷つきながらも目を光らせる自身はさて、絵になっているのだろうか。クロウは思考の端だけを数秒停止させることで、いつもの笑みを浮かべることができた。

「そうだな、腕、怪我したくねえもんな」
「何がしてぇんだよ」

 鬼柳京介。
 クロウを捕らえた男の視線が、クロウの心を見透かすように細められる。

「復讐」

 ゆっくりと発された単語の意味をクロウは考えてしまった。それほど、馴染みの薄い言葉。鬼柳の右手が持ち上がり、握りしめられた鉄の棒がクロウの顎を掬う。辛うじて視界を維持する光源が、色素の薄い鬼柳の髪と目を透かし光らせた。

「裏切り者のお前らに、復讐がしたい」

 目は逸らさない。く、と奥歯を噛んで、乾いた口内を湿らせた唾液を呑みこむ。見上げた先の顔が笑みを失っていることも承知で、クロウは口を開いた。

「……チームを抜けたのが、裏切りだってのか」
「ああ…お前には分かんねェだろうな」
「答えた振りしてんじゃねえ。答えろよ」

 喉仏に押し当てられた鉄パイプの先端、錆が弱い皮膚を擦る。このまま強く突き立てられればどうなるか。分からないほど、クロウはもう幼くない。
 
「状況、確認させてやるよ。クロウ、お前はな、オレの機嫌次第で命だってどうにでも…ックク」

 そんなことは分かっている。
 目線でクロウの反論は伝わったのだろうか。クロウの喉の圧迫感は、胸元を滑り腹まで落ちる。そうして、布地を引っかけて、持ち上げた。

「何…してやがる」
「……『子供じゃねえし女でもねえ。気なんて使うな』」

 錆びたパイプは布を引き攣れ、繰り返されて、クロウの腹が露出する。十分な筋肉に覆われ、日にも焼けた肌。たくし上げられた布地は首元まで持ち上がり、胸元の突起までが晒されると、鬼柳は笑みを深めた。

「昔、言ってたな」
「いッ…」

 パイプの先で、突起をがり、と擦る。僅かに背を丸めて、血が滲み出たことを確かめて唇を舐めた。
 鬼柳が何をしたいのか、鬼柳の言う復讐が何であるか。鉄パイプが置かれたのが左胸の上であったので、クロウは息をとめていた。たとえば、皮膚を裂かれる痛みに。たとえば、貫かれる衝撃にも。
 しかし、鬼柳の右足が、座り込むクロウの足の間に入りこんだことで状況は変わる。靴底が踏みつけたのは、別の急所。
 踏みつぶすでもなく触れるでもない力加減は、クロウの背筋を凍らせた。

「遊んでやるよ。クローォちゃん」

 揶揄をこめて三日月型に歪んだ眼も唇も、滲ませたのはどす黒い感情だけだった。復讐。彼の未来図に己がどう描かれるのか、最悪の予感が過ぎる。無意識に走る嫌悪感を振り払おうと、クロウは頭を振った。

「やめっ、ろ……!」

 腕に食い込む細い鉄糸がクロウの精神まで戒める。指にまできつく絡められているのは明らかにそれを凶器としてクロウに意識させるために行われている。
 脆弱な拘束。それにすら抗えない現実は、容赦なくクロウを打ちのめした。笑い声を顰めて、鬼柳は錆を擦りつけるようにクロウの胸の突起を上下に撫でた。

「いい子いい子、大人しくしときな」
「いッ、…て」
「あ、擦れたか?悪ィなー、こんなもんしかないんだよ、ここにはよ」

 薄く滲んだ血を塗りこめる。腹部まで滑らせると、細く白い跡が残った。爪を立てるより、刃を立てるよりずっと優しい痛み。傷にもならない疼きが、二人分の感情を抉る。

「何にもねェんだ。ここには」

 鬼柳の表情は浮かんでは消える。笑みか、虚無。虚ろな黒に浮かぶ金は、そのときクロウの先を見ていたようだった。クロウの半身をなぞっていた鉄パイプが、彷徨うように離れ。

「家族も、仲間も、未来も、希望もォ!」

 一層強い音を立てて、クロウの顔の真横に突き立てられた。
 
 コンクリで固められた壁は貫かれることも余計にひび割れることもなかったが、衝撃が、鬼柳の声とともに部屋に反響する。落ちたタンクトップが傷口に触れる微かな痛みに顰めた眉を、クロウはさらに寄せる。
 からからと引き戻されていく温度のない塊が、クロウの眼前、見せつけるように揺らされた。

