決闘竜の試練を超え、それを手にする。
 クロウの眼前で、不動遊星が達成した威光を目に焼き付け、全ては夢のように消えうせた――





「……あ、れ?」

 クロウが眩さに閉じた眼を開けると、そこには変わらぬ風景があった。遊星の姿はない。がらんとした儀式の空間だけが残っている。そう、突如飛ばされたあの空間に、クロウはただ一人立っていたのだ。

「え、嘘だろおい遊星!」

 着なれない服の随分短い裾を引き下ろしながらあたりを見回し叫ぶ。しかし返答はない。すっかり血の気の引いたクロウは、頭を抱えて悲鳴を上げた。

「嘘だろ! どーなってんだ、おい、何でもいい決闘龍でもいい、何でもいいから出てきてどーにかしてくれ!」

 切実な願いは、この空間においては過ちだったのだろう。
 しかしクロウがそれに気付くことは、『ない』。









 『――決闘竜』
 『欲しい』
 『力が』
 『全てをねじ伏せる絶対的な力を』



「……へ?」

 急激に周囲の温度が下がったようで、クロウは自らの体を抱きしめた。四方八方から感じる視線。敵意、疑惑、興味。
 クロウにとって異質である空間に存在するものにとって、クロウこそが異質。さも当然のことだが、現実がクロウの孤独を知らしめる。

「なんだ…何だってんだよ」

 震える声を拳を握ることで抑え込み、ただ広いだけの儀式の場を見回す。空に光はない。足場はある。現実と非現実の狭間、一人きりになることがこれほど不安を煽るものだとは。

「遊星……」

 随分と情けない声が呼んだ名前の主から、返事はない。


  『決闘竜を手に入れた者』
  『違う』
  『なら何故』


 ひそひそとしているのに響き渡る声。人間の淀んだ部分だけを救いあげたような声音。振り返るクロウの目に、人の姿はない。複数の声が、ぶつけようのない不平不満をクロウのいる場に投げ込んできているのは確かだというのに。

 欲しい、手に入れてみせる、と声は繰り返す。
 だが、こうして望むことが答えには値しなかったことをクロウは知っている。目の前できっと成功したのであろう儀式、遊星が示したのは決闘竜の望みを知り、受け入れ、共にあることだった。

(それじゃ、一生遊星には勝てねえな)





  『勝てぬと』





 急に雰囲気が変わった。ざわついていた声が、視覚をも浸食していく。色がある。――黒。
 空気に溶けて消えそうに儚い灰の煙が、黒色で形を作っていく。この声の色は黒だと、何の疑問を抱く間もなく突きつけられる異常。複数の声。取り囲む黒。匂いはない。ここまで知覚できてしまうと、触れずにはいられない。クロウはそれほど、人間だった。

「う、」

 触れて、今まで触れたこともないような感触に手を引く。
 感触は不快。どろりとしているのにも関らず、クロウの指には何も残らない。黒も残らない、液体の類もなく、濡れもしない。


  『勝てぬというのか』
  『決闘竜の力を得られぬと』
  『ならばどうしてここに』


  『俺達はどうしてここにいる!』



 悲鳴だった。
 黒い歪んだ壁が弾けて、声を上げる隙も与えずクロウを覆い隠してしまう。目を開けてなどいられなかった。唇を開くこともできない。ぴたりと全身を包まれ、不気味な弾力で圧迫されて、何をすることもできない。呼吸すら。

「――!!」

 喉奥で呻いても、喉奥で響くだけ。自らの心臓に内側から殴りつけられる経験なんて、後にも先にもないだろう。あってもらいたくない、ついでに言えば、これが人生最後の経験にもなって欲しくはない。

 酸素を求めて、無理矢理唇を開けば、その隙間も埋め尽くそうと、『声』はクロウの口内へ滑り込んできた。飲み込めど、途切れない。溺れているにしては生暖かく肺を、胃を満たしていく酸素では到底ないもの。
 


「っんぐ」




 ごくり、と大きく喉が鳴った。
 呼吸ができていた。不思議と、先程までの苦しみは余韻すら残していない。
 声は聞こえず、圧迫感はない。自由に動くことはできないが、先程までなかった浮遊感がある。目を開けて、状況はすぐに理解できた。

「飛んでる」

 浮いている。クロウの身体は、あの儀式の空間の中心に、やや体を傾けて浮いていた。腕を動かそうとしてみる。僅かに動く。粘度の極めて高い液体の中を動かすようだ。筋力のほとんどがどこに行ってしまったのかと思うほど、重かった。

 首を巡らせることもできず、視線を出来る限り動かした。視界はどこか歪んでいる。まるで水槽の中、金魚にでもなった気分だった。
 結論を出したくなかった。やはり、自分はひとりであると。


