夜蜘蛛--ルドクロ






 呼吸することを、一瞬か、それとももっと長い間か忘れていたようだ。
 急に入ってきた酸素を取り込みきれずむせながら、クロウは飛び起き背を丸める。
 そうしてからようやく開いた目には、自分の腕と足が確かに見えた。

「……おれは」

 生きてる?
 拳に力が入ることを確かめて、そこでようやく安堵の息が漏れる。
 正体不明の黒い霧は、死の匂いを醸し出しながら迫ってきた。必死でブラックバードを走らせて叫んで拒んでも、取り囲まれたときには反射的に思ったのだ、こんなところで死ぬのか、と。
 けれど、生きている。ならば、どう逃げたのかは知らないが逃げ切ったということなのだろう。それとも、あの感覚は思い過ごしだったのか。クロウはもう一度確かめるように、深く息を吸って、吐いた。

「目覚めたか」

 クロウは突如聞こえた男の声に即座に顔を上げた。部屋は暗く、けれど男の姿を認識するには十分だ。黒いローブの屈強な男、見覚えは無い。クロウは目を細め、「誰だ」と問いを投げた。

「素行は見た目通りか、救い出してやった礼もないとは」
「救い出した……? あんたが、おれをか」

 男の唇が笑む。目はローブのフードで隠されていて見えないため、その笑みの本意は読み取れない。クロウはそこで、今と同じ光景を目にした事があることを思い出す。忘れるはずも無い、彼を走らせた目的に直結する出来事だ。鬼柳京介の、変わり果てた姿。

「ダークシグナー……!」

 笑う男からは、霧と同じ死の匂いがした。




 男の手は容易くクロウの手首を捕え、先程までクロウが横たわっていた冷たい床に小柄なその身を縫いとめる。間近に迫ったことで見えた瞳が黒い眼球に浮かんでいることは分かるが、霞がかかったようにぼやけていた。そこで、部屋の薄暗さが明かりの問題ではないことにクロウは気付く。あの霧が、仄かにだが漂っているのだ。
 命を搾り取るかのような寒さの中で、熱を持つはずの男の手までもが冷たい。体が震えるのは冷えのせいか、恐怖のせいか。それを振り払うように、クロウはもがいた。

「なんで、ああくそっ、とにかくだ! てめぇおれとデュエルしろ!」
「デュエル? シグナーでもない貴様が、私とか?」

 デッキもないのに、と男が笑い、クロウはかっと顔を赤くする。両足をばたつかせて暴れるが、自分より一回り大きな男に馬乗りになられては、その程度ではびくともしない。小柄な自分を恨みながら、クロウはなおも吼える。

「うるっせえ! てめぇらなんざこのクロウ様がきっちり駆除してやるってんだ!」
「ふっ……駆除とは、言ってくれる」
「へっ悔しいかよ! 悔しかったら、」

 挑発のため舌を出したところで、クロウの唇は男のそれで塞がれた。やはり冷たい感触にクロウは首を竦ませた。顔を背けようとするが、男の手で顎を捕えられる。ならばと開放された手で男を殴りつけるが、蹂躙される口内が気になって思い通りにいかない。

「っむぁ、んうぅうう〜ッ!」

 呼吸のリズムも忘れて暴れれば当然、心臓は早く鳴る。血が勢いよく廻って熱を持つ体は余計に過敏になっていく。混じる唾液が唇から零れ落ちて、嫌悪感に耐え切れず目を閉じる。それでも男が離れる気配は無く、クロウは男を殴りつけていた手でローブを掴んだ。殴って駄目ならば引き剥がそうと考えてはみたのだが、縋るような形にしかならない。呼吸が不安定なせいか、部屋に充満する霧のせいか、意識が抜け落ちそうだった。体からも気力からも抵抗力が奪われて、逃れる事が出来ない。まるで、蜘蛛の糸に捕えられた蝶の気分だった。
 いっそ気絶してしまった方が楽かと思ったところで、ようやく唇を開放される。顎を掴んでいた手も離れると即座にクロウは顔を背け、口内に残る唾液を吐き出した。

「ぅえ、けほ、っ……」

 舌もつかって出来る限りその生暖かい体液を押し出すと、それによって濡れた頬にますます冷気を感じて別の不快感が襲う。男のローブを掴んでいた手で頬から口元を拭い、ようやく男を睨みつける余裕が生まれたクロウはすぐさま男に向き直った。

