「意味が分からねえ」
年が明け、三が日も終わり。
もはや人気のない小さな神社の社の前で、クロウ・ホーガンは腕を組みあたりを見据えつつ、心底疲れた顔で息を吐いた。
友人達が、年明けのバイトにどうだと伝えてくれたのは、師走に入ったばかりのころだ。
神主が相当な歳なので、このさびれた神社が最も荒れる正月明け、社周辺の清掃をしてほしいと。
ただそれだけの、本来ならボランティア。しかし神主が、謝礼としてお年玉をくれるという。
深夜の神社に臆さなければ、下手なバイトより割が良かったのだ。だからこそクロウは飛び付いた。
同じ反応をした友人は、あのときは少なくとも5人はいた、間違いなく。
うち一人は少女で、同じ神社で巫女バイトの声がかかったのでそちらを取った、それは分かる。
だがどうだ。暇だと言っていた野郎どもはどうだ――クロウは腕を組む。
一人。長身でぼんやりした友人は、バイク屋でバイトすることになったという。
それはいい、まあ、仕方がないの部類に入る。
一人。利発で年配受けのいい友人は、実家…の周囲からお呼びがかかって帰省期間が延びたという。
一人。モデル業を掛け持つ友人は、ハワイに行くそうだ。
「ハワイって!なんだよ!てかあいつバイトとかいらねえだろそもそも!!」
木々がざわめいてクロウの怒声を掻き消した。残ったのは一人。クロウ唯一人。
神主が手伝うと言ってくれたものの、よぼよぼと歩いてこられては頼めるはずもない。
幸いにもさほどゴミも見当たらないし、一人でも何とかなるだろう。そう判断して、残ったのだ。
残った以上は、やるしかない。
気合を入れるべく頬を叩き、手始めに足元の煙草の空箱を大きなゴミ袋に投げ込む。
「感心だな」
「んえ…?」
いつ現れたのか、全く気付かなかった。男は目の前にいたというのに、しかも、こんな暗闇で白い着物を纏って。
幽霊と見間違うほど白かったので、クロウはまず彼の足を確かめた。
ある。裸足だが、足はある。
いや、もしかすると幽霊でも足のある奴がいるのかもしれないと考えて、自然と身構えた。
男はニコニコしている。
「こんな遅くに、ゴミ拾いなんて」
「あー、えー、バイトなん…で…」
半歩下がりながらの返答の直後、男は表情を険しくした。
「……バイト?」
クロウが頷けなくなるほどの気迫。低い声。
金色にしか見えない眼が光っているかのようだと思っていれば本当に光っていて、クロウはひくりと頬を引きつらせた。
「ここの主は何をしてるんだ」
「え?」
「嘆かわしい…こんなんで満足できるか、俺も堕ちたもんだ!」
「え、……っ!?」
刹那、雨が降った。
息もできないほどの雨、そう思っていたものが、足元から巻き起こっていることに気付いたのは体が宙に浮いたから。
どこから現れたのか分からない大量の水が、渦を巻いてクロウを閉じ込めたのだ。
手を伸ばしても巻きあげられ、足を蹴りあげるも、水中独特の感覚が邪魔をする。
呼吸など当然出来なかった。水の壁越しに男を見て、白い輪郭が仄かに発光していることを確信したところでたまらなくなって目を閉じる。
光る男は黙ってクロウを見ているようだ。ふわふわと白い髪が揺れる。
――死ぬ!
そう思った。
水流はクロウの肺から酸素を絞りあげ、反射的に開いた口から吐き出させる。
生命源をひとつ奪い、代わりに飲み込んだ水が取り戻させもしない。
死ぬ、もう一度この言葉が浮かんだ時に覚悟らしいものを頭が勝手に決めていた。
ぐるぐると廻る思考、走馬灯は本当に見えるものなんだと、それを最後にクロウの意識は沈んでいった。
――死んだ?
