Vジャン京クロ詰め合わせ2





 
 無手札の鬼神。そう呼ばれるだけの印象は、確かに決闘中を除いた彼にもある。どんな決闘にも決して顔色を変えず、それでいて決闘を評価する目は確か。
 クロウは宛がわれたD-ホイールの駐車スペースで、偶然にも隣に停車した件の男を見上げた。ちょうど、今日の決闘疾走で愛機に負荷はかかっていないか、確かめるべくしゃがみ込んだところだった。
 重そうなコートと、風になびいている間は気にならなかったが、随分な長さ、目にかかるほどの長さのある淡い色の髪。

「……黒き旋風」
 何の感情も見せない瞳は、まるで無機物のようにただクロウに向いていた。
 不気味な男だ。内心そう思い、クロウはやや不機嫌に眉間に皺を寄せた。彼が何の感情も込めずに口にしたのが、己の二つ名であったからだ。
「見せてもらった。お前の決闘疾走」
 案の定、降ってきた静かな声に、クロウは立ち上がる。立ちあがっても視線が向かう先は斜め上方で、それが余計にクロウを苛立たたせた。愛機の調子は好調だったに
も関わらず。
「あー。で?」
 D1GPの観戦中は気にならなかった部分が妙に突出して見える。苛立ちを隠すこともせず、そっぽを向いて腕を組む。とにかく、話だけは聞いてやる。そう示したつもりだった。
 しかし男、鬼柳京介は目を伏せ、何もなかったかのようにクロウの横を通り過ぎた。想定外の出来事に、クロウは慌てて手を伸ばす。慌て過ぎて、まるで縋るように両
手で鬼柳の腕を掴んで。
「っその先が肝心だろうがよ!」
 噛みつかんほどに歯をむき出したクロウを、鬼柳はどう見たのか。相変わらずの双眸は、何かを探すようにクロウの眼から、奥へとうつった。不自然な視線の移動に、クロウも背後に視線を映す。首を捻ったので、自然と、鬼柳の顔は死角に入った。
 途端、クロウの両肩に力がかかる。息をつめて受け身を取る直前に、クロウの背は
壁に打ち付けられた。
「テメッ…!」
 向き合った視線。先ほどまで色のなかった瞳に、途端に宿った色。薄暗く、それでいて人を惹きつける、妖しい煌めきは煉獄の炎(インフェルノ)。人好きのする笑みなど浮かべていない、だからだろうか、クロウは顔を背けられなかった。
「分かるだろう」
 何がだ。
 言い返すこともできなかった。コンクリートの冷たい壁についた背、頭の横、逃げ道を塞ぐように置かれた手。やや上から降り注ぐ視線の熱。瞳を焼き焦がそうとするかのように、一寸の狂いもなく真正面で捉えられる視線。
 決闘中には味わったこともない緊張感と、別のもの。
「クロウ・ホーガン」
 睫毛が掠めるのではないかと思うほどの、近距離。上ずった悲鳴を呑みこんで、クロウは何故か目を閉じてしまった。
 かたく目を閉じていると、ふ、と小さく風が流れた。さしていた影が消えて、かつり、硬い床を踏む音が聞こえる。はっと目を開けると、映るのはコートの背中。
「お、っい、コラ!」
 咄嗟に呼びとめると、鬼柳は足を止めた。
 クロウは踏みだしかけていたが、それ以上何を言うこともできず、腕を伸ばして中途半端に固まってしまう。呼びとめた理由は、彼の中にもなかった。鬼柳は振り返ることなく、クロウの状況を察したように言葉だけを返した。
「興味が湧かなければ、捨てている」
 右手に掴んだ何かを、床に落とす時の最小限の動作を肩越しに見せてから、鬼柳はまた歩き出した。クロウは開いた口を塞げず、立ち尽くすだけ。

