親友の一人が無言で渡してきた真っ白な卵を手に、鬼柳は一人唸っていた。ずしりと手に感じる重さからすると中身は詰まっていそうだ。夕飯前の鬼柳にとっては非常に魅力的である。しかし、これをフライパンの上で割るわけにはいかない事情があった。
大事にしてくれ、と。
めったに鬼柳のもとを訪れない親友がほのかに笑ってそう告げたものだから、その言葉の意味を分かってやれるまでは我慢だ。心の中で呟いて、卵はひとまず、使い古したクッションの上に置いてみる。もらいもののきっぱりした橙色のクッションの中央に収まった卵は、黒中心にまとめた鬼柳の部屋にはなんだか不釣り合いに愛らしい。
「ヒヨコでも生まれんのか?」
育てる余裕なんてねえぞ。そう苦笑して、卵をつつく。
返事をするように卵が震えた気がして、触れていた指を慌てて離した。
「まじかよ」
内側から、こつこつと卵を叩く音。少しずつヒビが入っていく。しかし割れ目から覗いたのは、くちばしでも、鳥の足でもなくて。
鬼柳が目を疑い、うそだろ、と呟いたその直後。
卵の中にいた小さな少年が、隙間から見えた手をぐっと握って、殻を吹き飛ばすように伸びをした。背中の黒い翼をゆっくりと広げながら。
卵から出てきた手のひらに乗るほどの少年は、まさに生まれたての姿でクッションと同じオレンジ色の逆立った髪をくしゃくしゃかき混ぜて、眠そうに目元を擦った。そのまま後ろに転がってしまいそうになったので、割れた殻が危険だと判断した鬼柳が慌てて指で背中を支えてやると、灰色の瞳を見開いて鬼柳を見上げる。
指先から伝わるのが人間らしい体温であることに驚くと同時に、翼もその背から生えていることを確かめた。ヒヨコにしては成長が早いなどと考えてみて、いやいや、と首を振る。
「ヒヨコ人間?」
言葉がわかるのだろうか、少年はそれを聞いてむっと眉根を寄せた。抗議するように両手を伸ばしてぴいぴいと鳴きはじめる。主張するように羽を動かしたので、今度は鬼柳が眉根を寄せた。
「黒いからカラスか?」
こんどは少し嬉しそうな顔をする。相変わらず口を開けばピイとしか聞こえないが、表情があるだけで随分と分かりやすいものだ。割れた殻を綺麗に片づけて一番小さなハンカチを引っ張り出して渡してみると、人型のカラスは両手を広げてハンカチに飛びついた。
☆☆☆
「きゅーりゅ」
「鬼柳」
「きゅ、きーりゅ」
鬼柳と少年、双方の合意を得て少年にクロウという名が付いてから、随分と状況が変わった。
人間の子供らしく、テレビや鬼柳の発言から彼はどんどん言葉を覚えはじめたのだ。まだたどたどしいが、覚えは早い。最近までは「まま」と呼ばれていた鬼柳のことも、本日中には「鬼柳」と呼ぶことができそうだった。
犬がしっぽを振るように羽を揺らすと実に愛らしい。
緩む頬を抑えることもなくもう一度ゆっくり「鬼柳」と繰り返すと、小さな声で「きりゅう」と一言返された。
朝起きたら、クロウが消えていた。
慌ててあたりを見回すと、薄く開かれた窓。
最近クロウの羽が育って、少しの距離なら飛べるようになった。少しといっても俺の部屋はせまいようで、壁から壁まで飛んでは俺の周りをぐるぐると飛び回って、狭い狭いとわめくほどには飛べるらしい。
慌てて窓を開いて外を見るけれど、何も見えない。
「クロおぉおっ!」
血の気が引いた。半泣きになって呼んでみる。俺の手のひらに乗るくらいの大きさしかないクロウ。外のことなんて何も知らないクロウが、外に出て行ってカラスにつつかれていたりしたら、いや、野良猫に襲われてたりしたら!
