凶悪犯罪者の収容施設が完成したという理由から、すっかり人気のなくなった小さな街。雨の降る真夜中、駆け抜ける複数の足音。怒声と、銃声。
皮肉なほどに、ほとんど錆びのない収容施設フェンスは大粒の雨に打たれ、美しいほどに輝いていた。
「っは、……っ」
乱れた呼吸を押しとどめながら、鬼柳京介は町はずれの古い教会の扉に自らの体を叩きつけた。濡れた長い髪が頬や首筋、前髪に至っては瞼の上にまでに貼りついて、彼の逃亡を咎めるように絡む。
頭を大きく振って、鬼柳は銃弾によって打ち抜かれた左足を引きずりながら教会の奥へと進む。人工の灯りはそこになく、雷の光が鬼柳の影を色濃く映す。
視界の先に、大きな十字架。罪の象徴を見上げながら、鬼柳は自然と唇の端が持ち上がるのを自覚した。
鬼柳京介は死刑囚だった。罪状は殺人。完成したばかりの施設に放り込まれ、併設された死刑台で見せしめのように殺されるのを待つだけの残りの人生。逃げ出したのは、最後の抵抗だ。
「……結局、カミサマとやらの前に引きずり出されただけ、か」
出血と濡れて冷えた身体によって奪われた体力は、おそらく無人であろう寂れた教会のどこかに隠れる余裕も、ここから更に逃げ出す余力も与えてはくれなかった。ここまで走り抜けられたことも、奇跡と言っていいほどだ。
セキュリティ――罪人を捕らえ裁くための機関の総称。その組織を形成する追跡者が、鬼柳を呼び、近づいてくる。立つことすら放棄した体が、小奇麗な赤い絨毯が長く敷かれた床に伏せる。死に近づく体でも、温い水が肌に貼りつく感触は心底不快に感じられるものだから困る、と鬼柳はまた笑みを浮かべた。
「何、してるんだ」
声が、すぐ傍で降った。雨音よりもずっと穏やかな声。人がいたのかと思いながら、鬼柳はぼんやりと唇を動かした。謝罪だったか、意味のない声だったか、判別がつかないまま。しかし声の主は外の騒がしさに状況を察したのか、速足で鬼柳から離れ、教会の入り口へと向かっていく。終わりを察して、鬼柳は目を閉じる。あの真新しい死刑台に立たされるよりは、よほど好みの終幕だと。
「おい、てめーら仕事しやがれ! おれの教会に今妙なやつが来やがったぞ、心臓に悪いじゃねえか、とっとと捕まえて来い!」
ところが、扉を蹴破る勢いで開いて飛び出していった声の主は、教会のすぐ前にまでやって来ていたセキュリティたちに怯むことなくそう怒鳴り立てたのだ。鬼柳はただ、中途半端に残った意識の片隅でその言葉の意味をずっと考えていた。
次に鬼柳が目を開けた時、見えたのは明るい部屋の天井だった。
「起きたのか。じゃあ、生き延びられそうだな」
途端、先ほどより近くで声がかかった。生かされたのだと、鬼柳は息を吐く。
顔を傾けると、鬼柳の瞳に映ったのは少女めいた大きな瞳の修道女。ほとんど黒にしか見えない修道服には似合わない陽に焼けた肌とふわふわ逆立ったオレンジ色の髪。鬼柳のイメージする修道女と決定的に違ったのは、その顔を覆うマーカーだ。
鬼柳は、右頬に縦に走った自分のマーカーを力の入らない手の平で覆った。色は赤。重罪人に刻まれる色。
彼女の顔を覆うのは、軽犯罪者の黄色のマーカーだった。しかし、聖職者にとっては、決定的な悪のはず。
「あんま見るなよ、珍しいんだろうけど」
彼女はその小さな手を、鬼柳の目を塞ぐようにしてかぶせる。少し頬が赤い。注目されることに困ってはいるようだが、その証を疎み嫌う素振りは、全くなかった。それがますます、鬼柳の視線を彼女に集中させる。指の隙間から見る微笑があまりにも穏やかだったものだから、衝動的に鬼柳は唇を動かしていた。
「マリア」
「あ?」
「そういうんだろ……教会にいる、女は」
鬼柳の故郷に教会はなかった。宗教にも興味がなかった。傷の痛みと雨に打たれ疲労した体、未だ働かない思考の中で絡まった知識は、随分とちぐはぐな問いになって目の前の修道女に投げかけられる。彼女は大きな薄闇色の瞳を瞬いて、屈託なく笑った。
「オレは、クロウ。悪いが救世主を産んでもいないし、神聖でもねえよ」
