「トリックオアトリートぉ!」
「わぁああっ!?」
悲鳴よりも派手にベッドの端まで飛び退いた少年を、ベッドの陰から出てきたシーツの塊がけらけらと笑う。少年はつんつん飛び跳ねたオレンジ色の髪が乱れるのもかまわず頭をさすりながら、真っ白な塊を見上げる。
「京介ぇ!」
「ばれたか」
「遊星もジャックもあんなのしない! 京介しかしねえもんっ」
きゃんきゃんと騒ぎ立てる少年の前で、シーツの塊はあっという間に一人の少年に戻ってみせた。
京介は最初こそ笑みを浮かべていたが、見上げてくる少年の顔を見て表情を曇らせた。アクアブルーの髪はシーツで発生した静電気でひどい有様だったが、それには構わず彼はオレンジ色に向けて手を伸ばす。執拗に少年自身がさすっているその部分を、彼の手のひらの上から労わるように撫でた。
「ごめん、ぶつけた? 痛かった?」
「いたくねーよっ」
「でも、クロウ、泣いてる」
ごめんね、と京介がもう一度告げると、クロウと呼ばれた少年は大きな瞳に涙を溜めたまま小さくうなづいた。あやすように京介の手がクロウの頭を優しく叩くと、クロウは落とされたシーツを掴みあげて顔を隠してしまった。
また笑顔に戻った京介は、クロウの頭を撫でる。
「クロウ、一緒にトリックオアトリートしにいこーぜ」
「鳥?」
クロウは首をかしげる。学校も教育も何もないサテライトで暮らしてはいるが、鳥という言葉はクロウも知っていた。翼を持つ動物。何より、クロウがデュエルモンスターズで一番好きなモンスターは鳥獣族だ。漢字ではまだ書けないが、その意味は分かる。しかし京介はクロウの思考を見透かしたかのように笑って首を振った。
「違うよ、トリックオアトリート。ハロウィンしよーぜ!」
「はろ?」
また首をかしげ、クロウは言葉を探す。ハローなら挨拶だ。どこかの言葉であいさつ。それと鳥の何の関係があるのだろう。疑問を込めた眼差しでじっと見詰められた京介は耐えきれなくなった様子でシーツを片手で掴み、もう片手でクロウの手を取った。
「行けば分かる!」
わけはわからなかったが、クロウは頷き立ち上がる。
知らないことを知ることは怖くはない。京介が知っていることはたまに怖いけれど、面白いし楽しいことだと分かっていたから。だからクロウは今回も京介が引きずるシーツの端を掴んで、後に続いた。
京介がハウスにやってきてから、彼はいろんなことをみんなに教えて回った。些細な悪戯だったり、知っていて得するかどうかもわからない豆知識だったり、新しい遊びだったり。当然のようにデュエリストとしての腕も文句なしで、ハウスで一番強いジャックや、遊星とも互角に戦えるほどだった。珍しいカードも多く所持していた彼だが、鼻にかけることもしなかったから子どもたちはみんな京介が好きだった。子どもたちの母親代わりであるハウスの主、マーサと同じくらいに、好きだった。
京介がキッチンのドアを開けると、マーサが振り向く。その傍らにはアルミカップに入った、子どもの手には十分大きなカップケーキ。遠目にもふわふわと柔らかそうなそれを見つけた京介とクロウは、ぱっと大きな目を瞬かせた。
マーサは両手を腰に当て、きらきら光る金と銀の瞳を見やる。自然と零れた笑みは隠さずに。
「はいはい、何しにきたんだい?」
京介はにっと笑うとシーツを被り、勢いよくマーサに駆け寄った。シーツの端を掴んでいたクロウは引かれてよろめいたが、咄嗟に手を離して最悪の事態は免れる。
クロウが不満をぶつけようと上げた視線は、マーサに飛びつくシーツのお化けと化した京介の背中で固定された。
「トリックオアトリート!マーサ、お菓子くれないと悪戯するぞっ」
シーツのせいでくぐもってはいるが、京介の朗らかな声が告げる。マーサは小さく笑い、カップケーキを二つ手に取った。キツネ色の焦げ目の中央に砕いたナッツが飾られており、普段と比べて特別なものであることが分かるケーキ。
「はいよ、あんたの悪戯はとんでもないからねえ」
ばさっとシーツを脱いだ京介が、両手でケーキを受け取る。ケーキを掲げてクロウを振り向くと、クロウは目を輝かせて京介が被っていたシーツを拾い上げて同じように頭から被った。そのまま、おれも!と両手をあげる。