「その分どこまでだって、汚れられるけどな」

 マーカーの刻まれた頬をなぞり、唇の端にたどり着いた。緊張のせいか乾いた唇に触れるか触れないかの距離、突きつけたまま、鬼柳は楽しそうに目を開いた。一番煌めく金が強張るクロウを見下ろす。

「舐めろ」

 その言葉に咄嗟に硬く結ばれた唇は、押し込められた鉄を受け入れることはしなかった。鬼柳はしかし、苛立ちを顕わにすることはない。余裕綽々といった様子で肩を竦めた。

「やぁらしくな?満足させてみろよ、じゃねえと」

 低くなる声。爪先にかけられた体重。クロウはひやりと背筋に走った恐怖に呼吸をとめた。

「潰しちまうぜ」

 何をとは言わない。一番分かっているのはクロウ自身だから。 
 硬い靴底の下敷きにされた箇所は衣服数枚で守りきれるほど強くない。冗談ですら恐ろしいと言うのに、鬼柳は本気だ。
 例えこの場で蹴りあげて逃れたとしても、次はすぐに来る。腕に食い込んだ針金は緩む気配すらない。

「っどうし、ちまったんだよ、お前」

 震える声は鬼柳に届いたはずだ。好まないやり方ではあるが、弱さを見せるのは逃げ道を作る手段の一つ。何しろ鬼柳京介は面倒見のいい男であったから、彼が彼であるのなら、これは有効な手段であると咄嗟にクロウは思った。内心の恐怖を、塗り替えて。

「潰される方が好みか、そォーかそうか」

 変わらない表情、圧迫される両足の間。後退るほど、鬼柳は体を前に傾ける。唇に触れた棒きれは動かない。遡る。頭に入れた情報をほんの少し遡って、クロウはそっと舌を突き出した。何が付着しているのかも分からない、間違いなく清潔とは程遠いものを口に入れることに抵抗はあったが、今は、選ぶしかない。
 味覚に突き刺さる鉄の味に泣ける気もしたが、クロウは舌を伸ばす。もっと奥まで、と鬼柳が低く出した指示も聞きつけて、かちりと歯をぶつけた。

「ああ、噛むんじゃねえぞ。練習にならねェからな」

 ――何の?
 問いは紡げない。息を止めて、細く酷い味のする無機物にひたすら舌を這わせる。舌が渇くとざらざらと痛むので、時折わざと唾液を乗せて、そのついでに息を吐いて、吸って。
 けれど疑問を乗せた視線を持ち上げた時気がついたのか、鬼柳は驚いたようだった。昔に近い表情に、自然、クロウは詰めていた息を吐く。唇の端から唾液が伝った。

「…何の練習か分かってねえの?おい、可愛いなァクロウちゃんよぉ〜」

 鉄パイプが動く。喉ギリギリまで伸ばされて、クロウは慌てて頭を引いた。貫かれるかと思ってのことだが、どうやらそうではなかったようだ。舌の上から始まって、ゆっくりと口内をなぞるように回る。傷つけないようにと優しさすら持って。
 だが一方で、鬼柳の片手は別の目的を持って動いていた。クロウの目線の先。鉄パイプの根元の方。飾りベルトが外れて、クロウがその顔に疑問を浮かべると同時に下肢の衣服が落ちる。
 がちりと鉄パイプを噛んでしまったことを、鬼柳は咎めなかった。

「太さ全然違うけどなァ、言ったろ、満足させてみろって」

 こんな形で他人のそれを晒されるとは思ってもみなかった。歯先が錆を削っても、吐きだすことも忘れて両目でしかと見る。見せつけるように腰を突き出してくるから、余計に目に入る。
 言う通り太さの違う、生々しく脈打つそれ。クロウも持っている、そもそも男なら誰でも持っているものだが、他人のものと考えると猛烈に嫌悪感が込み上げた。

「ぁっ、う……ぅぇ」

 鉄錆の味も相まって、思わずえずいたクロウを見下ろし、鬼柳はますます嬉しそうに唇の端を上げる。

「ああ……良く自衛したなァ、流石自慢の元仲間」

 逃げようとするクロウの口から、なかなか鉄パイプは引き抜かれない。大きく口を開けて首を振れば奥へと押し込まれ、限界まで後に下がろうとすれば、内側から頬を抉るように撫でていく。錆の混じった唾液が次々に零れて、弱い水音が立つ。