「呼んだか、鬼柳?」
ばさ、と羽ばたく音。窓から身を乗り出した俺の背中に、クロウはぺたりと貼りついてきた。
何をする気力もなくなった俺が床に座ると、クロウは俺の脚の上にちょんと止まった。遊星がどこからか調達してきてくれた少年らしい小さな服がよく似合う。俺は笑みを向けて、人さし指で頭を撫でてやる。最近力加減がわかってきたからか、こうしてやるとクロウは至極嬉しそうに笑うのだ。
けれど今回は嬉しそうに顔を上げた後、途端に表情を曇らせてしまう。
「どうした?」
「……鬼柳、ばななは甘かったよな」
「ああ、お前気に入ってたな。まだあったろ?」
黄色に黒の斑点、クロウが好きそうな色合いだからと買ってきて、与えてみたのは2日前のこと。両手で白っぽい果肉をしっかと抱えてせっせと口を動かす姿は鳥とは当然違っていて、観察する俺の夕飯も昨日はバナナだった。その俺がしっかり、ラスト一本に手をつけていないことを覚えているんだから間違いない。
案の定、机の端にはバナナが一本。
「苦かった」
「え?」
「味違え……」
べ、と舌を出して悲しそうな顔。まさか腐ったかとバナナを手にとって、俺は見つけた。
バナナの皮に、小さな歯型。
こんな歯形をつけられるのは、この部屋にたった一人。一羽。いや一人。
「おま……!」
耐えきれず笑った。クロウは突然大声をあげた俺に驚いて部屋の隅まで飛んでいく。俺は笑いながら、バナナの皮をむいてやった。
「ほら、これだろ」
「すげえ! 出てきた!」
白に近いその先端を差し出してやると、クロウはまた羽ばたいて飛んできた。とっ、と軽くテーブルに着地して、ご機嫌に先端にかじりつく。半分くらいまで向いた状態で置いてしまうのもなんだか気が引けて、俺がバナナを持ってやったまま。
「バナナは皮剥いて食うんだよ、お前見てなかったか?」
「そういや見てた、気も、ふる」
「食ってから言え」
口いっぱいにバナナを詰め込むクロウは幸せそうだ。
でもこんなに小さいとバナナの皮なんて一人で剥けないだろう、そう思うと少しつらくなる。
俺と同じものを食えるっていうのに、こいつは好きなものを好きなようになんて、食えないんだ。
「もう少し大きくなんのかな、お前」
クロウはきょとんと俺を見る。子供みたいな大きな目。くりっと首をかしげる様はちょっと鳥っぽいかもしれない。人差指で撫でてやりながら、俺は一人ごちる。
「もうちょっと、なあ?」
クロウはわけがわからないと言うように顔をしかめて、またバナナを減らす作業に戻ってしまった。
ぎゅっ。
効果音をつけるなら、これで決まりだ。
外出しようと重い腰を上げた俺に飛びついてきたクロウは、今俺の左の腕にしがみついている。
せめて背中に張付けば楽なのに、何を思ったか半袖で露出した左腕に飛びついてきたクロウ。落ちそうになって足をバタバタさせていたから、腕を水平にしてやった。ほっと一息、って顔で俺の腕に頬を乗せる。クロウがいる部分だけが少し温かい、この感じが、何と言ったらいいのか分からないのが残念だ。
「行くな鬼柳っ」
ぎゅーっと俺の腕に抱きついて、切実な声。
ぎゅーっと俺の胸が締め付けられて、唇が震える。
おかしい、いつもなら「出かけるならあれ買ってこい」とはしゃいで飛び回るクロウが、真黒な羽をたたんで俺を引き留めている。好物のバナナもハンバーガーも大福も家にある。食べたがってたイチゴもラーメンもサンドイッチも食わせてやったし、こう言っちゃ切ないもんがあるが、俺がいなくても困ることはないはずだ。
「いくなぁ」
小さい頬を擦り付けてくるクロウのセリフは変わらない。
上着を取りに行くこともできず、俺はクロウの頭を撫でてやる。人差指でそっと、オレンジのちくちくした毛をふわりとかき混ぜてやってから、同じくらいそっと問いかける。
「……どうしたんだ?」
クロウの羽が震え、ちら、と俺の方を見る。大きいけれど小さな目。
「バナナ」
「ん?」
唇を尖らせて、震えていた羽を振った。クロウはしがみつかなくてもバランスが取れることに気付いたらしく、右腕をあげて指をさす。テーブルの上。
「バナナ剥いてから行け」
「……はは」
ちょっと一瞬だけ怒らせてくれ。
この生意気不思議生物め。
でも小さなクロウを肩に乗せてバナナを剥いてやれば、すぐ耳元で元気にはしゃぐ声が聞こえてきて、それで満足しちまったなんて俺って実は相当安い男ってことなのかもしれない。
「ただいまー」
返ってきた途端、顔面に向かって飛び込んでくるクロウを片手で受け止める。つぶさないように羽をよけて腰のあたりから握って、もう一度、ただいま。
「おう! お帰り鬼柳!」
生意気なやつだが、にかっと笑ってお帰り、は心の底からありがたい。何でもない外出でも、帰った瞬間に大冒険、ってくらいの気分だ。
クロウは外に出たいとは言わない。利口なこいつは、自分が外をぶらぶらしていてはならないときっと理解しているんだと思う。だから俺も誘わない。ポケットの中に押し込めたって、かばんの中に潜らせたって、そんなのクロウは望まない。それなら、思いっきり歩かせてやりたい。できるなら飛ばせてやりたい。
土産に買ってきたポテトチップスはコンソメ味。いつの間にか文字が読めるようになったクロウが、コンソメってなんだと問いかけてくる。
袋を縦に開いてやると好奇心のゲージが限界を超えたのか、開いたばかりの隙間からクロウが顔と手を突っ込んだ。こりゃ、後でべったべただな。
「うめぇ!」
がばっと上げた顔がべたべたでも、両手にしっかり捕まえたポテトチップが顔より大きくても、きらきらした目が俺を見上げたらそれだけでこっちも満足だ。
得意じゃないが、コンソメスープでも作ろうか。
そうだな、そうしよう。未だにクロウが苦手な人参刻んで入れてやろう。
「コンソメ記念日にして満足しようぜ!」
「なんだそれ?」
立ちあがり拳を振り上げた俺を見上げて、クロウが首をかしげた。
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