聖者らしからぬ意味を持つ単語と同じ響きの名。クロウ。忌み嫌われる黒鳥かまたは、肉を抉る鉤爪。むしろ鬼柳側の人間がもてば相応しいであろう名。鬼柳は彼女から目を逸らした。弱く噛んだつもりの唇が、チリ、と痛んだ。仄かに芽生えた安堵を罪だと責め立てるように。
「クロウおねえちゃん……」
か細い声がドアの隙間から聞こえる。二人の視線がそこに集まれば、おずおずと見えた小さな手と、更に開いた隙間から見えた不安げな少女の顔。大きな瞳が、ベッドの上の鬼柳を見て、扉の影にまた隠れてしまう。クロウはすっと席を立つ。鬼柳に背を向け扉に向かう後ろ姿は、頭は派手だが修道女らしく慎ましやかに。
「ちょっと行ってくる。ついでに飯持ってくっから、寝てろよ」
足首ギリギリまで覆う長いスカートが翻るのをさりげなく片手で押さえながら、クロウは一度鬼柳に振り向いた。
鬼柳は薄く開いた唇を動かすこともできず、そそくさとクロウの手を引き部屋の外側へ連れ出す少女の顔を確かめることもできず、白いシーツの上に起きっぱなしだった手を握る。触れた感触など残っていないのに、手の平も頬も仄かに熱を帯びていることに気付き、深く、深く息を吐く。
女性らしからぬ粗暴な言葉遣いをしながらも、厚手の修道服の下にあるのは、きっと女性特有の丸みのある細い肢体。見えた手首は、少なくとも細かった。鬼柳に媚を売らない女性も、鬼柳に怯えない女性も、久しく出会っていなかったせいだろうか。とくり、とくり、心臓が早く血を巡らせる。落ちつかせようと、深く、息を吸う。
しかし、近づく気配を感じ取ってその息はすぐに詰められた。
執行の時だろうか。それならばこうもゆったりと近づくはずがない。
勢いよくドアが開くと同時に見えた影の小ささに、鬼柳は二重の意味で目を剥いた。
せえ、の。
声を潜め、呼吸を合わせて飛び込んできたのは3人の少年。ダンボールを硬く巻いてつくった棒を剣か槍のごとく構えて、勇敢には程遠い腰の引けた姿勢で鬼柳を睨みつける。殺意はないが、敵意はある。子どもながらに強い意志を秘めたまなざしをうけて、鬼柳は一瞬、怯みすらした。
「くっ、クロウに何かしたら、ぜったい許さないからな!」
真ん中に立っていた少年が、少々不格好に伸びて飛び跳ねた髪を気にするそぶりも見せず、ダンボールの剣を鬼柳に突き付けた。
「ク、クロウ姉ちゃんはお前なんかとは違うんだから、っ怪我が治ったら、とっ、とっととでてけよなっ」
一番体格のいい少年が、一番がたがたと手も声も震わせながら続ける。これだけ敵対心を顕わにしているのに、怪我は気遣っている。不器用で不格好な意志と優しさは、きっと彼女を見ているから芽生えたものなのだろう。
鬼柳は肩を竦め苦笑した。純粋すぎる彼らを揶揄してやろうと、やや薄汚れた感情が顔を出して。
「どうして? 同じマーカー付きじゃねえか」
「同じじゃ、ないっ!」
三人の敵意が向きだされる。手負いの獣が必死で牙をむくのと変わらない権幕で、彼らは鬼柳を怒鳴りつけた。先ほどまでは蛇に睨まれたカエルだったというのに。自然と浮かびかけた笑みをどうにか嘲笑に見えるよう誤魔化して、鬼柳は首を傾げてやった。どういう意味だと問う代わり。
「クロウ姉ちゃんは、俺らの代わりにマーカー入れられたんだ! 何も悪いことなんてしてないっ」
口を滑らせたのはバンダナを頭に巻いた少年。あっ、と声を上げるが遅い。鬼柳はくつ、と笑って明らかに動揺した三人の顔を順に見た。
彼女に口止めされていたのかあるいは、自ら言わないように戒めていたのか。そのどちらかだろう。どちらにせよ、これで鬼柳の疑問は解決した。修道女が顔にマーカーを付けて、それでもその立場にいられる理由。彼女はただ、自らの身に子羊の罰を刻みこんだだけなのだ。
「なるほど、な」
セキュリティに対しても強気な態度を崩さないのは、何度もマーカーを刻まれ言葉を交わしたからだろう。罵られたか、戸惑われたか、嘲笑われたか、感嘆されたか。