「ぇ、あっ?」

 腹部を、何かが撫でた。
 さらりとした着慣れない布地の内側を、ずるずると這っている。首に絡んできたことも間違いなく、嫌悪から喉を震わせると感触は衣の下、剥き出しだった下肢にまでも届いた。

「え…えええッ、嘘だろ」

 頬が熱い。主に排泄器官を狙ってまとわりついてくるものの目的は理解できずとも、体は反応する。前では性的な快楽を、後は生理的な嫌悪を覚えて。上――クロウの視線には、弄ばれる下肢が直視できないことは、救いなのだろうか。

 重い両腕を振りまわそうとして、結果、ただぎりぎりと体が軋む。
 決闘疾走のフィールによって巻き起こるものとは明らかに異なる、むしろ正反対の重圧を受け続けることは、クロウから冷静さを奪っていた。やめろと幾度も幾度も声を上げて、誰に向けているのかも分からなくなりかけて、頭を過ぎる『友』の名。

「ゆうせぇ…どこいっちまったんだよ」 

 決闘竜の試練を受けていたのは、この空間に呼ばれたのは、他の誰でもない、彼だったはずだ。その彼がいない。彼は、決闘竜の試練を超えたはずなのに、いや、超えたからこそか、いない。
 取り残された孤独感がせり上がる。泣きたくもなった。

「…ヒッ!?」

 それを、叱りつけられたような気がした。
 理不尽な怒りをぶつけられたような、罪悪感と理不尽の中間で心が揺れる。感情の始発点が探せず寒気がして、身を振わせるクロウの後の排泄器官に何かがねじ込まれる。

「うそだ、うそだ…ンな…うそだぁ…」

 液体のように入り込んできて、内側で体積を増していく。あるいは液体そのものが流れ込んでいるのか。
 内側から、限界までまで膨まされた腹は自分のものではないとしか思えない。腹のうちに別人を抱えている。今まで感じたこともない違和感。

「う…うう…」

 苦痛でしかなかった。これ以上は飲み込めないと体は訴えているのに、腹の中でそれは蠢いている。押し出すように、言葉を吐かせる。

「『ゆうせい』」

 まず、名前。

「『ずるい』…遊星だけ」

 ぼやけた瞳が、ぼやけた空間を映す。
 下肢の衣服の下で実際起きている異常現象から目をそらしたら、何も見えなくなっていて。

「オレは、『どうすりゃいいんだ』よ…」

 誰に当てるでもなく言葉を発するたび、浮遊感が強くなる。
 腹の中に別人がいるのか、己が別人なのか。もう、考えることもできなくなっていった。
 沈んで、浮いて。やはり、沈んで。

「…『決闘竜の力もねえ』」

 スターダスト。あの力を、彼は手にした。
 (クロウはそれを求めてきたのではない)。

「『恋人の顔も忘れた』」 

 脳裏に浮かぶ顔は漠然としていて、今新たに構成されていくのと変わらないものだ。
 (クロウに、恋人はいない)。
 
「『食べることも寝ることもできねえ』」

 (つい先ほど、というには以前すぎるが、豪勢な夕食を食べ、決闘に備えて上等なベッドで十分睡眠をとったばかりだ)。

「『何をしたら満たされるのかも分からねえ』」
 
 (そんなはずはない)。
 けれど舌は、つらつらと滑る。


「ふ…うぁああ」

 ぎゅうと性器を握られた気がして、悲鳴じみた声を上げた。否定しようのない快楽を受けて、クロウは背を反らせる。反射で動く分には、拘束は意味をなさないようだ。

 連ねた言葉は、叶わなかった何者かの望み。元の世界に戻りたいと、この奇妙な苦痛から解放されたいと、クロウが最も訴えたい言葉は出てこない。
 体内の刺激が、また形を変えた。腹を押し上げながら、性器の内側で執拗に渦を巻く。薄布の下ですっかり起ちあがった性器は相変わらず何かに覆われたままで、そのぶ厚いと思われる膜は、緩やかに波打ちクロウを煽る。

「あ…あっ、こっ……やば……ァ」

 絶頂の寸前でそれらはぴたりと動きを止め、濁ったクロウの思考を別の声が支配する。

「『…帰りたい』」

 唯一同意を示せる言葉。だが、クロウの意志ではない。確かに己の声ではあったが、この言葉は、違う誰かの嘆く声だと、どこか遠くで確信した。

 物理的に掻き回され、精神的に掻き乱される。宙に浮いているのが体なのか意識なのか、そういえば判断ができなくなっている。ぼやけた視界は、現実なのか。それとも、ここすら、理想や希望の見せる幻想だろうか。

