クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
2025 / 12   «« »»
01
M
 
02
T
 
03
W
 
04
T
 
05
F
 
06
S
 
07
S
 
08
M
 
09
T
 
10
W
 
11
T
 
12
F
 
13
S
 
14
S
 
15
M
 
16
T
 
17
W
 
18
T
 
19
F
 
20
S
 
21
S
 
22
M
 
23
T
 
24
W
 
25
T
 
26
F
 
27
S
 
28
S
 
29
M
 
30
T
 
31
W
 
meaning of mark :: nothing , comment , trackback , comment and trackback
Counter
total : 1419180
yesterday : 084 / today : 040




Profile
インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。

Menu

RSS & Atom Feed
クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
RSS1.0 / RSS2.0 / Atom0.3
残念な話
RSS1.0 / RSS2.0 / Atom0.3
悲しい話
RSS1.0 / RSS2.0 / Atom0.3
心あたたまる話
RSS1.0 / RSS2.0 / Atom0.3
感動した話
RSS1.0 / RSS2.0 / Atom0.3
泣ける話
RSS1.0 / RSS2.0 / Atom0.3

Pickup Photo!

Recent Diary

Recent TrackBack

Recent Comments
2012/05/23
貴方と縁あり菅野の人になったのは昭和7年の10月9日でした。そして、お別れしたのが昭
和19年6月14日の朝4時、2人の子を連れ神社までの見送りでした。そして貴方は、背中の
子の頭を撫でながら「お父さんが帰るまで大きくなっておれよ。」の言葉を最後の言葉と
して自転車で出征して行きました。夕方、兄が主なき自転車を持って来てくれた時、私に
はもう生きては帰る事のないと心にピンと来ました。それから私の務めと思い昼夜働き、
家や子供の心配をしている貴方に一日置に日記を書き送り続けました。昭和20年1月15日
干柿を紙に包み局まで持って行きました。3月15日に便りあり、「柿を有難う。故郷のゆ
かしき風味を味わう事が出来非常に嬉しい。どうか3人の子を真面目な子に育てて欲し
い。どんなに借金をしても構わない。自分が帰ったら働いて払うからどうか怪我や病気を
しない様に育ててくれ。宜しく頼む。 戦場の夫より 愛しき妻へ」と最後の便りとなり
ました。それから戦は激しく6月14日に沖縄戦は終わりました。戦は終わり54年の月が流れました。今日ここに貴方の子、孫、曾孫、妹達を連れてお墓参りに参りました。
私にとってはもう最終となります。そして最後のお願いがあります。それは貴方の命がた
ゆる日に私を迎えに来て頂きたい。何卒それだけが私の願いで今でも待って居ります。今
はもう、私の務めも終わりました。貴方は何時も私達を見守り助けてくれて居るのを知っ
ております。唯、感謝しております。子も孫も立派になりました。見て下さい。何かと下
手な字で書きましたがこれでペンを置きます。どうか安らかにお休み下さい。これは31才
から86才の今日まで、自分の歩んで来た思い出の一部です。笑わないで下さい。自分とし
ても恥ずかしいのですが沖縄に永久に眠る主人 征夫様に贈る言葉です。 貴方に生きる
妻 貞江より 平成10年11月4日
posted at 2012/05/23 0:01:42
lastupdate at 2012/05/23 0:01:42
修正
comments (0) || trackback (0)
 
2012/05/26
あたしが初めて体を売ったのゎ15才・中学3年の時。俗に言う援助交際。それゎ高校2年ま
で続けた。退学して18才になってすぐに風俗に足を踏み入れ1年4ヵ月目。まだ風俗して体
売ってる。体を売ったお金を毎月お母さんに渡してる。そんなお金って知らないよね。片
親だからもぅお母さんにお金の苦労させたくない。汚い稼ぎ方したお金で御免ね。お母さ
んが痛い思いして産んでくれた体売って御免ね。私、出来損ないで御免ね。体ゎ売ってる
けど心ゎ売らないから。もぅ少ししたら風俗きっぱり辞めるから。こんな私が娘でごめんなさい
posted at 2012/05/26 0:02:27
lastupdate at 2012/05/26 0:02:27
修正
comments (0) || trackback (0)
 
2012/05/29
ある有名なカメラマンがいました。
そのカメラマンが某国の戦場に出向いて写真を撮りに行きました。

そこで今まさに子供が打たれようとしている所をカメラマンが発見。
でも子供は気付いていない。
絵的には子供を狙っている兵士という、戦場カメラマンにはチャンスでした。
しかし彼はカメラマンである事を放棄して子供をかばい、
打たれて死んでしまったのです。
そのときに偶然、投げ捨てたカメラが子供をかばって打たれる寸前の
彼を捉えていた。

それが彼の撮った最後の写真となりました。
posted at 2012/05/29 0:00:21
lastupdate at 2012/05/29 0:00:21
修正
comments (0) || trackback (0)
 
2012/05/30
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、
どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。

ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。

「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」 こっそりと中を読んでみたら、
「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
と書いてあったそうだ。
旦那は去年、交通事故で他界した。
字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・
受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。

