校舎の端に位置する棟は、一部の文科系同好会の部室があるだけで、放課後になるとほとんど人の出入りがない。いつもクロウが京介宛の手紙を受け取る木も、この棟の傍にある。腕を引かれながら、ふとクロウは首を伸ばして廊下の窓をのぞいてみたが、木そのものは見えず、周辺に人も見られなかった。クロウはまた前を向く。廊下は長く続いている、だが途中で、京介がクロウの手を強く引いた。突然腕を引かれ京介の前に放り投げるように出されたクロウの左の上履きが脱げて、バランスを崩して更に前へよろめく。
 飛びこまされたのは校内で一番古いと笑いの種にされる男子トイレ。その入口に、踵を踏みすぎて形の崩れた、履き慣れすぎた上履き一足だけ転がった。

「っ、ばかやろ、……テ、メっ!」

 持ち前の運動神経で倒れこむことだけは回避したクロウだったが、さらに奥へ突き飛ばされて手洗い場のシンクの端に手をついた。青いタイル張りの床は清掃の名残か濡れていて、靴下だけを履いた足で踏みつけてしまえば水が染みてきた。クロウは真正面にある日々の入った鏡の向こうで不機嫌に睨みつけている京介を睨み返し、憂さ晴らしだと言わんばかりに濡れた足を真後ろに跳ね上げた。ほとんど戯れに持ち上げた足が何かを蹴ったことに、クロウの方が驚いてしまった。触れるものなど、一つしかない。

「鬼柳、どうした」

 問いの答えは返らなかった。代わりに、伸びてきた京介の腕がクロウの腕ごとしかと捕らえる。鬼柳京介は、昔から比較的スキンシップの多い人間だった。けれど背後から、暴力的なまでに強く抱きすくめるなんて行為は見たことがない。クロウの肩に額を押し当てた京介の顔は鏡越しにも見えず、クロウを閉じ込めた腕が、震えたことだけが分かった。

「……ふざけんなよ」

 低い声が聞こえて、鏡の中に狂介の眼が映る。教師すらも怯ませる黒と金色の鋭い目。黒で覆い隠した、作り物の瞳。
それから、荒れた薄い唇。

「いっ!?」

 思わずクロウは声を上げる。クロウの視線の先と、右耳のすぐ下で京介は動いた。詰襟部分を避けて、乾いた唇を想い切り開いて首筋に噛みつく。獣ほど鋭くはないが固さのあるもので勢いよく挟まれて、一瞬の痛みが染みるように全身を震わせる。クロウを抱いていた腕が外れて、少し大きなサイズの学生服の上着の襟首を掴まれたことで、咄嗟に逃れようとクロウが頭を下げた。

「今更…っ!」

 言いかけた言葉の代わりに舌打ちをした京介が、逆方向に力が働いたことで露わになった項に歯を立てる。クロウがステンレスの手洗い場の内側を殴りつけた。重く鈍く響いた音が消える前に、京介はその拳に爪を立てる。痛え、と上がった声には構わず、また京介はクロウの首を噛んだ。クロウの手の甲の皮膚を少し掻いた爪先には血が残り、京介はそれを、今度はシャツの上からクロウの胸元に立てた。ボタンで止めるだけのシンプルな白のワイシャツを、京介の左右の手が引いた。繰り返し着ていても残っていたボタンが数個はじけ飛ぶ。

「ま、て! お前、何すんだっ」

 京介の冷たい手のひらがクロウの腹を撫で上げる。耳朶に下がったピアスを掠めて降りた唇がまたクロウの首を噛んで、咄嗟にクロウの肘が真後ろにいた京介の胴に打ち込まれ、靴を履いたままの右足が闇雲に地面を踏みつける。踵が京介の爪先を踏み付けた時、京介は歯を剥きだして苛立ちも露わにクロウの胸に爪を立てた。右の詰めが、ちょうど突起の真下を薄く傷つける。

「っぃ…て」

 前方に逃れようとしたクロウの膝が手荒い台を蹴った。銀色の傷とへこみだらけの古い手荒い台は、その一撃にも耐えて変わらずクロウの身を支えている。詰めた息を吐きだすと、京介は尖りだしたクロウの胸の中心をきつく摘み上げた。傷ついた右の皮膚も巻き添えにして。