「マーサ、お菓子くれなきゃ悪戯!」
すこし小さくなったシーツのお化けの頭にぽんと手を置いて、マーサはテーブルから二つケーキを取った。シーツからクロウが出てくるその直前に、マーサが手にしたケーキの上に絶妙なバランスでもうひとつ、ケーキが置かれる。シーツから脱出したクロウは三つのケーキを見て喜びから手を上げ、小さな両手で受け取った。
「うまそう! すっげえうまそうー!」
「美味しいよ、あたりまえだろう?」
「よかったなークロウ」
マーサの前に一瞬伸びた小さな手の持ち主、京介はマーサの後ろでひとつ残ったカップケーキに食らいつきながら笑った。クロウはマーサと京介に笑みを向けながら落としそうなケーキをテーブルに置く。目線を彷徨わせた後に一番真ん中のケーキを手にしてかじりついたクロウを、マーサがさほど怒ってもいない声で「こら」と制した。
「座ってお食べ、忙しない子だねえ」
「ふぁい」
ケーキをくわえたままクロウが座ると、その隣に京介も座る。京介はマーサが用意していたテーブルの上のアイスティーを自身のコップに注ぎ、クロウのコップにはオレンジジュースを注いでやった。一つ目のケーキを飲み込んだクロウの前にコップを置くと、中身はすぐに空にされてしまう。
京介はまたジュースを注ぐ。クロウの髪と同じ色のジュースをたっぷりと。その笑顔が少し悪戯に光ったことに、クロウだけが気づかない。
「クロウ、うまい?」
「うめー!」
満面の笑顔のクロウを見てから、京介はマーサに目くばせする。マーサはその視線を受けて機嫌よく口を開いた。
「気に入ってもらえて良かったよ、南瓜のケーキ」
クロウが動きを止めた。瞬きの音も聞こえそうな沈黙の中で、京介が小さく吹き出す。続けてマーサも声を上げて笑い出した。
「……うそだぁ! かぼちゃって野菜じゃん!」
信じてたまるかといわんばかりに野菜の味なんてしない、とクロウは喚き、またケーキをかじる。かじりかけのケーキをのぞき込んでほのかに橙に色付いているのを確認した京介は頭の後ろで指を組む。
「それは人参な」
「うそだーっ」
ニンジンはこんなおいしくなかった!
言いながらも食べることはやめようとしないクロウを見て、マーサと京介は満足げだ。人参のケーキはクロウにとって絶品だったらしい。うんうん唸りながらも、また一口かじるとふにゃりと笑う。
その幼い素直な仕草に和みきった京介がアイスティーを口に含むと、マーサが不意に首をかしげた。
「ところで京介、あんた他の子たちには言ったのかい」
「あ、やっべ」
飲みかけのアイスティーをそのままに、京介はぺろりと舌を出した。わざとらしい態度に、マーサは呆れを隠さず息を吐く。
「あんたはまったく…分かりやすいねぇ」
「へへ……遊星とジャックにも言ってくる!」
「遊星とジャック以外にも言っておいで!」
はーい、と気のない返事を残して京介がひらひらと手を振りながら部屋を出た後、ケーキを口に押し込みながらクロウも席を立つ。相変わらず目がきらきらと輝いているのを見て、次の行動を予測したマーサは苦笑を浮かべる。
「おれも! いってくる!」
空になったアルミカップをゴミ箱に投げ込んで、オレンジジュースもきれいに飲み干してからクロウは椅子を飛び降りる。きょーすけ、きょーすけ、呼び続ける声は弾んで。
「本当に、分かりやすい子たちだねえ」
マーサは呟き、京介が放置していったアルミカップを片付けた。あのシーツのお化け達が約束を違えなければすぐにまた賑やかになる。マーサは微笑を浮かべながら改めてグラスの数を数えはじめた。
「きょーすけぇ、おれもいく!」
「そっか! じゃーみんなおどかしてこよーぜっ」
「まかせろーっ」
京介に追いついたクロウが並び、引きずっていたシーツの端を拾い上げる。ふたりがかりでシーツを抱えて、決して広くないハウスの廊下を歩く。立ち止まったのはドアの前。
「ジャックと遊星の部屋…」
ドアを指差し小声で確認した後、シーツを広げる。遮られた視界の中でもちゃんと京介の手がドアノブを掴んだ。
「よし、行くぜクロウ……せーの」
(トリックオアトリート!!)