瞼が、震える。
「……う……」
体が重い。
重い、と思える、それはつまりまだ体も思考も生きているという証だ
先程まで謎の渦に飲まれてずぶ濡れだったはず。
なのに、そんな痕跡は残っておらず、乾いた地面の上で目を覚ました。
「……あれ……おれ、何…?」
「起きたな」
「おれ、…え?」
男はいた。先程までの出来事が全て夢であったことをたった一人の存在が否定した。
白いと思っていた着物は良く見れば冴えた月のように仄かに蒼く、髪もそれよりやや青い。
目はやはり金色で、切れ長。
モデルの友人を見慣れているクロウから見ても、綺麗な顔をしていた。
「その、……悪かった。事情は分かった」
整った眉を寄せ、戸惑いがちに紡がれた言葉に戸惑ったのはクロウの方だ。
男の手がクロウの額に触れる。
随分と華奢な女性のような(クロウは華奢な女性の手に触れたことなどなかったが想像出来ないほどではない)細い指。
大きさは確かに男性のもので、手の平はクロウの額を覆ってしまった。
ピリピリと、熱とは違う何かを感じて、クロウは顔を顰める。
「少し、読ませてもらった。大変なんだな」
何を言っているのだろう。
確かに大変ではあった。もう何が何だか分からない。
ゴミを拾っていたらいきなり溺れる羽目になった、はず。
しかし眼を開けて見れば何事もなく、張本人であろう男の横で寝ていたのだから。
男は首を傾げた。
そのまま悩んで、悩んで、決めたと言わんばかりにクロウに向けて一つ頷く。
「俺は、ここに祀られてる神だ。水の――特に、流れの」
突拍子もない登場から突拍子もない暴露。
それを受けて、クロウは目を丸くすることもなく、「はあ」とだけ声を上げていた。
男はクロウの反応をどうとったのか、男は薄く笑って続ける。
「――――という」
「…ぁい?」
「――――、俺の名だ」
男は確かに名乗っているのだが、クロウには何も聞こえない。
否、聞こえてはいるのだが、相応しい音が、言葉が探せないのだ。
英語でもない、日本語でもない、そもそも言葉であるのかも怪しい。
雨粒が強く地を叩くようなノイズに近く、小川のせせらぎのように耳触りのいい音。
「……分からないか」
少し悲しそうに男が顔を歪める。
謝罪を紡ごうにも呆気に取られていたクロウは虚勢も張れず、ただこくりと頷くだけ。
男は腕を組み、またじっと何かを考えはじめた。
ぶつぶつと何かを呟いている。唇が紡ぐものが音と化すのを、試している。
「なら、――キリュウと」
「……きりゅう?」
「ああ」
きりゅう。クロウがもう一度繰り返すと、キリュウは一層嬉しそうに笑った。
「クロウは偉いんだな」
「な、なんだいきなり…」
こうも爽やかに微笑まれてストレートに褒められるのは、案外気分がいいものだ。
クロウはたった今知った。何を褒められているのかは別として。
「欲がない。お前の中に見えた金のイメージは、恵まれない子供達のことばかりだ。
時折別のものがちらついても、結局そっちに流れていった」
人差し指を振って、キリュウはクロウから目をそらさずつらつらと告げた。
「……そんなの分かるのか」
「分かる。気持ちの流れもまた水流だから」
不意に表情が消え、深く頷かれる。
カミサマ、は自称じゃないんだと納得できてしまうのは、こうして向けられる眼が本当にキラキラとしているから。
飲み込まれそうな金色、目がくらむ。光より眩しくて、闇より深い。
ぽかんと開いていた口は、遅れてやってきた言うべき言葉のために一度閉じた。
「……でも、あいつらは恵まれなくなんかねえぞ」
「え?」
「あいつらはこれからもっと幸せになるんだからな、恵まれない子供じゃねえっ」
カミサマにもここまでは分かんねえんだな。
嫌味っぽく言ってしまったのは悪意からではなく、理解が欲しくてのこと。
キリュウはそれも「読める」んだろう、気を悪くした様子もなくさらりとクロウの頭を撫でた。
「うん、クロウは偉い」
ひんやりとした手が優しい。
母親の手、クロウはそんなものほとんど覚えてはいないが、近いものを感じた気がした。
途端照れ臭くなって、立ちあがることで誤魔化した。
「よく、わかんねー!おれ仕事するからな!」
放り出されていたゴミ袋を掴んで、錆びたゴミ拾い用の日バサミを掴む。
キリュウはゆったりとクロウに続き、汚れ一つない白い着物をそのままに草むらに入ってくる。
「塵を拾うのか」
「そーだよっ」
空き缶をビニールに放り入れ、次にプリンの空き容器を摘む。
分別すべく振り返ると、ビニール袋を踏みつけたキリュウがまた緩やかに発光していた。
少し前の事態が頭を過ぎり、後退って躓いて尻餅をつく。
雨のようなあの、渦。逃げ切れないとは分かっていても――
「俺も、やる」
途端、クロウの周囲あちこちに立ちあがる水柱。
クロウの悲鳴を掻き消して、滝の真横に立っているような轟音。
あたりに響き渡ったはずなのに、ゴミがキリュウの周囲にばらばらと落ちただけで、他には何も変わらなかった。
キリュウはひしゃげたアルミ缶を摘みあげて、滴る水を眺めて首を捻る。
静まり返った境内で驚くのもクロウだけ。
「な、何だ今の…」
「水蒸気を集めて、自然に存在し得ない物質だけを巻きあげた」
「神様すげえな!?」
集まったゴミを両手にきょろきょろとするキリュウにゴミ袋を差し出しつつ、しっかりとクロウは感動を言葉にしてみせた。