「っ、めろ鬼柳っ」

 明らかに意図を持って動き出した指を、全身で拒絶する。京介も同じように、全身でクロウを押さえつけた。前を開いたシャツの白い布地をクロウの肌を隠すように引き寄せることで、クロウの身動きは制限される。反対側に身を捩ると、右手で抓られた突起と傷が擦られる。くう、と呻いて逃れようとした足には京介も足を絡めて、体重をかけて乗りかかり手洗い台に押さえつけた。もがいたクロウの手が蛇口を打つ。身を翻して走ればいいだけ、それができないもどかしさが余計にクロウを焦らせる。

「おい、クロウ」

 振り向いても見えない顔を見る代わりに、クロウは鏡を覗き込む。眉根を寄せて、けれど唇は笑みを作って、京介はクロウのピアスから耳の裏まで舐め上げた。

「立ってる」

 クロウは咄嗟に、内腿を閉じた。この状況下で反応を示し始めた性器を隠そうとして。京介は密着させた体でその反応を感じ取り、くつと笑う。

「そっちもかァ? 素直だなクロウはよぉ」

 言われて、クロウは気がついた。京介が示したのは、先ほどから弄られている右の突起。鏡に映ったそれは薄紅に染まって、京介の言う通りに主張している。しまった、と思う間もなかった。羞恥で赤く染まった鏡の中の自分から目を逸らし思いきり力を込めて京介をふりほどいたが、制服の袖を掴まれ引き寄せられる。再度肘を打ち込もうとしたところで、反応した性器をズボンの上から掴まれるとクロウの膝が一瞬崩れた。
 困惑と緊張に頭も体もついていかない。状況を把握して、冷や汗が吹き出すのを感じながらクロウは京介の腕の中でもがいた。京介の手が前に回り、穴が一か所だけ広がったベルトのバックルを外す。

「ふっ、ざけんなコラぁっ!」

 前に逃げられないならば横に、駄目ならば後にと足を動かしてみるが、靴下の湿り気が増すばかりで解決には向かわない。ズボンのジッパーが下ろされて、その中に今は熱をもった手のひらが押し込まれて、クロウの肩が跳ねた。

「ふざけんなはこっちの台詞だ」

 京介の声が沈んで、一度沈黙する。クロウが逃れるには十分な時間。クロウは京介の手を掴んだ腕に力を込めた。整える呼吸の音が二度続いて、もう一度、ふざけるなと京介が呟く。
 止まっていた手がまた動き出す。クロウの眼前にはまた鏡があった。先ほどまで覗いていた鏡の隣の、ひび割れだらけの鏡。まつわる怪談話まであるその中には、どちらの表情も鮮明には映らなかった。

「ぅあ」

 握りこまれた性器が、直後全身に感覚を伝える。クロウの身が震えたのを感じ取った京介はひたすら乱暴にクロウの体を刺激する。ほぼ痛みだけを与えられるクロウはまた首筋に埋められた京介を引きはがそうと首を振る。散々もがいて熱をもった体は、痛みに抗う力を引き出そうとなお熱くなる。京介からの刺激が遊ぶように弱くなると、また力が抜けた。耳元で濡れた音がして、耳を舐め上げられたことを知る。片手で下着も引き下ろされてクロウは顔を下げた。蛇口から一滴、水が落ちて水滴に混ざるのを見届けて目を閉じる。自分がどんな状況なのか、目に入れたくもなくて。

「……クロウ」

 臀部に押しつけられた京介の体も、熱を持って疼いていた。クロウも、京介自身にも伝わりきってしまった熱。自身の分を分け与えるかのようにクロウの耳を唇と舌で舐りながら、掴んだ性器を刺激する。クロウは一つ瞬いた。久しく感じていなかった本能からの欲求は、京介に白旗を上げている。もう、従ってしまおうか。悩みながら持ち上げた拳は空を掻いて、濡れた手荒い台の底に付いた。