「……分かんねえよ」

 呟いたところで、当分明確な答えはなさそうだ。










 決闘疾走者も、会場を離れD-ホイールを降りれば一瞬で町の市民に変わる。
 予選一日目を終えた彼らは今まさに、そうして羽を休めているところであった。

「おいコラ聞いてんのか鬼柳京介!」
「余分に鳴くな」
「泣いてねーよ!テメーの耳も目もおかしいんじゃねえのか!」
 クロウ・ホーガンは、とにかく何事にも怖気づかない青年だ。
 D1GPに参加を許されるほどの決闘疾走者で、絶対王者相手に啖呵を切るほどの度胸の持ち主。ガラは悪いが、誰にでも比較的朗らかに、片手を上げて挨拶をしてしまう程度には、社交的な青年。
 対して、鬼柳京介もまた、何事にも怖気づかない青年だった。
 決闘疾走者として、『無手札の鬼神』と異名がつくほどの印象的な決闘を展開し、そして勝利を着実に重ねている男。しかしクロウとは異なり、彼は決闘者相手とはいえその表情を和らげることはほとんどない。だからこそ、普段以上に通り過ぎる人々が振り返っているのだが、彼らは全く気付いていない。
 クロウが鬼柳の前に飛び出し、指を突きつける。
「ちぃーっとばかし!顔がいいだけだからな!決闘の時の歓声はオレの方が上だった!!」
「興味がない」
「ああああ!スカしやがってよテメーはよムカつく!!」
 鬼柳はクロウの指をすいと右手で押し避け、クロウを避けてまた歩き出す。クロウはまた随分と大げさに走って鬼柳を追い越し、先ほど以上に大きく振りあげた腕を斜め上、鬼柳の眼前に突き付けた。
「いいか!D1GPじゃ決闘疾走こそ全て!つまりだ!テメーも負ければキャーキャー言われることなんて……」
 また鬼柳がクロウを追い抜いた。先ほどより早足だ。しかしやはり、クロウも負けようとしない。同じように前に出て、今度は後ろ向きに歩きながら続ける。
「顔がいいからだからな!決闘は」
「話は、まとめてからにするんだな…」
 ぶんぶんと振られるクロウの腕を手で避けながら、鬼柳は更に歩幅を広げる。クロウも対抗して足を早め、くっ、と歯を食いしばった。歩幅のリーチが違うのだ。クロウは決して認めてはいないが。
「つまりテメーはオレが倒す!」
「1秒もかからない話だったな」
「テメーが最初から真面目に聞いてりゃな!」
 べっ、と舌を出すと、随分と幼い表情になる。鬼柳は眉根を僅かに寄せた。馬鹿にしてんのか。カチンと、クロウの中で何かが音を立てる。再度牙を剥こうとした、その時。
「お!?」
 がくんと身体が傾く。鬼柳の眼が一瞬で鋭さを増した、バランスを崩したクロウが瞬くと、視界は鬼柳の顔だけに切り替わる。見えていたはずの歩道の向こう側、暮れかけた空、全てを見失っていた。
「……前を、見て歩け」
 歩道橋の階段に差し掛かっていたことに、気が付かなかったクロウの身体は、本来であればその斜面に打ちつけられていたはずだった。しかし痛むのは強く掴まれた腕だけ。
 咎める低い声が随分と近い。そうして、背中を支えているものと腕の痛みの正体を知って、クロウは「あ」と声を上げた。
「え、え、その…悪ィ」
 クロウも唯一認めている、鬼柳の長所。
 こうしてほんの数センチで額がぶつかるほどまで近づいても、無表情な彼の貌には欠点が見つからない。強いて言うなら、目つきが悪い程度か。そんなもの。むしろ切れ長の眼は逆に、惹きつける要素にしかならないだろう。髪が頬を擽っていることに気付いて、ぷると首を振る。鬼柳もそれで気付いたのだろう、クロウの両足がしかと地面を踏んでいることを確かめて手を離した。労わるように、そっと。
「うわ」
 思わずクロウが漏らした声に、鬼柳は顔を顰める。クロウは両手で口を塞ぎ、熱くなった頬を腕で隠し、やや上目に鬼柳を見上げる。一段片足が階段にかかっているので、少しだけ視線が近い。
「……子守をさせるな」
 鬼柳は両手をコートのポケットに押し込み、静かに階段を上がっていく。クロウは一度は視線で彼を追った。足りない言葉をかけるため。
「おい!…その、まあ、サンキュ」
 足は止めたまま。鬼柳は足を止めることはしなかったが、進む速度は、緩やかなままだった。クロウは首を傾げる。
 そして、階段を一段飛ばして駆けあがった。あっという間に追いついた鬼柳の隣。クロウがいつものペースで階段を上がっていくと、ちょうど鬼柳と並ぶ。つまり、同じ速度で歩いているのだ。
 あまりにも珍しい偶然に、すっかりクロウは気を良くして、鬼柳の目的地など聞かぬままに口笛まで吹き始めた。鬼柳はちらとクロウを見たが、咎めることはしない。
 タイミングをずらして見上げた鬼柳の横顔は、やはり非の打ちどころなどなく。
「鬼柳、ハンバーガー食いに行こうぜ」
 大口を開けさせてやろうと企んだクロウの提案に、鬼柳は気付いたのか否か。しかし彼は悩む素振りも見せず、「構わない」と頷いたのだった。