「てっ……めえ! この変態野郎!」
「ほう、貴様も楽しんでいたようだが」
「なわけねえだろ、気持ち悪ぃんだよ! ダークシグナーってのは何だ、変態野郎の集団か!」

 失いかけた気力が戻ったクロウはまた腕を振り上げ、声を張り上げた。男の表情は変わらない。明らかな余裕をもって見下ろされることに耐え切れず、クロウは止め処なく罵声を浴びせる。

「駆除すると言ったな、……小僧」
「あぁ?」
「ならば、こちらは飼いならしてやろう」
「はあ? ……誰に何言ってやがる? このクロウ様をか?」

 静かな男の声に、クロウは嘲笑で返した。寝言は寝て言え。そう言い放ってまた顔を背ける。男はそこで、くっと笑った。

「人は、死と闇からは逃れられない」
「……何?」

 死、の一言がクロウを揺さ振った。
 男の手による拘束が、ゆっくりと解かれていく。しかしクロウは生唾を飲み込むだけで、身を捩ることすら出来なかった。闇の色に浮かぶ瞳が、夜の廃屋の色をしたクロウの目をじっと見つめる。

「貴様はもう、捕らわれているのだ……分かるだろう、クロウ」
「あ、」

 無機物のはずの、霧がざわめいた。黒い粒子はクロウの肌を撫でるように渦巻き、引き攣った喉から声が漏れる。呼吸をすれば、霧は体内に取り込まれていく。それが突然恐ろしくなり、クロウは息を止めた。結ばれた唇を、男の指がなぞる。

「もう遅い。お前の本質は、すでに死という闇にある」
「あ、うぁああっ!」

 咄嗟に反論しようと開いた唇から漏れたのは言葉にもならない悲鳴で、それを喜ぶように霧はクロウを包む。男がクロウの上から退けて片手をかざすと、霧は糸のように伸びた。それは蜘蛛の糸のように部屋に張り巡らされ、クロウの身を大文字に固定する。足先は地から浮かされ、その不安定さがますますクロウの脳裏で警報を鳴らした。

「何だよこれ……! 何だよ、これはよッ!」
「鴉が蜘蛛に飼われるなど、寓話にもあるまい。面白いとは思わんか」
「はあッ!? メルヘンなこと言ってんじゃねえよ変態ダークシグナー!」

 クロウの言葉を無視し、男は片手でクロウの首筋をざらりと撫でた。太い血管の上に触れられると本能的にクロウの身は強張り、逃れようとして喉元が引き攣る。咄嗟に目を閉じてしまったことを悔やみながらまた視線を戻せば、男はそれを助長するようにクロウの頬に片手を添えた。

「っ触んな!」
「聞けんな。これは、躾だ」
「ざっけんな……!」

 触れる手に噛み付いてやろうと口を開ければ、男の指が狙いすましたかのように押し込まれた。人差し指と中指だ。しかしいざ歯を立てようとしたところで顎を物凄い力で掴まれ阻止される。痛みと悔しさに顔を顰めて、それでもクロウは出来る限り男の指を噛んだ。

「なるほど、噛み癖があるのか」

 身動きの取れない状況と、男の静かな声がクロウを焦らせる。尖り気味の犬歯を押し付けるように噛んでも甘噛みにしかならず、男の指が中で軽く折り曲げられると、何が起こるのかと身が竦む。男の指と、己の唇を濡らしながら唾液が零れる様を先程とは違って正面から見られている事実は、クロウにとっては屈辱以外のなんでもなかった。

「寒くはないか」

 クロウの口内に差し入れた指を強引に増やした男は笑う。波風立たない湖の、不自然な静けさを思わせる声だった。

「……んん、ッ」

 一瞬喉まで指を押し込まれ、吐き気に襲われるも涙を浮かべるだけでそれは消える。生理現象とはいえ涙など見せてたまるかと、クロウは頭を振ろうとする。クロウの意思に反して頭はぴくりとも動かなかった。そう、ぴくりとも。

「寒いのだろう?」

 男の指が舌の表面を掻くように這う。そうして僅かに浮いた指に、クロウは自ら舌を押し付けた。顎を掴む手が離れると、無理矢理開かされていた口をそっと閉じて、男の指を口内に閉じ込めた。
 クロウの意志は、そこにはない。

「……ん、ん」

 男の指をおずおずとしゃぶりながら、クロウは困惑に眉を潜めた。思考と身体が繋がっていないにも関わらず、男の言葉通りに寒気はすることに気付く。そして、冷たかったはずの男の指に熱を感じ始めていることにも。