「っクソ」

 不意に鬼柳が舌を打つ。突然襟首を掴まれて、クロウの体は割れた鏡の前から引き離された。安物のワイシャツのボタンはその時、また一つちぎれ落ちた。これで残っているのは、開けっぱなしだった首元の3つのボタンと、シャツの裾付近の数個だけ。ボタンを無自覚に追いかけた手も、京介に掴まれてしまう。

「きりゅっ、ぅぐ」

 背を向けた状態で抱き込まれ、手の平で口を塞がれる。そのまま引きずり込まれたのは、一番奥にある個室。踵を擦ったせいでもう片方の靴下が下がったが、脱げることはなく個室のドアは閉まった。ドアが閉まると同時に京介はクロウから手を放し、洋式便器の蓋の上に腰を下ろした。苛立った舌打ちをもう一度聞き、クロウはドアに背を預けて座りこんだ。俯いた瞬間目に入った、中途半端に引き出された性器を両腕で庇うように隠し、小さく唸る。途端、ドア一枚向こうに、男子学生の話し声がした。気の弱そうな声が、二人分。

 服を正すにも手を離すのが憚られて、会話の内容に耳をそばだてていると、京介の細く長い指がクロウの明るい髪を掴んだ。上がりそうになった罵声を飲み込んで、されるがままに顔を上げ、目の前に突き付けられたものを見て、罵声すら出てこなくなってしまった。黒いズボンのジッパーを下ろして取り出された、十分に芯を持った男性器。クロウが両腕で隠したものと同じでありながら、全く違うものに見える雄の象徴。クロウはさらに視線を上に上げて、血の気の引いた顔で京介を見上げる。京介は犬歯が見えるほど唇の端を上げて、クロウが見たがらないそれに空いた手を添えて、掴んだクロウの頭を引き寄せた。そこまでされて首を傾げていられるほどクロウは鈍くはない。自身の下半身を隠すのも忘れて、京介の手を剥がしにかかる。

「くぅっ、ん」

 京介はもちろん、それを許さなかった。頑なに閉じるクロウの唇に先端を押しつけ、クロウが喉から洩らした声に笑う。ドアの向こうで水を流す音が、止まった。

「……っ!」

 クロウは今度は呻きも殺してみせた。男子生徒の一人が、落ちている上履きに気付いたらしい。彼らの視線は考えるまでもなく、この個室に向いただろう。そう思うと、クロウはますます動くわけにはいかなくなった。この恰好、この体制でどう言い訳ができるというのか。京介は荒れた唇を舌でなめて、クロウの唇に押し当てた先を左右に小刻みに揺らす。クロウが顔を背ければ頬に、耳に、クロウの輪郭すべてを確かめようとしているかのようになぞっていく。それを繰り返すと中、いつの間にか呼吸を止めてしまっていたクロウがたまらなくなって薄く唇を開いた瞬間、すかさず口内に突きいれた。

「んぅんっ!」

 悲鳴染みた呻きが一瞬上がったが、それよりも京介がドアを蹴る音の方が強かった。引きつった悲鳴を上げて、男子生徒達はトイレから逃げていく。味わいたくもない味が舌の上に広がるのを感じながら、クロウは漠然と思った。あの生徒たちはこれ以上何もしやしない、と。

「こういうの、されたことねえの?」

 京介の言葉がクロウの意識を引きもどす。後に引こうとした頭をより前に向けて押しつけられて、喉奥を先端が突く。クロウが呻くと、僅かに京介がクロウの髪を引いた。
「ねえよな、そりゃあな」
 掴んだ髪を持ち上げ、クロウの頭を上下に揺らす。京介はクロウが苦しげに声を上げるほどに激しくクロウを揺すぶった。クロウの唇で支えられた性器から手を離し、その手もクロウの頭を掴む。

「あ、……っんむ、ふ、ぐっ」

 好き放題に口内を犯され、クロウは固く目を閉じる。嫌でも口内で主張する性器の形を意識させられる結果になったが、そうするしかなかった。極まった感情の指示で瞳を覆う涙を見せないためには。