聖女ではないと、彼女は自ら言った。自分とさほど歳の変わらない彼女がその身を捧げたのだ。罪以外に何が刻まれたのか、想像はいくらでも出来た。どこかが痛んだ気がして、鬼柳は無意識にシャツの胸元を握りしめていた手に視線を落とした。
少年たちも次の言葉が浮かばなくなってしまったのか、武器を握る手や隣の少年の表情を窺うばかり。
「……あー? お前ら何してんだ」
そこへ件の彼女が飛び込んでくれば、四人の思考は容易く切り替えられた一瞬にして消える、彼女にとっての空白の時間。少年たちは構えていた武器を体の後ろに隠し、必死に言いわけを探す。
明らかに体からはみ出したダンボールの武器を見つけて、クロウはやや意地悪く笑みを浮かべた。
「あんだけビビってたんだから、おれがいるときに来いよ」
「び、びびってねえよ!」
「そうかあ?」
鬼柳に一度目線を送った後、クロウはまっすぐにベッドの傍らまで歩いてきた。少年たちは慌てて左右に捌ける。武器はまだ体からはみ出しているが、彼らは動かない。
両手で持ち上げていた長方形のトレイを鬼柳の傍らに置いたクロウが、振り向かずに唇の端を上げた。
「ほら、ンな睨まれてたらこの兄ちゃん飯食えねえだろ?」
言って、振り向きざまに一番近くにいた、一番先に鬼柳に声をかけた少年から、ダンボールの剣を奪い取った。
すると、蜘蛛の子を散らすように少年たちはドアを開けて逃げていく。悪戯を咎められると思ったのだろうが、彼らがいなくなってからもクロウはけらけらと笑っているだけだった。つられて、鬼柳もくすりと笑う。
長いスカートをさっと払って、クロウは丸椅子に座る。椅子はかたりと鳴ることもせずに小柄な彼女を受け止めた。
傍らのトレイを膝の上に置いて、白を青で縁取ったシンプルなデザインの皿の上の小さな丸いパンを取る。質素ではあったが、クロウの手で綺麗に分けられるそれは一見して柔らかそうで、鬼柳の中の食欲があっさりと目を覚ます。差し出された半分を、鬼柳はすかさずその手で取った。
「……あっち、放っておいていいのか? 顔そんなにしてまで守ってるガキどもなんだろ?」
パンをかじりかけて、閉まりきらなかったドアを見る。どうやら子どもたちは完全に逃げてしまったようだ。反省会の後、ささやかな作戦会議でもしているのだろうか。鬼柳は少しだけ、幼かった日を思い出した。ほんのわずかな期間だったが、独りではなかったころのこと。そしてその幸福が、たまらなく怖かった日のこと。
「あいつら話したのか」
「ま……なんとなくな」
クロウの問いの答えを濁し、鬼柳はパンをかじった。ふうん、とだけクロウは返す。パンの半分を更にちぎって自らの口に放り込み、豆だけの入ったスープの皿を鬼柳に差し出した。鬼柳は食べかけのパンを皿に戻し、代わりにスープとスプーンを取る。
クロウは不意に、ぱちんと片目をつぶって人差し指を立てた。パンを食べたのは内緒、と言いたいのだろうと見当をつけて鬼柳が頷くと、彼女はパンをトレイに戻してにこりと笑った。
「ま、かえってあいつらを傷つけちまってるのかもしれねえがな。あいつらがここを出たら、俺の選択、間違ってねえって言えるようになるさ」
こんなもん、ないのが一番だろ。
そう言って、クロウは右で自分の頬を、左手で鬼柳の頬をなぞった。その赤の重みは知っているはずなのに、神に仕える身である彼女は、罪に触れることを厭わない。
「食ったら、化膿止め塗って、包帯代えねえとな。銃弾抜けてて良かったな」
そして、傷に触れることも厭わない。
どこまで汚れて行くのだろうか。どこまで汚されていくのだろうか。苛立ちかけた己を押さえて、鬼柳は苦笑し首を振った。
「そのくらい、自分でやる」
「いいって、お前不器用そうだし」
「大丈夫だ。…自分でやる」
鬼柳がそう告げたのは気遣いからではないことに、クロウは気づいていない。大人しく手を引いたのは、鬼柳の意思を尊重するという選択を単純に選んだだけのことだ。けれども鬼柳は眼を逸らした。意味も分からず鳴る心臓が、辛くて。
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