さて、ここまで来たがどうするべきか。
クロウは思案していた。立てつけの悪いドアの前で立ち止まってから経過した時間は数分。午後10時を過ぎていても、普段ならば遠慮などせずに開けるドアノブにも触れられず、呼べる名も呼べず、彼はそこに立っていた。
移動時間も含めた数分で冷静になってしまった彼には、ここまでやってきた理由そのものが滑稽であると理解できていた。しかしここで踵を返したところでその先どうするかまでは考えついていない。迷った結果、動けずに。
さて、どうするべきか。
「クロウ?」
廻り続ける思考の終わりは、後ろからかかった声によって訪れた。部屋の中にいると思いこんでいた青年に名を呼ばれ、跳ねた心臓を押さえつけながらクロウは振り向く。
「っ鬼柳」
「なにボケっとしてんだ? 俺に用事?」
小さく笑みを浮かべ、鬼柳京介は少し低めの声で問いかけた。まるですべてを見通したような月色の瞳に、クロウは結局何も言えなくなってしまう。目を合わせることすらなぜか後ろめたくなって顔を背けると、鬼柳はひとつ頷いて、ドアを開けて、さっさと部屋に入ってしまった。
クロウは視線でその背を追いかける。鬼柳は赤いTシャツの上に着ていたベストを脱いで、壁にかかった針金のハンガーにかける。そのままベッドに腰をおろして、ベッドのそばにあった小さな丸テーブルを引き寄せた。すべての行動がクロウの視界に入る。部屋のドアは、開けたままだったから。
「ジャック、と」
ドアの前に立ち尽くしたままのクロウが口を開くと、鬼柳は顔を上げた。テーブルの上に、デッキを置いた姿勢のまま。少し顔を上げたクロウと目が合うが、鬼柳はやはり何も言わない。デッキに添えていた手を、組んだ足の上で緩く組んだだけだった。
「ちっと、……揉めて、っつーか」
クロウは部屋に片足だけを踏み入れて、また鬼柳の様子をうかがう。態度に変化がなかったのでもう片足も踏み入れて、そっと、そっとドアを閉めた。
「何にも知らねえくせに、好き勝手、いいやがるから、それで、つい」
「お前も、なーんにも知らねえくせに好き勝手、言い返しちまったんだな」
おどけた調子で鬼柳が放った言葉にカッと顔を赤くはしたが、クロウには反論することができず、力なく垂らしていた両拳を握りしめて終わった。呆れたような長い溜息が聞こえて、拳にますます力が込められる。
「言いたくて、言ったんじゃ」
「知ってる、ジャックだって分かってるさ」
「でもあいつだって、言った」
「お前だって言ったんだろ、お互いさまじゃねえか」
間髪いれずに切り返されて、またクロウは黙ってしまった。力を込めすぎた拳が震える。目の奥が不意に熱くなるのを感じて唇を噛んでしまうと、口を開くことすらできなくなる。それが余計にクロウを情けない気分にさせた。
こつこつと音が聞こえ始める。少し目線を上げると、テーブルの上を鬼柳の指が叩いていた。少し伸びた爪がぶつかって、音を立てているようだ。苛立っている。ジャックとの言いあいで未だに頭の整頓がついていないクロウにも分かるほど、鬼柳は苛立っている。
来なければよかった。そう思い、クロウはさらに眉根を寄せた。昼間の怒りと今のやるせなさが混ざって、また新たに怒りに似た感情が湧きあがってくる。それが爆発してしまっては意味がないことは分かっていたので、クロウはすぐさま踵を返してドアノブに手をかけた。
「クロウ」
名を呼ばれたことに気付くその前に、視界が突然奪われた。
ドアを開くことも歩を進めることも中断して、状況判断のためだけに脳を使うべく、クロウは咄嗟に開いてしまった口を閉じる。
「目ぇ閉じて、もう一回考えてみろよ」
背中から感じる程よいぬくもり、瞼の上と腹のあたりに僅かな圧迫感。
左腕は何かに引っかかって持ち上がらなかったが、ノブを掴んでいた右腕は、難なく持ち上がる。目元まで持っていくと、それなりに太さのあるものに触れた。手のひらでは掴み切れないほどの、ほのかな熱のあるもの。
腕だ。鬼柳の腕がクロウの視界を塞ぎ、腹のあたりで進路を遮っている。ほぼ抱きしめられたのと変わらない状況に戸惑いを覚えはしたが、背中の熱のせいかすっと怒りは冷めていく。視界を覆う鬼柳の腕を掴んだ右手に、少しだけ力を込めた。
「どうしたいんだ、クロウ」
少し呆れた声で、真剣な問いが投げかけられる。クロウは一度開きかけた唇を閉じて、言われた通りもう一度思い返してみた。
全身が沸騰するような怒りと、けれどそれ以上に残る疑問と、不安と、後悔。
「鬼柳」
「ん」
「おれ、……おれ、さあ」
感じているのは恐怖かもしれない。気を抜けば体が震えだしてしまうような気がして身を強張らせると、鬼柳の右腕はクロウの目を覆うのをやめてしまった。そしてすぐにその腕も、左の腕と重なるようにクロウの体に回される。完全に抱きしめられた状態で、行き場をなくした視線は足元で停止する。
「クロウ、悪い」
「……なんでだよ」
「俺、正直イライラしてんだわ」
後ろどころか耳元で聞こえた声も苛立っている。それでも己を抱きしめる腕も背中の熱も優しいものだから、クロウは困惑してもう一度、「なんで」と問いかける。うん、と鬼柳は声に出したが、それが応答だったのかただの相槌だったのかは判断できなかった。判断する前に、鬼柳がまた口を開いたからだ。
「お前がそんな顔してんの、満足できねえなって思ってんのは間違いねえけど。せっかく俺んとこ来てるのに何にも聞いてくれねえから、本当はもっと優しくしてやりたいんだけどなんかうまくいかねえ!」
捲し立てるように言われて、クロウは唖然とするしかなかった。「だから、悪い、ごめん」と続けられても、クロウにはどう応えていいかが分からない。首を振ってみるが、何か、喉まで出かかっている言葉が出てこない。考えて、考えて、クロウはようやく結論付けた。鬼柳の腕はその間、ずっと離れなかったから。
「その、頼みが、ある」
「いいぜ」
爪先を見つめたまま唾を飲み込んで、鬼柳の腕をゆっくり解いて、向き直る。
鬼柳はもう苛立った顔はしていない。部屋に入る前に浮かべていた、ほんの少し気取ったような笑みを浮かべているだけ。
「……ジャックのとこ、行きてえんだけけど、さ」
「ん。つきあうぜ」
「い、今すぐじゃなくてもいいって! 夜だし、もう!」
さっそく鬼柳が歩き出してしまったので、慌てて引き留める。しかし鬼柳は何の疑問もない顔で、早い方がいいと言いきってさっさとジャックの寝床に向かってしまった。クロウはしばらく鬼柳の背中を見つめていたが、まったく振り返る様子も見せなかったので結局慌てて後を追うしかなかった。
「っと、……ジャック、遊星!」
ジャックは、ちょうど部屋を出たところだった。なぜか隣に遊星もいる。鬼柳の真後ろを歩いていたクロウは姿を確認するのが遅れたが、立ち止まった鬼柳が二人に声をかけたので状況は即座に理解できた。
ひょいと鬼柳の影からクロウが顔を出すと、ジャックは分かりやすすぎるほどに顔を顰めた。
「ちょうど良かった。鬼柳のところに行こうとしていたんだ」
「俺に用事? 二人でか」
「あと、クロウにもな」
遊星はクロウに笑みを向けて、クロウの方を見ようともしないジャックの背を叩いた。ジャックは眉間にしわを寄せたまま、ようやくクロウを見やる。
そのとき明るい紫色の眼が戸惑いがちに揺れたので、クロウは身構えるのをやめた。そして、クロウも同じように眉根を寄せる。
「ちょうどいいじゃねえか、クロウ」
鬼柳も遊星を真似るように、クロウの背を押し出してやった。チームで一番長身のジャックと一番小柄なクロウが非常に困った顔をして向き合う形になり、二人はそのまま押し黙ってしまう。
クロウが視線を横にずらす。ジャックも同じ方向に視線を向ける。
それぞれが見やったのは、成り行きを見守る二人。
クロウが見たのは、目を細める鬼柳の笑顔。唇がぱくぱく動く。
がんばれ。
そう動いたように見えた。
「ジャック!」
「なんだ!」
喧嘩腰に呼んだ名前に喧嘩腰で返されるが、次の瞬間クロウは勢いよく頭を下げた。
「……っごめん!」
言ってから、顔を上げる。しかしその先言葉を続けることができなくなって、ジャックを見上げたままクロウはまた固まってしまった。ジャックも目を丸くして静止していたが、視線をふらりと彷徨わせた後、僅かに、ほんのわずかにだが頭を下げた。
「俺こそ、……だ」
それだけ言ってまたそっぽを向いてしまう。別に本気で言ったわけじゃなかったのをお前が、とぶつぶつ言いだしたところで遊星に名を呼ばれ、なんでもない、と首を振った。ジャックの耳がすこし赤いのを見て、クロウは無意識に止めていた息を吐き出した。
「クロウ」
「ん、おう……」
「よく言えました、ってやつだな」
「ガキじゃねえんだから、……当然だろ」
明らかに揶揄の色を込めた言葉と、なれなれしく肩に置かれた鬼柳の手。
クロウは口では文句を言ったが、肩の手を振り払うことまではしなかった。
少しだけ感じる重みが、大丈夫、とまだ言ってくれていた気がしたから。
『甘えたその6/「ごめんなさい」を一人で言いだせないクロウ』
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