「立てよ」
「んん、」

 京介が腰を上げ、それに合わせてクロウの頭を引きあげた。首を限界まで伸ばしても当然追いつけるはずもなく、クロウは言われるままに震える膝を立てて京介を追う。

「AVみてぇ」

 自分でそうさせておきながらいけしゃあしゃあと。
 クロウは思い眉根を寄せたが、あえて抗わなかった。正体不明の手紙の差出人と、自分自身の安全のためと、理由もなくこんな行為に及ぶはずのない京介の真意を探るため。そのためにひどくあられもない姿を晒しているのは、見ないことで妥協した。
 内心浮かんだ自嘲を押し殺し、クロウは弱く口内の熱を吸い上げた。

「っくあ…」

 刹那、引きはがされたクロウが薄く目を開けると、京介が椅子にしていた便器の上に頬を押しつけられた。白いプラスチックに頬を押しつけられて全身に鳥肌が立ち、慌てて体を離そうと便器の端を掴んだ両手を伸ばす。それを助長するように京介の手がクロウの腰を持ち上げて、膝立ちだった彼の足を伸ばすよう促した。素直に従い両手足を伸ばしたクロウは、腿をズボンが落ちる感触を感じて我に返る。
 露わになった下半身を京介に向けて、開いたシャツもそのまま。あまつさえ、今背後にいる京介の性器は、クロウの口内で濡れて育ったまま。

「おい、きりゅっ!?」

 名前を呼んでいなければ、ぎゃあ、と悲鳴を上げていただろうとクロウは思う。京介は昼間、制服のポケットに突っこんでいたあのゼリー飲料をクロウの臀部に流しかけたのだ。
 足を伝って下着と制服のズボンまで垂れ落ちるそれを指で掬いあげ、塗りこめるように穴に指を押し入れていく。衝撃に腕が震えて、それでも体を支えようとした結果、トイレのタンクにすがりつく。蓋部分にひびが入っていたが、構う余裕はなかった。

「っき、もちわり、っ」

 逃げを打つと、中に入った指の感触がリアルで嫌になる。かといって京介にすべてを委ねると、頭がどんどん真っ白になっていく。震えて崩れかける膝を便器の淵に引っかけて体勢を保ち、クロウは唇を噛んだ。振り向こうとはしてみたが、力を込めると指を締め付けてしまい、京介が狭まった入口に二本目の指をねじ込んで鼻で笑った。

「使い道あったぜ、良かったな」
「もったいねえ……っ」
「ゴミ箱行きよかマシだろぉ?」

 手首を捻って、抉るようにかきまわす。京介はその刺激で喉を引きつらせタンクにしがみつくクロウの背を撫でる手で黒い学生服の上着を擦りあげていく。ほとんど余計な肉のない背中を手の平全体で確かめ、屈みこんで心臓の裏側を唇で撫でる。指を引き抜いてゼリーを掬って、また奥へ。クロウはそこで、指先にまで浅い痺れが走ったのを感じた。
 
「く、……ぅん」

 鼻から抜けた声に、クロウも京介も驚愕から反応を示す。クロウは肩が跳ねて、京介の動きは止まる。明らかに変わった声色が伝えるものなどこの状況ではひとつで、京介はじわじわと表情を揶揄の笑みに変え、クロウは冷たい白のプラスチックに額を押し当てた。白に押しつけた指が震え、黒を掴んでいた手が離れる。

「っあ……! い、ぅっ」

 悲鳴を押し殺したクロウの眼に涙が浮かぶ。耐えようとしても流れるそれは、感じた痛みからの生理的なもの。猛った雄の先端をクロウの中に埋めた京介は、緩く腰を揺らしながら奥へと進んでいく。
 慣れない痛みを拒絶するクロウの中は、京介を簡単に受け入れようとはしない。痺れを切らした京介が一度腰を引いて、一気に貫いた。

