「うーぁあ、極楽ぅー」

 椅子の前足を浮かせて不安定に座る京介は、机に乗せた足でバランスを取ることは忘れずに、聞こえてきた声に苦笑を浮かべた。

「親父かよ」
「う、るせっ」

 タオルを肩にかけて部屋に入ってきたクロウは、京介がいることをすっかり忘れていたようだった。
 指摘されて自分の発言に羞恥を覚えたらしい彼は、温まって薄紅に染まった頬をさらに赤らめる。元気に立ち上がっている髪も、風呂上がりでだらけた声と同様に水気を吸ってくったりと降りている。
 クロウは発言を誤魔化そうとするかのように、やけに大げさな動作で肩のタオルをはずした。そのタオルでがしがしと髪の水気を拭き取るのがいつもの行動なのだが、この日はいつもと展開が違った。

「おっま、水! 跳ねてる!」
「はぁ?」

 椅子から飛び降りるように離れた京介が、クロウの両手を押さえてしまった。クロウは瞬きだけをしながら立ち尽くす。ぽかんと開いた唇の端にかかった橙の髪を払って、クロウの手からタオルを奪い取ってしまった。

「ったくよお、髪痛むだろ」
「……いいじゃねえか、女じゃねえんだし。タオル、返せよ」

 言いながら手を伸ばすクロウだったが、京介は断固として譲らない。

「いいや良くねえな。将来禿げんぞ」
「なっ、はげてねえ!」
「将来の話だっつってんだろが!」

 噛みつくように声を荒げたクロウ以上の迫力でどなりつけると、京介は自身が座っていた椅子を掴んでクロウの前まで引きずるように運んできた。

「お……前はおれの母親かっ」
「いや、リーダーだ」

 すっかり気押されながらも、クロウは懲りずに声を張り上げる。
 対する京介は、逆に静かな声で簡潔に、非常に簡潔に言い放った。

「すわれ」

 一音一音区切りながら、運んできた椅子を指す。
リーダーとか関係あるのかよ--クロウの頭に浮かんだ反論は、有無を言わさぬ威圧感に負けて吐き出されることなく消え去った。言われるまま、椅子に腰を下ろす。

「ちょうどいいところに俺がさっき使ったドライヤーがある」

 背筋を伸ばしたクロウの正面で、言葉通りドライヤーを構えた京介が真剣なまなざしで告げた。しっかりとくっつけた両ひざの上で拳も揃え、クロウは深く頷く。
 少しいらだった足取りで京介は座るクロウの後ろに回り、ドライヤーのスイッチを入れる。耳障りな音を立てて流れてきた温風をクロウに向けると、その熱の何倍も優しい手つきでクロウの髪に触れた。
 取り上げたタオルで水気を吸いながら、ドライヤーを動かす手は止まらない。クロウは首を縮めたが、席を立って逃げることはしなかった。

「……んなちんたらしてたら終わんねえよ」
「任せとけ」

 京介の声は変わらず真剣だったが、ドライヤーの風音の何倍もやわらかいものに変わっていた。クロウは一度口を開いたが、結局何も言わずに閉じる。膝を開いて座りなおし、足の間に手を置いた。少し前屈みになるが、京介はそれには何も言わない。

「何だ、静かになりやがって! ドライヤー好きかー」
「すっげ嫌い、面倒くせえし!」
「即答かよ!」

 風音が邪魔をするので、少し音量を上げて会話を続ける。ぐっと首を逸らせて真上を見上げたクロウの顔を覗き込むように京介が身を乗り出す。逆さに目を合わせて、クロウは開いたままの唇の端を持ち上げてへらりと笑った。きゅっと細められた眼は京介の声音以上に、穏やか。


「でもちょっと楽しいな、これ」
 

 一瞬、京介がドライヤーを動かす手が止まったことに、幸いにもクロウは気付かなかった。 


『甘えたその4/髪の毛乾かされるのが嬉しいクロウ』









それから、ちょっとみらいのはなし。




 決して寒くはない日の、夜のこと。
 大家族と呼んでもいいほど子どもが増えたクロウのアジトは、この日も変わらずにぎやかだ。空気が冷える前にと次から次へと子どもたちを湯船に押し込んで、ようやく自身も汗を流そうとしたところ。

「クロウ兄ちゃん、髪つめたい…」
「ん?」

 一番最年少の少女が、クロウを見上げて不満げに訴える。言われてみてみれば彼女の肩に届くほど長い髪は、水気を吸って重く垂れさがり、肩にかけたタオルごと彼女の寝巻を濡らしてしまっているようだった。

「あー、ちゃんと拭いたかあ?」
「手がつかれたよお」

 濡れた頭をクロウの腹に押しつけるように飛びついてきた彼女を苦笑しながら受け止めると、クロウはあたりを見回した。机の上に目的のものを見つけて、よいせ、と少女の両脇を掴んで持ち上げる。
 クロウが座るときしむ椅子も、彼女の小さな体ではびくともしない。暴れるなよと一言添えて座らせると、クロウはそれを手に取った。
 サテライトにあるにしても旧型のドライヤー。温風と冷風を切り替えられるそれは、もともとクロウが所属していたギャングチームのアジトにあったものだった。

「クロウ様が乾かしてやるぜー」
「きゃー」

 楽しそうな悲鳴をあげる彼女の後ろから、ドライヤーの温風をあててやる。熱くならないように細かく動かしながら、髪が絡まないように梳いてやる。じっとしているのにはすぐ飽きてしまう年頃の彼女だが、この時間だけはおとなしくしていた。

 他人にドライヤーをかけるコツなど、クロウは学んだことがない。けれどその手は迷うこともなく動く。
 頭が覚えているのだ、自分の髪に触れた手を。
 まだ、新しい記憶だったから。

「結構楽しい、な」

 呟いた一言は、ドライヤーの音に消されて誰にも届かない。
 けれど少し、ほんの少しだけクロウは嬉しそうに笑った。



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