 1分で終わるはずの会話が伸びた理由を、クロウはもう忘れている。はじめは『不動遊星』、二人の共通の好敵手の話題だったのだ。
 不動遊星を破るのは、自分。機嫌良く告げるクロウを徹底的に鬼柳が否定した。当然話は弾むことなく、やがてクロウの宣戦布告の矛先は鬼柳へと向かった。

 ――そして、冒頭へ至る。

 「興味がない」。
 幾度も繰り返された鬼柳の言葉に秘められた意味に、クロウは未だ気付く気配はない。

 クロウに好敵手として認定された遊星に、興味はない。
 確かに彼は好敵手として相応しい相手ではあるが、今話題にすることでもない。

 黄色い悲鳴を一身に浴びる事実に、興味はない。
 声援が力になるわけでもない。そんなことに張り合われても、鬼柳にとってはわけが分からないだけだ。



「ハンバーガー好きなんだよな〜うめえよな」
「そうか」
 
 興味がない、と。
 クロウ自身の話題では、彼は一度も、言っていないのだが。








 
 うるさい。黙れ。
 それ以上騒ぎ立てるなら考えがある。



 確かにその男はそう言った。勿論、クロウとてそれを聞き逃したわけではない。それでも構わずべらべらと喋り続けたのは、男の瞳に感情が現われたからだ。鬼柳京介の、ずっと覆い隠されていた感情を垣間見て「それじゃあ」と手を振ることなどクロウには出来なかった。
 決闘は嫌でも人物像を浮き上がらせる。そこにもほとんど何も見せない男のことを
知る術は、会話だ。とはいえ何がクロウをそうまでして彼の男に接近させたのか、クロウ自身にもはっきりとした答えは得られていない。
 だからこそ、今、身動きすら取れなくなってしまっているのだ。

「…んんぅっ、う」

 握った拳で叩く、コートに覆われた背中。無理矢理上向かされて反った喉の痛みに目を閉じると、合わせた唇の隙間からさらに深く入り込む、舌。
 一度歯を立てたそこから流れているのだろう血の味を嫌悪して首を振ろうとしたが、顎を掴んだ手が離れない。密着した体を引き剥がすのは困難。思いきり足を踏みつけても動揺すらせずに、鬼柳はクロウの口を完全にふさぎきっていた。







 試合を終えてさっさと消えた黒いコートを追いかけたのは、単純な興味からだった。実力のある決闘者達で、唯一独りでいたから。ただ、それだけのこと。

「独りじゃ寂しいだろ? 遠慮すんなよっ」

 路地裏。名を呼び続けたところで反応しなかった男に走り寄り背中を叩けば、鬼柳はようやく立ち止まり、顔だけをクロウに向けて無表情でこう答えた。

「オレは、一人でいるのが好きだ」
「はあ?」

 それは、面と向かって言うことだろうか。
 予想外の返答を受けて、クロウはつい後退った。この男、容易くは読めない。即座に察したせいで、クロウの思考は一度防御体勢を選んだ。

「……ぉ?…う?」
「だから構わないでいい。貴様のそれは、偽善だな」

 嘲るように付け足された言葉に、クロウは完全に笑みを消した。明らかな不愉快を滲ませて、立ち止まったままの鬼柳を見上げる。鬼柳は何を思ったのだろうか、表情を変えず、追いこむようにクロウへ言葉を突き刺し続ける。

「決闘者は敵だ。友人じゃない。倒すべき相手でしかない。時に、利用する相手でし
かない」
「…なんだよそりゃ」
「そうだろう。もしお前と決闘するのなら、オレは全力でお前をねじ伏せるだけだ」
「そんなんオレも同じだ」
「なら」

 放っておけと、言おうとした。そこへ付きつけられる手の平。ちょっと待てと、クロウは返した。

「それとこれとは別だろ。決闘者である以上、向き合うことは避けられねえ」
「必要ない」
「必要なくたって、決闘が全て教えてくれる。アンタがどんなやつか、フィールが巻き起こす風がオレに教える。アンタが拒んだって、絶対だ」

 クロウに取って決闘疾走は、唯一絶対の手段だった。生きるための、楽しむための、知り合うための、通じ合うための。決闘者として生きる、これ以上楽しい生き方があるだろうかと真剣に首を捻るほど。
 同じ生き方をしている、それだけで通じるものはどこかにある。例え異なっていても、交わることがなくても、ひとりで決闘は出来ない。