「いた…い……『苦しい』、『いやだ』ぁ、あ…」

 喘ぐ指先が空を掻く。掻けど割けない、開かれない逃げ道。快楽は逃げ道を見つけているが、許したくない、クロウがそう望むまま、哀れなほどに震えて耐える。
 ぼろぼろと涙が落ちる最中、ふ、と、吐息がたゆたう。

「『きもちい』……?」

 誰が求めた逃げ道だろう。
(純粋な快楽など、クロウは感じてはいない)。

「あう、ゆうせ、遊星ゆうせいゆうせい『不動遊星』ぃぃぃ!!」

 切り離される意識を引き留めて助けを求めた。その名すら、見えないものに阻害され憎悪に擦り変わる。クロウが逃れる意志を持って体を動かそうとすると、拘束はクロウを弄ぶ。

「『どうしてお前だけ』ぇえッ!!」

 腹の底からひり出された言葉の汚さに、クロウは顔を顰めた。首を振ろうとも、否定しようと口を開くも、急激に勢いを増した内側の衝撃でねじ伏せられた。

「あう、う、ぃ、ヒぅッ!」

 飲み込めなかった唾液が零れて、唇が濡れる。体は下向きに傾いていたが、零れ落ちることはなかった。薄く開いた唇から酸素を取り込もうとすれば、舌を何かが押さえつけるようで。

「…違う…オレじゃな、い、オレじゃない…あ…ぁ」

 涙が零れないのも、同じ原理なのかもしれない。限界を訴えてきゅっと丸まった爪先、剥き出しの足を舐めるようにすべっていく感触、耐えようと息を詰めるため、どんどん息苦しくなっていき、混濁する意識。
 自分の吐息と声だけが聞こえていると、クロウはようやく気がついた。ぐちゃぐちゃに濡れた性器が擦られているのに、見ずとも想像できる有様なのに、水音がしない。

「ぃ、…ンッ」

 内側に意図的な刺激を感じた。一点だけに捻じ込んでくる、なすすべもないクロウが受け入れることを知っているだろうに、執拗に、角度を変えて。
 そのたびに、性器が跳ねた。絞り出すには弱く、無視するには強い刺激を受けながら内側の未知の刺激に耐えられるほど、今のクロウの意思も、性も、強靭ではない。

 わけのわからないまま、欲望のままに、射精しろというのだ、この『声』達は。

「出てけ…いあ、あっ、いた、い、ぃや、『気持ちいのが』っ、っが、良く、んッ…んぁ、ァァだあぁああッ!」

 精神をも染め上げようとしてくる意志に逆らう最後の術、圧力が喉奥まで滑り込んでくることも諦めてクロウは叫んだ。叫べたことは不思議ではあったが、構ってはいられない。
 散々飲み込まされ吐き出さされて、クロウは己を捉えているものの正体を薄々悟った。羨望だ。決闘竜を求めて儀式に挑もうとした人々の、行き場を無くした敗北の証は、成功者への悪意としてこの場所に残り続けている。力は金になる。金があれば満たされる。空腹も、幸福も、性も。

「出…てけェっ」

 決闘竜は、この薄汚い悪意を目の当たりにし続けたのだろうか。あるいは、これこそ人の性と、受け入れることもあるのだろうか――否。

「出てけ!出てけ出てけっ!」

 ほとんど見えはしなかったが、あの竜の放ったフィールは純粋だった。闇をはねのけるために輝いて、真っ直ぐに遊星に放たれた。遊星は勝ったのだ、この悪意に。間違いない。彼は、ここに『いない』のだから!

「……ッオレはまだ、負けてねえだろうがぁ!!」

 ならば己も負けてはならない。彼と対等に闘えるのだから、ここで飲まれてはいけない。撥ね退けるしかない。クロウは記憶を探った。あの、決闘竜がぶつけたフィールを幾度も幾度も繰り返し浮かべる。あの輝きを、威力を、――恐ろしいほどに一筋だった、あの光を。









 ――  






 目を開ける。見えたのは地についた自分の手。決闘疾走を始めたころから愛用している薄汚れたグローブ、見慣れない、けれど間違いなく触れている、地面。

「……ここは……」

 顔を上げると、人が立っていた。悩む間もなく喉奥まで出てきた名前、遊星。不動遊星。
 呼ぼうとして、戸惑われた。心臓が、苦しい。ぞっとするほど後ろめたい気がして、息を吸った。冷たく乾いた外の空気。安易に、膝は地を離れる。

 遊星は決闘竜の儀式を終えて戻ってきたのだ。巻き込まれた自分も。

 それでいい。
 自分の中で疼くものの正体など思い出せなくていい。


 そんなことを考える自分の思考の根拠が見つからなくて、クロウは身震いした。




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