「ぅぁああ、っ…う、……っぐ」

 自ら口の上に片手を押し当てて悲鳴を殺したクロウを嗤って見下ろして、京介はさらに深くクロウを抉る。痛みに震える体が、繰り返す律動で揺れる。思いついたように京介の手が前に回され、主張をやめた性器を握るとリズムを外れて体が跳ねた。
 京介はよりあからさまに嘲った。聞くものに残酷な愉悦を伝える笑い方。それを聞かされるのはクロウだけだが、クロウにはそれに怒りをぶつけることもできなかった。

「ふざけんな、なあ、ざけんじゃねえぞクロウよぉッ!」

 腰を掴んでいた京介の手がクロウの口を塞ぐ手に伸びる。無理矢理に手首を引かれえて沈みかけた身体をどうにか片手で支えたが、肉がぶつかる音が聞こえるほど激しくなった動きに翻弄され、また肘から崩れかける。

「い、っだ……いっ、いて、ぅあ、あ」

 手の平を打ち合わせる軽快な音とは違う、重く鈍い濡れた響き。何が起こっているのかを嫌でも悟らせる音から逃れようとタンクから手を離せば、支えを失った上体が便器の上に叩きつけられる勢いで滑り落ちる。臀部を高く上げた姿勢を想像して、クロウは耳を塞ぎかけた手を再度タンクの端に伸ばした。半分ほどまで頭を持ち上げたが、そのタイミングで最奥を突かれて頬をタンクに押しつけた。
 冷たい感触に頬の熱は引いたが、体奥の熱は消えない。

「ひ、ぁはははっ、ああ、最初からこうしちまえばよかったな! お前案外真面目だもんな、こんなことされたら正気じゃいらんねえ!」
「鬼柳、うぅ、いて、いってえ、あ、あぁうっ」

 京介が笑うほど、クロウの言葉は消えていく。タンクの蓋にかけた手の先が白くなって、がたがたと音を立てる。いつの間にか京介の笑い声が消えても、クロウは結局言葉を返すこともできずにいた。

「今更……許さねえ」

 オレから離れるなんざ許さねえ。
 その言葉だけを拾った途端、クロウの奥に熱が放たれた。








「……ぅ、あー……」

 出した声が掠れていて、クロウはがくりとうなだれた。呼びとめることも罵声を上げることもできずにいたら、もう足音は聞こえなくなった。
 クロウの体奥で欲を放った後、京介が自らの手でクロウからも絞り出していった体液が便器の蓋に散っている。それを意識せずに避けて床にしゃがみ込んだクロウに、京介は一言も声をかけずに立ち去った。乱暴に濡れた性器を拭ったトイレットペーパーも片隅に放り投げて。

「い、てえ……」

 口にすると全身が軋むような痛みまで感じて、クロウは力なく笑った。伸ばした手でトイレットペーパーを引き出して、引き千切ることもせず蓋を拭う。開けられっぱなしのドアを閉めようかと手を伸ばしたが、あまりに周囲に人の気配が感じられなかったので止めてしまった。
 蓋を開けて、のろのろと便器に座り込む。腹の中に放たれた体液が垂れ落ちてくる感触に身震いながら、自らの手でゆっくりと尻の肉を左右に割り開く。チリと走った痛みに「ああ」と声が漏れた。やっぱり。溜息をつく。

「いてえよ……鬼柳……」

 離れるなと京介は言った。それはまるで、呪詛のようで、懇願にもとれる。しかしどちらにしても、クロウにはまったくわけのわからない話だった。そこまで彼の傍にいたつもりも、彼から離れるつもりも、全くない。何がどれだけ憎いのか。派手な見かけをしている自分たちの、穏やかすぎるほど穏やかだった日常は何だったのか。分からないことしか、残らなかった。

「うええ……」

 吐き気がこみ上げてきたにもかかわらず漏れたのは嗚咽。とにかく消えない感触から逃れたくて、クロウは自ら開かれたばかりの穴に指を差し入れた。掻くように動かすと、指を伝ってまた中から零れ落ちる。もう熱はない。あるのは痛みと、濡れた嫌な感触だけだ。制服も体も気持ちも重い。