人生初であろうゴミ拾いの達成感からかクロウに讃えられたからか、満足げにキリュウは胸を張る。
どこか、子供のようだ。
次のゴミを拾いにしゃがもうとしたのを止めようとして、ふと、折れた枝が視界に入る。
キリュウが集めたゴミからは少々離れていた。
「枝とかはそのままなんだな」
「木々は、自然に還るから」
柔らかく風が吹く。湿った風。
かといって纏わりつくことはなく、不快などとは微塵も感じなかった。
キリュウの言葉に木々が喜んで声を上げたのかと、柄にもなくクロウは思いついた。
樹や草も水を吸って育つわけだから、キリュウにとっては血を分けた兄弟のようなもの。
例え折れて乾いていても、ゴミに分類はできないということか。
「んー…まあそうだけど、見た目も綺麗にしねーと掃除になんねーな」
拾った枝は、木の根元にそっと置いた。
ゴミ袋に入れてしまうのは、キリュウのことを考えると忍びない。
社の裏にでも集めておくかと、顔を上げ。
すると、随分近くで、水が滴った。さらり、と。
「…え?」
耳を塞ぐ冷たい手。
髪を逆立てて顕わにしていた額に、押し当てられる柔らかいもの。
頭の芯まで通り抜ける何か。
染み渡っていく、
血が巡るより軽く、
酸素が巡るより早く。
「え、え? なに?おま、何…」
「ん」
鼻先が触れあうほど傍で、キリュウが一段と綺麗に微笑んだ。
彼の薄い唇の位置を、つい、目線で確かめてしまう。
結果、数秒前の状況を察した。
額に、唇で、触れた。
落ちついて考えれば、落ちつけてなどいないが、触れたなんてもんじゃない。
強く押し当てた、偶然ではないと知らしめるように。
「…ば、っ、だっ!どわっ!?」
額を押さえてよろめいたクロウは、盛大に倒れまたも尻餅をついた。
相手は綺麗な男に見えたが、カミサマと言うなら分からない。
得体のしれない相手からの額へのキス――キス、と言葉に置き換えてしまえばとてつもない羞恥が湧き起こる。
真っ赤になった顔を両手で隠してみて、明らかに不自然だろうと離して、また隠す。
キリュウはその前にしゃがみ込んで、混乱するクロウを機嫌良く眺めている。
「クロウが人でなくなったらこっちに来るように。まじないだ」
「……はあぁ?!」
今度は血の気が引いた。キリュウは楽しそうにしている。
人でなくなることなど、生きている限りはないだろう。
ならつまり、そういうことか。
「おま、おれを殺す気か!」
「そんなことはしない。…してもいいなら」
「ゼッテー嫌だかんな!?おれはまだ18だかんな!?」
耳に触れようと伸びてきた手を左右に弾いて、木の方へ逃げる。 逃げても無駄だと分かっていても、殺されるかもしれないなら仁王立ちなどしていられない。
「ジョウダンだ」
「……性質悪すぎだろ」
「できるんだが…」
キリュウが真面目な顔を崩さないので、咄嗟に両手を木の幹に回していた。
そうしてどうなるわけでもないが、クロウは木に擦り寄っていく。
「俺も、お前が流れるままに生きてくれた方がいいな」
伸びてきた手。触れるには距離がありすぎて、キリュウはしゃがんだまませっせと足を動かして近づいてくる。
子供か。
頬に触れて嬉しそうなキリュウに、言おうとした不躾な言葉は一つ飲み込んで、
「……流されねえ。おれはおれの思うように生きる」
きっぱりと、言い放った。
流れを司るというキリュウにとって、これ以上ないほど不敬だったろう。
死への恐怖を抱えながら、しかしクロウは通さずに居られなかった。
「他に流されたりしねえ、おれは流れに逆らってでも、自分で決めた方にいく、水流は、ひとつじゃねえよな」
キリュウの言い回しをあえて借りたのは、理由あってのことではない。
考える間もなく、そういうことだと、浮かんだのだ。
キリュウのまじないのせいだろうか。
それとも、これだけの時間で浸透するほど、キリュウがクロウにとって馴染みやすい存在であったのか。
「……やっぱり、お前は風の神になるな」
残念だ、とカミサマの癖に寂しげに、それでも笑って見せてくれた。
カミサマなんだから、もっとでかく構えればいいのに。
クロウは思う。
運命もまた水流、そうとでも言いたげな眼をする中途半端に厳しい神へ、罰あたりな助言でもしてみようと。
「じゃあ捻じ曲げてみろよ」
「え?」
「おれの流れる先、捻じ曲げてみせろよキリュウ様」
言われて目を丸くしたキリュウが、表情を随分と人間味のある笑みへ変えた。
「…なるほど。いいな、それ」
ただ透き通るようだった先程までのものとは大違いだが、クロウは嫌悪感は抱かない。
「ただし変な力は使わせねえぞ」
言わずとも、キリュウはそのつもりだ。
だから、こんなにも狡い笑みを見せたのだろう。
「その方がいい。そのために、クロウ、また来い。水曜日がいい」
「水だから水曜日?安直だな!」
「木曜と土曜日も大丈夫だ。火曜日と日曜日は嫌だ」
「我儘いうな神様。ってこたぁアレか、水、木、土がご利益あんのかここ」
「そうだな、満足させてやる」
まずはさっそく明日だなとキリュウが嬉しそうにするので、クロウは明日の予定をどう調整するべきか考えを巡らせた。
ふとよぎった余計な思考は放り捨てる。
遠くに遠くに、キリュウに読まれないように流さず投げ捨てる。
…偉そうに言ってみたものの、とっくに溺れてるんじゃないか。
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