かすかに聞こえ始めた足音に振り向き、その人物が姿を現すと同時に思いっきり噴出してしまった彼を責められる者はその場には誰もいなかった。今やって来た当人以外には。
声をかけるために吸い込んだ息を勢い良く排出してしまった彼は、床に調整しかけのカードデッキを置いた手を左右後ろについて、背を反らせて来訪してきた青年を改めて見つめる。肩を震わせ喉を震わせながら、おつかれ、と唇は辛うじて紡ぎだした。
「笑ってんなよクロウ……」
「だ、って鬼柳、おまえ……それ、顔の」
どう見ても喧嘩じゃねえよな、そこまで言い切ってから彼は脳内を過ぎる数多の想像に耐え切れず腹を抱えてとうとう笑い出した。
左の頬にくっきりと紅葉形の跡を作った青年、鬼柳京介は額に巻いた藤色のバンダナを居心地悪そうに少し下げて、そのまま部屋の作業用の机の前の椅子を引いた。どかりと座り込んだ彼に、クロウは笑みを浮かべたまま膝立ちで近寄る。作業机に片方の肘をついて、その手に持ったままの一枚のカードをかざして目を細めた。
「遊星とジャックは?」
「ガキども連れて買い物」
「珍しいな、お前が残ってんの」
「珍しくおれが使えそうなカードが見つかったんだよ」
クロウの手からカードを取り眺め、鬼柳は頬杖をつく。左の頬を隠すようにおかれた手を見てクロウはまたにんまりと笑った。
「で、どうしたんだよソレ」
「わっかんねえ! くっそ!」
カードをクロウの指の隙間に差し入れて、鬼柳は頬の手を額に運んだ。吐き出された悪態にまたケラケラと笑いながら、クロウは両腕を机に上げて身を乗り出した。
「また変なこと言ったんだろ」
「褒めたんだぜ?!」
「だったらストレートすぎたのかもな」
手にしたカードをそっと机に置いて、苦笑を浮かべたクロウは組んだ腕の上に顎を乗せて鬼柳を見上げる。
礼儀もなにもいらない仲だ。ニヤニヤとクロウが眺めていると、鬼柳は痺れを切らして頭をかきむしった。
「だああ、女って面倒くせえ、満足できねえ!」
「まあ、ここいらの女は強えーもんな」
この言動は、フられたのだと認めたに等しい。
音を立てて頭から突っ伏した鬼柳にざまーみろ、と一言浴びせてクロウは笑うが、頭の置き場にした腕を机の上に伸ばして、項垂れた頭をさわさわと撫でる。まあ次があるさと、励ます言葉の代わりといわんばかりに。
気の抜けた息を吐いて、鬼柳は顔をクロウに向けた。普段と違う角度で見つめてくるクロウを見る。
「…クロウみたいならな」
「はー?」
「分かりやすいし付き合いやすい…」
鬼柳の伝えたいことを理解して、ああ、とクロウは呆れたように瞼を若干下ろす。
恋愛する相手に、同じ屋根の下で暮らす年下のデュエリストに似た人間を求めても無駄だ。何しろクロウは男だし、男だからこそ鬼柳に伝わるものがあり、悟ってやることも出来ている。それを女に求めるのは、少々無茶ではなかろうか。
「そりゃお前、男にしか分かんねえ問題もあるからだろ」
言えば、分かってると鬼柳は言った。だが表情は晴れることなく、益々真剣にクロウを見つめだした。
視線に気圧され、息を呑む。クロウの腕に、鬼柳の腕が乗った。乗って、握る。掴んだ。
「ジャックより素直だし」
「まあ、ジャックだし」
「でも遊星より素直じゃねえ」
そしてまた、じっと見つめる。
視線が急に熱を帯びた気配に、クロウはがばと頭を上げる。腕は掴まれていて、逃げ切るには到らない。後退る代わりに上体だけを無理に引いたので、笑みはすっかり引きつってしまった。
「……お前本当どうしたんだよ、そんなにショックだったのか?」
「このくらいならいいんだよなぁ」
鬼柳は、暴走すると止められない。
彼の中には当然だが彼独自の思考回路があり、それは常人にはやや理解しがたい発想を引き出してくる可能性を高く秘めているものだ。そして対するクロウには、サテライトで生き抜くためには必要不可欠でもある、直感が備わっている。まずい、思ったら、まずいことになるのだ。今は正にその時だった。
掴まれた腕が放れたので、すぐに引いたのだが、過ちだった。遅れた手を、しかと取られる。
指をぎゅうと握られ、剥がそうとして伸ばした手も取られ、また握られ、間違いなく熱のこもった眼差しで正面から射抜かれる。膝立ちでは、椅子に座る相手に蹴りを入れることすらできない。
「付き合おうぜ」
鬼柳の発想は案の定、斜め上どころではない方角へ流れていたようだ。
「結構いけるんじゃねえかな、俺とお前」
「何?」
「そうしようぜ、うん、俺もお前も満足できるって」
「鬼柳?」
「クロウ」
いや待て、落ち着け。
手が離れない。放さないと鬼柳が決めたのなら、鬼柳は絶対に放さない。彼の意志は彼の周囲を動かす。時には奇跡すらも彼は意志から呼び起こす(それはもう奇跡ではないとジャックは言うが、奇跡としか言い様がないことを呼び込んでしまうのだから仕方がない)。
クロウも例外ではなく、鬼柳が逃がすまいとするのであれば、逃げ切ることはきっと、ない。
「き」
倒れ込んででも避ければよかったのだが、視線を外せないのでは無理難題。
ふわりと柔らかく重なった唇が離れて、きらきらと輝く目がかち合った。
「ほら、悪くねえ」
いいも悪いも、これがはじめての口付けであるクロウには分かるはずもなかった。
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