「最、悪……」

 トイレットペーパーまた引き千切り、腰を浮かせて濡れた臀部から腿までを撫でるように拭う。同じ動作をのろのろと繰り返しながら、頭の片隅で濡れたズボンをどうするか考え始めたクロウの足元で、けたたましい音が鳴った。振動音。 
 水をはじいて衝撃にも耐えてくれた日常の相棒を見やって、クロウは苦笑する。黒い携帯電話の画面を見ると、着信の相手はジャック・アトラス。

「……ああ、おー、ジャックぅ?」
『どこで何をしている!』
「でけえ、声でっけ!」

 意識して明るく上げた声は、いつもどおりに聞こえただろうか。内心不安に思いながらもクロウは壁に手を押し当てて立ち上がった。

『でかくもなるわ! 玄関先に鞄が放り投げられていたらな!』
「いやー、悪い悪い」

 話しながら、クロウはひらめいた。教室の構造を思いだしながら口を開く。さっさとこの場を処理して、クラスに置きっぱなしのジャージを持ってきてもらえばいい。濡れた制服は転んだとでも言えばいい。ジャックは、クロウが本気で言いたがらないことまでは聞かない男だ。
 そう思ってトイレットペーパーを引きちぎる。

「あのよ、地味地区あんじゃん」
『何?』

 ジャックに問い返されたことに一瞬クロウは驚いた。しかし直後に思いだす。これは、京介とクロウの間だけで通じる分類であって、知らないジャックには当然通じるはずもない。ええと、と言い代える言葉を探して唸るクロウの耳に、どさりと思い音が聞こえる。体を捻って視線を後ろに向けて、音の正体を見つければもう、言葉を探す意味もなくなった。

「やっぱいい」
『何だと!?』

 クロウの目の前にはジャージの入ったカバンが一つ。閉めておいたはずのファスナーは開かれていて、すぐに中身が取り出せるようになっている。
 すっと重みが抜けていく。単純すぎると、クロウは自身を笑った。

「荷物、置いといてくれ。どーせ中身ねえから」
『おい、どういうことだ! クロ』

 ジャックからの通話を切って、千切ったトイレットペーパーで萎えた性器を拭う。下着を引きあげて息を吸う。

「きーりゅーぅ」

 投げ込まれたジャージの入った鞄を引き寄せて、黒いジャージをずるずると引き出しながら呼ぶ。クロウは掴んだジャージを広げ、それがボトムであることを確認して、右、左と足を引き抜いて。

「いんだろ。つか、いろ」

 ジャージをはいて、靴下も脱ぎ棄てて声をかける。こつ、と何かを叩く音がした。
 制服の上着を脱いで、個室のトイレから顔をだす。手洗い場に寄りかかって、クロウの上靴を片手にぶら下げて、京介はそこに立っていた。こつ。また音がする。京介の指先が手洗い場の縁を叩いた音だ。俯いているせいで表情はよく見えない。クロウはジャージの上着も鞄から引き出して、代わりに脱いだ制服を押し込めた。

「靴よこせ、荷物持て、制服クリーニング代よこせ」
「……随分、注文が多いんじゃねえか?」
「ったりめーだろ」

 ジャージの上着にそでを通す。シャツのボタンが止められなかったので、仕方なくジャージの前を閉じた。癖で袖をまくってしまって、誤魔化すのも面倒になって右も左も捲りあげる。

「テメー、夜道に気ぃつけろよ」

 ゆっくりしゃがみ込んで、右手で鞄の持ち手を拾う。京介が顔を上げた。クロウも屈んだままそれを見上げて、唇の端を持ち上げて。

「ケツ掘り返してやっからな」

 鞄を持たない手の甲を京介に向け、中指を立てる。京介の手が、クロウの上靴を取り落とした。瞬間的に、クロウがばかやろう、と叫ぶ。中指を立てたまま、上下に腕を振りながら。

「怖え……」

 苦笑した京介は靴を拾い上げてクロウの前まで歩み寄り、今度はわざと手を離して床に落とした。クロウは中指で京介の頬をつつくと、裸足の爪先靴に押し込む。踵を踏んで背筋を伸ばすと、当然のように走った痛みに動きを止めた。
 京介の手がその瞬間クロウの鞄の持ち手を握ったので、クロウは笑みでサンキュウ、とだけ返す。クロウの手が鞄を離れて、おう、と京介も応えて。クロウがいつもどおりに歩き出そうとすると、京介がその肩を掴み、トイレの壁に叩きつけた。