↓そのまま成長してみた(おまけ)
「で、その話とこの状況と何の関係があるんだよ」
ベッドの上でだらしなく横たわるクロウの腹の上に、京介もまただらしなく体を伸ばして横たわる。二人がかりの十文字は斜めに傾いていた。
クロウが京介を押しのけようとするが、それに負けじと京介の手はクロウの手首をつかんで離さない。
「いや、思えば俺って一回もクロウから菓子もらったことねえなと思ってさ」
「いらねーだろ別に」
「いや欲しいだろ普通に」
あのころと比べて随分背も伸びたし、声も低くなった。京介は相変わらずクロウに何かと絡みたがるが、クロウは以前ほど京介の後ろを歩かなくなった。今日も京介が唐突にクロウのもとにやってきては、昔話を口実に会話を切り出している状態だ。
「クロウさん、リーダーはおもてなしを希望です」
「めんどくせえ。重い」
京介はわざとらしく唇を尖らせ、渋々と言った様子で起き上がる。かわいくねえ、と呟いたのを聞きつけたクロウも、同じ言葉を返して体の向きを変えた。
「じゃあ、こうしよう」
寝なおそうと目を閉じたところで、クロウの体は京介の朗らかな声と同時に横に転がされた。壁があったためベッドから落ちることはなかったが、派手に頭を打ち付ける。じんじ
んと後頭部から広がる痛みに呻きを洩らし、手のひらで頭を擦る。痛ぇ、と呟きながら舌を打ち、湧き上がった怒りを込めて犯人と思われる人物を見上げた。
「何すん……っ」
淡い光で透ける白の空間で、京介が微笑む。クロウが後頭部をさすっていた手を思わず止めてしまうと、そこに代わりといわんばかりに京介の冷たい手のひらが添えられた。京介の手はクロウの手のひら越しに、彼の頭をあやすように数度叩く。
「童心にかえって、シーツお化けで満足しようぜ」
「……遊星もジャックももうさすがに驚かねえだろ」
「ほら、ガキどもだっているだろ」
「ねーよ、さすがにもうねーよ」
京介の声がだんだんと囁く程度の声量に変わると、クロウの声も引きずられるように小さくなっていく。終いには耳を近付けないと聞こえなくなってしまい、クロウも京介も互いに身を乗り出した。
「俺はあり。満足」
「……そーかい」
クロウの頭の後ろにあった手が、今度は頬に触れた。クロウの手はシーツをはがされたベッドの上に落ちる。クロウがひとつ溜息をつくと、京介はくすくす笑って親指の腹でクロウの瞼を撫でた。促されるまま、クロウは目を閉じる。
ドアが閉まる音を聞きながら、京介は僅かに笑みを浮かべた。
「……何をしているんだあいつらは」
「相変わらず仲がいいな」
ジャックは顔を顰めた。寝床に続くドアは開きっぱなしで、ベッドの上で京介とクロウが暴れている光景が見えていたかと思いきや、いつの間にかシーツの塊が暴れている。しかしクロウか京介がベッドから転がり出てくることはなかった。
クロウは騒いではいるが、さほど嫌ではないのだろう。京介もそれが分かっているからこそクロウにしがみついていくのだ。
変わらないな、ジャックもそう思ったところで、ぱたりとふたりの声が声が止んでしまった。
ほほえましいな、と目を細める遊星の視線を、ジャックは咳払いをしながらさりげなく眼前のパソコンのモニターに映してやる。さほど疑問もなく作業に戻った遊星を横目に、ジャックは静かに寝室に近づき、ドアを閉めた。
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