「決闘すれば分かる、決闘疾走すればわかる。アンタが嫌がったって、その瞬間、オレ達だけが通じ合う」

 握った拳を自らの胸に、クロウは鬼柳を見据えた。少年めいた眼差しが、決闘者のものに一瞬で切り変わる瞬間を、結果的に鬼柳は目にすることになる。

「そうまで嫌がられると、アンタ、オレのこと怖がってるみたいだぜ」

 鬼柳の目の色が変わった。カチリと噛み合った歯が擦り合って、明らかな怒りの形
相をつくる。動いた。動かした。壁を叩き壊してやった。クロウは唇の両端を上げる


「うるさい…黙れ」
「何か隠してるのか?単純にこっちくんなって言わねえでだらだらそれっぽいこと言って」
「それ以上騒ぎ立てるならこっちにも考えがある」

 硬い靴底が地面を打つ。近づいてきた顔を腕組みして精一杯背筋を伸ばして見上げ、ふふんと鼻で笑う。意地と優越の混じり合った心中から溢れる言葉が、火に注ぐ、水であるはずがない。

「だったら納得させてみろよ、オレは…」

 肩を押され、顰めた顔を強引に持ち上げられる。首筋を撫でて顎を掴む指は冷たく、腕組みを解く間に壁と鬼柳の身体の間に閉じ込められた。
 言葉が、口内に押し返される。何が起きたのか、見開いた目と唇の感触が受け入れた現実は、脳に染み渡らせるにはあまりにも非現実的。
 
「んぐぅう!?ま、ぁっ、…ぐゥ」

 一度は離れた顔が、また合わさる。先ほどよりも強く押しつけられた唇、抗おうと歯を立てたところで、痛覚などないと言わんばかりに逆にねじ込まれる異物。クロウは思った。時を止めて現実を拒否して止めた呼吸の存在を忘れていられる間に。
 人でなしとは、きっと彼のためにある言葉だ。

「ん…!」

 流れ込んでくる唾液を唇の端から押し出すが、まるで舌を絡め返しているようで、すぐに止めた。押し返すことを諦めた手が、引き剥がそうと背に回る。酸素を求めた身体がもがく。コートを纏った背中を、叩く。
 世界が揺れた。何か言おうと動かした唇が何を紡ぐこともなく終わっても、鼓膜の振動すら感じない。すっと体が浮き上がるか、逆に沈みそうな感覚。力の抜けた腕が、落ちきる前。

「うあ」

 ようやく放たれた声が、呼吸の再開を促した。壁を擦りながら座り込み、敗れるほど鳴る心臓を服の上から押さえつけ、ぶれた視界に収めた無表情を、睨みあげた。

「っに、…っぇ、う、」

 言いかけた台詞を呑みこんで、クロウは慌てて口内に必要以上に溜まった唾液を真横に吐きだした。シティの光が作った影。濃灰に色を変えたコンクリートを気にかける必要性などどこにもない。繰り返して吐きだし続けて、しまいには咳こんで、喉の奥のものまで全てその場に吐きだした。濡れた唇と顎を、グローブで拭う。
 
「な、に、何しやが、る…!」

 改めて見上げて投げつけた言葉。棘どころか刃を含んだ声音に、鬼柳京介は確かに微笑を浮かべてみせた。

「何でもないさ」
「あぁ!?」
「慌てることでもない」

 未だ赤い舌が、唇の端から覗いた。途端、頭に血が昇るのとよく似た感覚を覚えて、クロウは口を噤む。

「何を残すこともない。そういうことだ」

 鬼柳の靴の爪先が、クロウの顎を持ち上げた。即座に右手で払いのけるが、触れる前にその足は引かれてしまう。空を打った手が、握りしめられて止まる。

「オレは、オレを満足させる決闘があればいい。相手が誰であろうと構わない」

 もう、彼の瞳には怒りすらなかった。
 冷めきった目は、クロウすら見ていない。

「残せるものなら。残してもらいたいものだな」

 嘲笑。絶対王者とはまた異なる、誰を嘲っているのかも疑わせる、底の深い、深い嘲笑。けれど、口にしたのは希望だ。認めていないものを求める、あからさまな矛盾。

 立ち去る背中を見上げたまま、クロウは目を細めた。

「ああ…やってやるよ」

 そう投げかけながら笑みを浮かべていたことに気付いて、クロウは眉根を寄せた。口の中に一度広がった鉄くさい味も、違和感しかなかったはずの口付けも、確かに、もう残っていない。

「やって、やろうじゃねえかよ」

 決闘場に黒き旋風。嵐の後に、何も残らないことなどあってはならない。


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