「っんでテメェはそうなんだよ……!」

 京介の異質な眼の威圧感が最大限に生かされるのは、怒った形相だ。しかしそれ以上にその瞳を見つめさせる表情を、今クロウは目の前にしている。
 歪んだ顔。笑みも泣き顔も作れず怒ることもできず、困惑すら押しだせず。

「悔しくねえのか! あんな真似した相手に、なんで笑ってんだよ! そんなにどうでもいいことか、あぁ!? 気にしねえ気になんねえって、テメェはいつもいつもいつも!」

 掴んだクロウの肩を何度も壁にたたきつけて、京介は声を張り上げた。クロウの頬に唾が飛んだが、クロウはただ首を傾げる。京介が何を思ってあの行為に及んだのか、今の言動がどの思考から来ているのか、クロウには分からない。ただ、京介はちゃんとクロウを見ていた。何も言わなくてもジャージを寄越すくらいには、ちゃんとクロウと一緒にいた。

「鬼柳だし、気にしねえよ」

 憎い相手を気遣うことなどしないだろう。京介が戻ってきた時点で、クロウの心中にかかっていた霧は晴れた。離れるな。その言葉の意味が、クロウを苦しめようとして放たれたものでないなら、いい。気がかりなのは体が痛むことがだけだ。

「体育の時間、一緒にサボってくれたらいい」

 告げると、京介はさらに顔を歪めた。クロウが口を開く前に、勢いよく首を振る。

「テメェがそうだから、わけが……ッ!」

 続く言葉は、分からない、だ。
 しかし続いたのは、唇を唇で塞ぐという行為。すぐには慣れてしまった唇の感触を脳内で再現できないまま、クロウは瞬く。

「っおい、さすがに、こりゃ、おかしいだろ」
「そうだろうよ!」

 投げやりに告げた京介が、クロウのジャージの胸元を掴んで引き寄せる。もう一度唇が触れて、離れる。少し勢いがあったせいで、歯と歯ががち、と触れあった。
 京介は肩で息をして、クロウは呆然と立ち尽くす。一見すると、普段の印象とは真逆の状況。それを笑ってやることもせず、クロウはぽそりと問いかけた。

「……なあ鬼柳、お前もしかしておれに惚れてんのか」
「知るかよ」

 吐き捨てるような返答のあと、また顔が近づく。その前に、クロウは握った拳を高く振り上げて京介の頭の上に落とした。痛、と京介が声を上げたが、背の低いクロウの上からの一撃が、それほど強烈なはずはない。もう一度、今度は弱く同じように拳を落としてクロウは京介を睨みつけた。

「知っとけ!」
「ってえな……何しやがるッ!」

 持ち上がったままのクロウの拳を掴んで避けて、京介はまたクロウに口付けた。先へ進むのを戸惑うように、互いにそっと唇を開く。だが結局それも、唇を触れ合わせたまま数秒間静止するだけで終わった。

「ふ……っはは」

 唇が離れて、目を合わせて。クロウはとうとう笑い声を零した。
 触れた唇の感触を、何度思い返しても嫌悪に変わらない。なんだ、と呟く。ばかみてぇ。笑い交じりに続けて。

「変わんねえの、そういう、頭の悪いとこ」

 おれもだけど。そう続ける前に、クロウの右頬を涙が伝った。瞬きをすれば左からも一筋。ジャージの袖で一息に拭うが拭った側から流れ出して、止まる気配すら見せない。悪態を吐いて袖で目元を押さえてみるが、根本的な解決にはならなかった。

「何でここで泣くんだよ……」

 京介は耳を隠す髪をかき上げて顔を顰める。クロウが嗚咽混じりに呟いた「お前のせいだ」の一言にますます顔を歪めて、かきあげた髪を乱した。くそ、と吐き捨てて、彼はまた沈黙を守る。
 クロウは熱の引かない瞼を両手で押しつけながら、前へと踏み出した。下半身の違和感と痛みよりも燻る熱が辛い。馬鹿げていると笑いたいほど鮮明な感情が痛い。額がぶつかった瞬間強張った体、両手の中に慣れた手触り。