「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ〜」
最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。

娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。
posted at 2012/05/30 0:00:16
lastupdate at 2012/05/30 0:00:16
修正
comments (0) || trackback (0)
 
昨日、パッとしない女と話したんです。ほんとパッとしない女。
そしたらなんかめちゃくちゃ好きな人ができたらしいんです。
で、よく見たらなんかほんのり化粧してて、アイラインとか引いてるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前な、好きな人ができたぐらいで普段してない化粧なんてしてんじゃねーよ、パッとしないんだから。
つくりの問題だよ、つくりの。
なんかリップも引いちゃってるし。女の子らしくメイクってか。おめでてーな。
ちょっとは見られる顔になったでしょ、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前な、鏡やるからその化粧落とせと。
パッとしない女ってのはな、すっぴんでいるべきなんだよ。
席替えで隣になった男子からボロクソ言われてもおかしくない、
私は女を捨ててます、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。ピエヌだのメイベリンだのは、すっこんでろ。
で、やっと話がそれたかと思ったら、はぁ〜恋って切ないね、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、お前にはそんなもん必要ねーんだよ。パッとしないんだから。
得意げな顔して何が、恋は切ないね、だ。
お前は本当に恋をしているのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、恋してるって言いたいだけちゃうんかと。
情報通の俺から言わせてもらえば今、お前のアノ人には、
カワイイ恋人がいるんだよ。残念だったな。
気付かず本命チョコでギョク砕。これがパッとしない女のコクり方。
手作りのチョコに、告白カード。これ。
で、実は彼女がいることを知ってあぼーん。これ最強。
しかもカード付けると、実は義理だったなんて言い訳できない。
パッとしない女にはお薦め出来ない。
まあお前みたいなブス女は、早いところオレの気持ちに気付けってこった。
posted at 2012/05/30 0:00:16
lastupdate at 2012/05/30 0:00:16
修正
comments (0) || trackback (0)
 
2012/06/01
昨日も見舞いに行ってきたんだけど,子供の頃からもう20年以上世話になっている
叔母さんがね,末期の食道ガンで年越せるか越せないかって状況なんだ
その叔母さんの話させてもらうね

その叔母さんね,まったく血の繋がってない中学生の孫娘がいるんだ
叔母さんが結婚した相手が再婚だったのでその時に連れてきた娘の子がその孫ね
で,ここまではまぁよくある話なんだろうけど
普通とは違うのは,その孫娘の母親がね離婚しててしかも生活保護受けてて
何度も入退院を繰り返すぐらいの精神病らしいの
無論,そんな母親に一人で育児なんてできるわけなくて
叔母さんがその子の母親代わりになって育てたんだって
小さい頃はパートに行く自転車に孫娘を乗せて保育園に通わせてたらしい
当然,その子は世に言うおばあちゃんっ子どころかおばあちゃんが母親以上の存在なんだ

それで,最近の話なんだけど,その孫娘は実の母親(精神病の人ね)と暮らしてたんだ
でも,先月かな,母親が娘に暴力を振るったらしくて,近所からの通報を受けて駆けつけた児童相談所に
その孫娘が施設に連れて行かれたのね,本来なら孫娘も相談所の指導員に叔母さんのこと話して
叔母さんの家にいけばいいはずなのにそうしなかったんだ
で,叔母さんと叔父さんが施設に迎えに行ったらね,こう言ったらしいんだ
「ばあちゃんの迷惑になるから,ここにいる」
これすごいよね?
もうすぐ死んでいく母親以上の人のそばに居たいに決まってるはずなのに,自分がいることによって
実の母親がきたりして,迷惑がかかるから児童施設に残るって言うんだよ
これ聞いたときね,孫娘の健気さにも感動したんだけど,それよりも
叔母さんが血の繋がってない孫娘をこんなに強く育てたことに感動したんだ
叔母さん,自分では子供を産まなかったけどこんな強い子残して逝くんだな・・・って
posted at 2012/06/01 0:02:45
lastupdate at 2012/06/01 0:02:45
修正
comments (0) || trackback (0)
 
2012/06/05
昔、付き合っていた彼女が精神的不安定で自傷癖や不眠症をわずらっていて、
その彼女のストレスがいつも俺に向けられた。いつしか俺もそんな彼女と一緒にいるのが
嫌になり、別れ話をきりだすことになった。彼女のことは好きだったけど
俺も若かったし、もっといろんな可能性を夢みていた。
俺が別れ話を切り出すと彼女は意外とあっけらかんとしていて「私も別れようって思ってた。」と言った。
俺はその時ちょっと安心して彼女の家を去った。帰りの電車の中でいままでの彼女といた3年間の出来事を思い出していると涙が出た。
彼女も同じ気持ちだろう、俺に気を使ってあんなに気丈に振舞っていたに違いないと思うと
ほんとに彼女に申し訳ないことをしたと思った。
今は俺も30になって結婚もしている。俺のかみさんは今はもう元気になって精神状態も安定して、
お互い幸せに暮らしている。
あの時電車を途中で降りて死のうとしていた彼女のもとに戻らなかったらどうなっていただろうとふと考えることがある。
posted at 2012/06/05 0:07:58
lastupdate at 2012/06/05 0:07:58
修正
comments (0) || trackback (0)
 