「すぐに暖かくなる。そうすればもう何を否定することもない」

 問いかけることすら出来ず、クロウは熱いとも感じるようになった男の指を丹念に舐めた。僅かに首を傾げ、動物が甘えるような仕草で行為に没頭する。そのうち、それを嫌悪だと感じているのかどうかも分からなくなる。


 死は即ち闇であり、闇は即ち安らぎである。己が求めていたものは他でもないそれで、できるものなら、気高く生きたかった。盗みをはたらき罪の証を刻まれるたび強くなる光への渇望。クロウにとってそれは自分を慕う子供たちや友人たちで、しかしその存在がクロウの罪を色濃く際立たせる。どちらのために求めたのだろう。罪を正当化するための光は果たして光か。罪を罪と思い知らせるための光は果たして光か。
 混濁する意識の中で、クロウは必死に答えを探す。救いたかったのか救われたかったのか。体の奥で渦巻く何かが、その答えを覆い隠していく。


 男の指が引き抜かれ、クロウは開いた口からゆっくりと息を吸った。
 死は即ち闇であり、闇は即ち安らぎである。全てを曖昧にするそれは、きっと優しさなのだと、ふと思った。

「おれ……おれ、」

 目の前の男の黒いローブに、暖かみを感じて手を伸ばそうとした。男に向けて踏み出した瞬間拘束は解かれ、クロウの身は地へ降り立つ。
 男のローブを掴み、しげしげと眺める。黒。近い、けれど違う。自分は光のない場所で生まれた。一番安らげる場所はそこだった。自分がたどり着きたかった場所は、始まりにしかない、否、始まりはすなわち終わりだった。ならば終わりには、

「クロウ」

 男に名を呼ばれて、思考を止めた。そうだ、もう、考えなくてもいい。本当に、本当に好きに、振舞えばいい。本当って何だ、いや、そんなことはもうどうだっていい、

「ようこそ。同胞よ」

 クロウは一度首を傾げたが、やがてかくりと頷いた。部屋の空気が不思議と馴染んで、自然と笑みが浮かぶ。男か空気かどちらかをぼんやりと瞳に映して、クロウは感嘆の息を吐いた。

「すげえ……いい、な」

 口にした言葉が何を讃えたのかはクロウ自身にもわからなかった。






「ルドガー……何してたん、」

 長いテーブルの隅にある椅子に座っていた、蒼銀髪の男が息を呑む。ルドガーは、小さく笑みを返し傍らに立つ青年を前へと押し出した。逆立った橙色の髪とは対照的に、真夜中の空気を思わせる青みがかった灰色の眼はうつろに揺れている。鬼柳は目を見開いた。「クロウ」、と彼の名を呼びながら。

「鬼柳京介、退屈しのぎだ。くれてやる」

 ルドガーに促されるがまま、クロウはふらふらと鬼柳の前へと歩み寄る。鬼柳は席を立ち、おぼつかない足取りの彼をその胸で受け止めた。抵抗なく抱き止められたクロウは、ゆるりと顔を上げる。

「……はは、はははっ、何だお前、随分と大人しくなっちまったなあ、クロウ!」

 鬼柳の手がクロウの髪を掴んでさらに顔を上へ向ける。喉を反らされて苦しいだろうに、クロウは文句も言わず鬼柳をまっすぐに見上げた。鬼柳は目を細める。口元に刻んだ笑みに滲み出るのは、狂気と愉悦。

「かつては仲間だったのだろう? 貴様と、それと、不動遊星、そしてジャック・アトラスは」
「ああ、そうだ」
「ならば、これで丁度良い。そうだろう」
「そうだな、そうだ……くくっ、ハハハッ、面白ぇ!」

 鬼柳はクロウの腕を掴み、性急に歩き出す。よろめきながらもクロウはそれを追う。

「来いよクロウ、デッキをやる。やっぱりブラックフェザーがいいか? あれは俺も好きだぜぇ」

 嬉々とした表情を浮かべ、部屋を出る寸前鬼柳は振り返る。鬼柳と同時に立ち止まったクロウの両肩に手を置いて、顔を近づけてにたりと笑った。

「デッキと一緒に、お前もたっぷり俺好みに調整してやるよ。なあ、遊星たちの反応が楽しみだ! ……あんたも楽しみにしててくれていいぜ、ルドガー」
「そうだな……」

 ルドガーは定位置にすでに腰掛け、鬼柳の言葉に静かに答えた。クロウは二人の間にただ立ち尽くす。暗い部屋に揺れる蝋燭の灯りが、部屋を出るクロウの背を揺らしてみせた。

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