「なんだ、これだ」

 心臓の上。京介の制服を掴んで何度も額をぶつけるたび、感覚が確信に変わる。あんな目にあわされても怒りも苛立ちも困惑も上書きするものがある。
 気にしないんじゃない。本当に気にならないだけだ。
 クロウは京介の制服を握りしめる。



 鬼柳、おれから手紙を差し出す度、ちゃんと相手に突き返しに出向いたのはなんでだ。面倒だと突き返せばいいものを。
 鬼柳、おれにばれているくせに、行動パターンを変えないのはなんでだ。行き先の選択はお前にあるのに。
 鬼柳、おれを泣かせやがったくせに、今そうやって肩に手を置いたのはなんでだ。素知らぬふりで消えりゃいいだろ、他の奴らにそうしてるみたいに。



「鬼柳、お前おれに惚れてんだよ」

 先ほどまでの問いを、答えに変えて押しつけて。


 お前が気にしたのはおれのメンツだろ。お前があそこにいるのはおれしか知らないからだろ。おれを置いていかないのは置いていきたくないからだろ。
 そんな妄想しちまうくらいには、そう。


 クロウは笑う。もう涙はこぼれない。痛みも忘れて、京介の胸を額で打つ。

「おれといるの好きだっていつも思ってるだろ。つまんねえことしてさ、楽しいよな」

 思考が回るのを止める。クロウは頭の中で、かちりと何かの音を聞いた。時計の針が動き始めるような、金具がしかとはまったような。空虚に響くことはなく、空耳にしても優しい音。

「鬼柳。おれもだ」

 京介は眼を見開いて、クロウを見下ろした。橙色しか映らなかった視界が、クロウの顔に切り替わる。
 しょうがねえなあ、ばかじゃねえの、なにやってんだよ。そんな台詞とともに浮かべることが多いいつもの苦笑。この笑顔の後、クロウは絶対にすることがある。京介はクロウの肩に置いたままの右手を外して、一歩、後に引いた。

「おれたち、完っ全にいかれてらぁ!」

 浮かせて向けられた京介の手の平を、クロウの手が打って掴む。固い握手。軽快に上下に振って、手の平が離れて続いた行動は、京介の記憶にもクロウの記憶にも例がない。

「目が痛え体痛え腹もケツも痛え! 責任取れよ、ばぁーか!」

 罵声は笑顔で放たれて、それより早くクロウの体が京介に向けて飛び込んだ。勢いはまさに鉄砲玉。中学時代、クロウに京介がつけたニックネーム。
 京介はそれを受け止めて、記憶より育った背中に腕をまわして息を吐いた。再会してから避けていた、幼い抱擁に安堵する。なんだ、これだけ。これがしたかっただけだった。抱きしめられてクロウは思う。
 そんなクロウを抱きしめながら、京介も同じことを考えた。

「……なあクロウ、ここがトイレってのが満足できねえ」

 ぎゅうと無意味に抱きしめて、京介は呟く。お前のせいだろとクロウはもう一度笑った。

「じゃあどうする? ベタなことすっか」
「ベタなことすっか」
「おれジャージだけど」
「いいじゃねーか、らしくて」

 廊下の人通りは先ほどより少ないだろう。クロウは京介の体を押し返し、我先にと歩き出す。その歩き方があまりにも不安定だったので、京介はその横に並んで、ぶらぶらと揺れていた手を取った。

「なあ、窓から出るか」
「すげえ近道」

 トイレを出て少し行けば、言わずして通じた目的地は壁越しにすぐだ。手紙もなければ、絵になるような恥じらいすらもない。それでもいい、やってやろう!




 広い校庭の片隅にある木は、こんな馬鹿の仕切り直しにはおあつらえむきだ。誰が植えたのか知らないが、いい笑い話になるだろう。クロウは掛け声と一緒に、窓から飛び出た京介を追いかけた。

 

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