2012/06/08
保育園の時です。
ちょっと貧乏だった私の家は、共働きでした。
保育園は3時に終わるのですが、親が仕事などで迎えに来れない子は
保育園が延長保育で見てくれていました。
私を含め、10人くらいいました。
みんなで運動場でゲームをやったり、遊具に乗ったりして、迎えが来るまで過ごすのですが、
夕方になるにつれ、だんだん迎えがきて
最後は私と2人の先生だけになりました。
私は子供心に
「私だけまだ居て、先生に悪いなぁー」とか
「もう、母さんこないのかなぁ」とか、考えてました。
なんだか寂しくなってきたころ、ふと外を見ると「ヨシーっ!ヨ〜〜〜〜〜シっ!」
夕焼けで真っ赤に染まった道路の向こうから、
母が自転車に乗ってやってきました。私の名を呼んでいます。

あの時の母の呼び声と、夕焼けの赤さと、先生の優しい顔が
脳裏に焼き付いてます。
その光景を思い出すと、なんだか涙ぐんでしまいます。
ただの日常的な光景なのにね・・・
posted at 2012/06/08 0:00:01
lastupdate at 2012/06/08 0:00:01
修正
comments (0) || trackback (0)
 
2012/06/09
新聞に掲載された、画家、原田泰治さんのインタビュー
(この人は小児マヒのため右足が不自由です)
「小児まひの子をもったといっても、父ちゃんは絶えず前向きでした。
遠足とか修学旅行には、学校に反対されても必ず連れていってくれました。
同行です。旅館でまくら投げをするとか、ふろに一緒にはいるとか・・・、
感動はそんな体験をさせなければわかんないって。中学の修学旅行では、
校長とやり合い、「先生」の資格で行った。おれをおんぶしながら、
6、7人のグループを任されました。京都や奈良では他校の生徒とすれ違うんですが、
足の悪い子と行き会わない。
「みんな置いて来られたんだ。障害者の子どもはいるはずだ」って言うんです。
でも、家に泣いて帰っても助けてくれず、逆に「やっつけてこい」でした。
「それには、お前、応援してくれる友達がいなければ勝てない」と。
自分なりに考えて、ちょっと絵が好きだったから、包装紙の裏などを使った教科書
のカバーに絵をかいてあげたりした。仲良くする方法を自分で考えていくわけです。
知恵を生かすように仕向けてくれました。

父ちゃんは甘やかす部分と、厳しい部分をしっかり分けていました。
「人に好かれろ」「反発してたら、生きていけないよ」と言っていました。
困っときには「助けてくれ」「おんぶしてくれ」と、素直な気持ちを伝えなければ
ダメだってね。一般の子どもたちと同じように育てることが、
社会に出ていける原点だっていうことを知っていたんじゃないでしょうか。
父ちゃんの生き方、育てかたが、今の僕につながっているような気がします。
木琴が買えなくて、先生が貸してくれた紙の木琴を使っていたことがありました。
父ちゃんは入植した農地に水を引こうと横井戸を掘り進んでいて、
一番苦しい時期だったんです。それでも、劣等感を持たせたくないと、
女の子から木琴を1週間借りてきて、手作りで木琴を作ってくれたんですよね。
後ろにノコギリで筋を入れて、音も合わせてくれました。
看板行やってたから、器用だったかもしれないけど、心がなかったらできないですよ。
今も宝物として大切に持っています。

ひとり娘が出来たときには、僕も絵本を作りました。
父ちゃんが見せてくれたように、
生きているんだというところを見せたいと思っています。
アメリカに行くときも、娘を連れていきました。
とうちゃんは2年前に亡くなったけど、不思議とあまり悲しくない。
いまも、父ちゃんと絶えず会話をしているような気がするからです。」
posted at 2012/06/09 0:14:49
lastupdate at 2012/06/09 0:14:49
修正
comments (0) || trackback (0)
 
祖母が弱ってきて、寝たきりになった時、遊び盛りだった私は
見舞いにも行かなかった。
母から、もう何もわからなくなってしまって意識もない、いよいよだと
聞かされて、さすがに心苦しく思い顔見せに行くことに。

病室に入ると、やせ細った姿の祖母がいました。
母に「手にぎってあげなさい」といわれ、そっと握ると
意識のないはずの祖母が手を強く握り返してきて、目からは涙が・・・

握った手のぬくもりから、幼い頃手をつないでいろいろなところに
連れて行ってもらった記憶か蘇って号泣してしまいました。

祖母がなくなったあと、遺品の中からスケッチブックが。
まだ意識のあった頃に病室で書いたと思われるそれには私や、孫たちの絵で埋まっていました。
posted at 2012/06/09 0:14:49
lastupdate at 2012/06/09 0:14:49
修正
comments (0) || trackback (0)
 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル