鬼柳京介は、目を開けてまず、薄汚れた天井を見た。
見覚えのある、懐かしいような色合い。分かるのは、自分はひとまず寝床らしい寝床にいるということと、ここは獄中ではないということ。
「きりゅう?」
呼ばれたのが己の名であるとすぐにわかったので、ぼんやりと開いた眼を声の方へ向ける。がたがた、どたどたと慌ただしく、声の持ち主は鬼柳のもとへやってきた。
定まりきらない視界にも鮮やかな橙と、特徴的な黄色のマーカー。それとは逆に、見つめていると安心すらできる薄闇色の瞳。洗面器らしきものを抱えていたはずの彼は、鬼柳の顔を覗き込んだ時にはその両手で鬼柳が伸ばしかけた手を掴んでいた。すぐ傍でガラガラと音がしたことにはあえて何も言わない。まだ水は入っていなかったんだなと、安堵はしたけれど。
触れている手は昔と変わらず暖かく、鬼柳の手を包んでいた。
「クロ、ウ」
違和感なく空気に溶けていく名前。ああ、クロウだ。鬼柳はその手を握り返して、息をついた。
「ああ、おれだ! わかるんだな!?」
「ばかやろ……俺達、仲間、だろ」
クロウの顔が徐々に歪んでいくのを見ながら、鬼柳は頭痛と戦っていた。頭の奥が痛むたびに浮かぶ光景と、記憶が一つずつつながっていく。
黒い影。
青い炎。
赤いD-ホイール。
裏切り者と叫ぶ声、投げかけられる反論。
耳を塞いで、目を塞いだ。
知っている。知っていた。
恨めば会えた。
恨み切れなくて負けた。
何より好きなデュエル。
何より好きな。
鬼柳は、渇いた口内を潤すように唾を飲み込む。
「遊、星」
鬼柳の唇から零れた名に、クロウは身を強張らせた。慌てて身を起こした鬼柳には、体に残る疲労感に構っている余裕などなかった。すぐに掴まれていた手を解き、少し成長したらしいクロウの肩を掴む。
見開かれた瞳を覗き込むように見つめて、揺さぶって。
「クロウ、遊星は! あいつ、どうなっ」
言いきる前に、顔面を塞ぐように抱きつかれた。頭を抱え込まれて、咄嗟に顔を背けた鬼柳の右耳はクロウの胸にぴたりと触れる。沈黙が訪れて、聞こえるのは心臓の音。少しどころか、相当に早い。
互いに落ち着かない呼吸を感じながら、鬼柳は体に回されたクロウの腕に触れた。少し逞しくなった腕も、昔と同じ温度をもって鬼柳を包みこんでいる。
「ちゃんっと、おれをっ、見てろよっ」
飲み込んでいるのか吐きだしているのか、分からない声。ドアが開く音が聞こえたが、クロウはそのまま動かなかった。当然、鬼柳も。
クロウが首を振った。あやすように腕を叩いた鬼柳の頭をさらに強く抱き込んで、一度、しゃくりあげる。
ドアの閉まる音を聞いて、鬼柳は少し嬉しくなった。見てはいないが確信できる。今ドアを開けたのは、遊星だ。向かってこようとしているジャックを引き留めているのなら、理由らしい理由は言わずに苦笑を浮かべているはずだ。
流れた時間とともに変わってしまった仲間達は、鬼柳が愛した仲間達のままでいてくれていた。結局人は、そう簡単には変われないし、変わらない。
焦りはもう消えていた。腕に触れていた手を、そっとクロウの背中に回す。
「なんで、嫌いだ、お前なんて嫌いだこんちくしょぉっ」
頭の上で聞こえる怒声か鳴き声か分からない声に耳を傾けながら、鬼柳はクロウが気づくかどうかも分からない相槌を打つ。背中を叩いてやりながら、泣いてなんかないからな、と念を押すクロウに頷いてやる。
押さえつけられた頭でははっきりと頷けないが、密着している以上ほんの少しの動作でも伝わるはずだ。だから、鬼柳はただ頷く。
「おれの兄ちゃんだったじゃねえか、おれだけの、おれだけ、お前強くて、優しくて、カッコよくて、おれっ」
鬼柳は頷くのをやめた。クロウの背中を叩くのもやめた。
弟のようにじゃれついてくるクロウのことは嫌いじゃない。けれど、ただの兄弟がここまで互いに熱くなれるだろうか。京介にもクロウにも兄弟というものは良く分からないから、完璧な答えは得られない。
ただ、心地よいだけの空間に鬼柳は止まりたくなかった。進んだ時とともに、進みたいと思った。
「クロウ、俺」
呼びかけると、クロウは鬼柳を離すまいと抱きしめたまま首を振る。苦しい、と訴えてみてもただ、首を振るばかりだ。
「やだじゃなくて聞けよ、勝手に兄貴にすんなよ」
ぴくりとクロウの体が跳ねた。
心臓の音がさらに早く、大きくなる。きっと自分も同じ状態なのだろうと、鬼柳は苦笑する。
ばらばらに鳴る鼓動に耳を澄ませて、止まないリズムを無視して、気持ちを噛みしめるように、一言ずつ、解放する。
「弟だったら、いらねえよ。クロウは、弟じゃねえ」
きっとみんな優しいから、許してくれる。
言い聞かせるような口調に、そんな甘えを込めて。
「弟じゃないから、特別なんだって、思う」
鬼柳はゆっくりと、腕に力を込める。クロウは鬼柳の背中に爪を立てるほどの勢いで服を握って、それから少しして口を開く。
「それじゃあ、……じゃあ、あのよぉ……」
言い淀みながら、クロウが出した結論。
淀みなく聞こえる。クロウの鼓動に乗せて。
鬼柳もクロウも、決闘者だ。勝負に妥協はしない。
きっと、最初のドローから切り札は互いの手札にあった。使いどころもいくつもあった。けれど伏せたまま、ずっと場に残していた一枚。長い長い勝負に終わりを告げるため、クロウが先にさらけ出した。
「……たまにっ、たまに、で、いいからよぉっ……」
続いた言葉を聞いて、鬼柳は深く頷く。
ありがとな。一言礼を添えた理由は多すぎたので、あえて言わないまま。
「俺だったら、たまにじゃなくてずっと、だな」
離れたがらないクロウを少し強引に引きはがして、いつもより大きく見える涙目を見つめて、鬼柳も告げる。
クロウよりもはっきりと、クロウの言葉を確かめるように、残していた切り札を指で示すように、繰り返した言葉。
『甘えたその14/「おれだけのおまえでいろよ」』
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