「…ひゃはッ、そうだな、オレも満足させてやらねえとなァ!」

 放り投げられて、床に転がった鉄塊。鬼柳の手は、舌の上の錆を吐きだすクロウの髪をしかと掴んだ。抜けるほど強く引き上げられ、潤んだ瞳から涙がこぼれる。濡れた唇が震えた。

「い……ぃ、いやだ、きりゅう」

 計算ではない。純粋な怯えの表情に、鬼柳もまた歓喜を全身で示した。全身を駆け巡った感覚に身を震わせ、既に十分に硬化していた性器は喜び勇んでクロウの顔に向く。

「どっちがいいか、ほらよ。もう一回選びなァ」

 選びようのない選択を突きつける。ぐうと喉を鳴らした後、懇願の言葉も紡げなくなって、曇天色の瞳は鬼柳を仰ぐことすらしなくなった。鼻先まで突き付けられた性器をじっと見つめ、クロウは唇を震わせる。
 嗚咽を漏らすことだけはしまいと、何度も何度も唾液を呑みこみながら、先端をちろと舐める。勿論それで鬼柳が満足するはずもなく、彼の手によって喉奥まで一気に咥えこまされた。
 跳ねる体は押さえつける必要もなく、靴底を擦りつけるように動かせば良かった。大人しくぺたりと舌を付け、ざらざらと側面を撫でる。

「ん、……ぇう」

 あぐあぐと口を開いて、先走った体液の味に顔を顰めながら、唇の端から押し流す。その間、鬼柳はクロウの下肢を踏みつける足を、別の意図で動かし始めた。爪先でなぞり、靴底で撫でる。可能な限り優しく、それでいて確かに形をつくるように。

「あう、ぃ、ゅう」

 ――ちゅく。
 濡れた音に混じって甘ったるく呼ばれた名を聞きつけて、鬼柳はさらに深く笑んだ。

「目ェ」

 閉じろ。

 言うが早いか、鬼柳はクロウの頭を壁に押しつけながら自身を引き抜き、白濁は開かれたままのクロウの口内と、咄嗟に閉じた瞼、額、頬へと勢いよく放たれた。
 生暖かさと独特の臭いを嫌悪したのか、硬く閉じられた眼は動かない。震える瞼からとろりと流れ落ちる液を目を細めて眺め、鬼柳はそっと足を上げた。

「お前も、出すよな?」
「……ふ……」

 恐怖で縮こまっていたはずのクロウの性器は、仄かにではあるが勃ち上がりつつあった。別の男のそれをしゃぶらされながら、乱雑に、靴底で撫でられただけで。

「オレにされてェ?それとも……」

 未だ目を開かないのは、視覚で現実を捉えたくなかったからだ。
 くつくつくつ、嗤う鬼柳の手が、クロウの肩を撫でて腕を降り、食い込んだ針金を指先がなぞる。

「解いてやろーかァ?」

 暗に示された選択肢を、クロウは受け入れることも拒否することもできなかった。閉じた目からぼろぼろと落ちる涙が白濁を流してくれることを願い、嗚咽が零れることも、自然と諦めていた。

「……ぇ、…く、う、っぅえ、きゆ、ぅう」

 縦に首を振る。ぐしゃぐしゃになった顔を隠すように俯いて、それでも縦に。
 うん。うん。頷いた鬼柳はしゃがみ込んで、クロウの背面に転がっていた小さな爪切りを拾い上げた。

「素直でいいぜ…オレも優しくしてやりたくなるなァ」

 ぱちん。
 爪切りの刃が、細い鉄糸を遮断していく。
 クロウを抱きかかえるように回った鬼柳の腕が、クロウの拘束を徐々に解いていく。
 ぱちん。

「急かして悪かったな、怖かったろォ」

 ぱち。
 肩を震わせ笑う声を押し殺す鬼柳に、クロウは額を擦りつけた。不規則に跳ねる肩。やがて解放された右腕が、まず鬼柳の腕を握った。細い傷の跡を隠したがるように、鬼柳のマントを引き寄せる。

「……時間はたぁっぷりあるもんな?大事にしてやるよ」

 答えは返らない。
 構わず、鬼柳は自らの腕を掴む手を握り、未だ布に隠れた下腹部へと導いてやった。

「オレがいい子でいられたらだけどな」

 既に反応を示し始めた性器にクロウの手が掠めるように導いたのは、もちろん、故意に。
 凍りついたように固まったクロウの背を撫で、鬼柳は再びの絶望に見開かれただろう瞳を想像して、堪え切れずに高く笑った。



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