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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。
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2012/06/29
[泣ける話]
これは俺が3〜4年前の夏、イタリアのローマで体験した話です。
俺は大学でイタリア文学を専攻していて、大学4年の時に休学して半年間ローマに留学してたんだけど、その時にローマの郊外にある、エウルっていう穴の開いたチーズみたいなビルを1人でブラブラ見に行ったんだ。
直射日光が凄くてめちゃめちゃ暑い日だったんだけど、ビルが建ってる所が高台になってて、街が見渡せて涼しい風も吹いてたから、建物の影になってる所に座って一服しながら景色見てたのね。そしたら、ちょっと前まで誰もいなかったんだけど、いきなり3つ揃えのスーツをバシッと着た小さい90ぐらいの爺さんが俺の肩を後ろから叩いて、「よう!ロベルト、久しぶりだな!」って声かけてくるんだよ。俺も、不意打ちだった
もんだから、一瞬ビクッとしたんだけど、すぐに人違いかなと思って、その歳の割には元気のいい爺さんに
「あの、人違いですよ。ぼくは日本人ですし、ロベルトという名ではありません。」ってキッパリ言ったの。
そしたら、爺さんの方は、凄い嬉しそうな顔して「やっぱりロベルトじゃないか!」って益々大きな声で言いだしたんだ。俺は、いよいよこのジジイぼけてんのかな?って思ったけど、まとわりつかれても嫌だなと思ったから、「だから、ロベルトじゃないって。普通の日本人はそんな名前じゃないよ!」って言ったら、爺さんは笑いながら「そんな事は知ってるわい!」みたいな感じで事の経緯を話しだしたんだ。
以下、俺と爺さん談(イタリア語だったので、それっぽい口調になおしました。)
爺「もちろん、君の本名がロベルトじゃないって事ぐらい知ってるさ。君は見たところ日本人っぽいし、わしは今年で92になるが、まだそこまで耄碌してないつもりだよ。君は昔、イタリアとドイツと日本が戦争で同盟を結んでいたって事を、学校かどこか勉強した事があるかね?」
俺「もちろん、知ってますよ。僕だけじゃなく、日本人なら大抵の人は。」
爺「よろしい。わしは第1次、第2次と2つの世界大戦に最初から最後まで海兵として従軍したんだが、当時はドイツや日本からこの地に派遣された、若い将校や外交官なんかと親睦を深めるためによくつるんで飲みにいったりしたもんだ。お互い、言葉も文化も違うが、当時の我々にとっては、そんな事は大して重要じゃなかったし、とにかく共通の敵がいる味方どうし、若かったってのもあるが大いに盛り上がったもんだ
よ。そして当時は、わしらみたいにつるんでた連中は、イタリア兵もドイツ兵も日本兵もみんな、お互いを親愛の情をこめてロベルトって呼びあったもんさ!」
俺「はぁ…。でもまた、なんでロベルトなんっすか?」
爺、にっこり笑って「わからんかね?ロベルト(ROBERTO)というのは頭文字を合わせたものさ。
3国の首都 ローマ(ROme)・ベルリン (BERlin)・東京(TOkyo)の。だから、君を見かけた時、
日本人じゃないかと思ってロベルトと声かけたってわけさ!」
俺「へぇ〜。なんか歴史を感じる話っすね〜」
爺、急に笑顔から一変して渋い表情で「ところで、君のご家族やお知り合いの方で、第二次大戦に従軍された方はいるかな?」
俺「うーん…。祖父は従軍しましたけど、もうとっくに他界したし… あ!親戚の爺さんでまだ1人生きてますよ!」
爺「そうか、そしたら今度あった時には、イタリアが途中で戦線を放棄したことに関しては、本当に遺憾に思っており、わしの人生においてただ一点の心残りであり、日本の皆さんには謝っても謝りきれない事をしたと思っている。と伝えてくれ。」と目に涙を溜めながら、俺に訴えてきた。
俺「うーん、今さらそんなに怒ってる人もいないんじゃないかなぁ?あの小うるさかった俺の祖父でさえも、イタリアの事で、ぼやいてた事は一度もないし…。」
爺「我々はあの時、誓って誰一人戦線を放棄したいと思ってる奴はいなかった。わしの海軍部隊では政治的に戦争が終わった時でさえ、皆悔しさに泣き、同盟国を見捨てるのかと、誰もが断腸の思いだった。拳銃で自殺をしたものだっている!でも、わしはあの時何も出来なかった…。昨日まで、同じテーブルで酒を飲み、ロベルトと呼びあい、同じ敵を蹴散らそうと雄叫びを上げあった仲にも関わらず、同盟国の戦況が日に日に
悪くなっていくのが、ラジオで伝えられようと、何も出来なかったんだ…。特に、日本の方々が最後まで意志を貫かれているという報道を聞くたびに、どれだけ5体が引き裂かれるような思いがしただろう。だから、日本の方々には戦線を離脱した腰抜け、裏切り者と思われても止むを得まい。
そして、イタリア人は、ちゃらついて女の尻を追いかけるだけの、軟派者と思われているかも知れない。
しかし、その後の半世紀以上、わしを含めた海兵全員は一日だってその事を悔いなかった事はないのだよ…。
だから、君のお知り合いには、是非すまなかったとお伝えください…。」
そういうと、爺さんは年甲斐も無く泣き崩れた。そしてよく見ると爺さんの胸には、会社の社章のような
小さいもので気付かなかったが、古びたイタリア海軍の所属部隊のバッジが着いていた。そして、急な展開に戸惑った俺は、「わかりました、今度会ったら必ず伝えておきます。」とだけ言って、挨拶をしてその場を去り、また炎天下の中に戻っていった。今まで、不思議ととても涼しく心地よかったのだが、その場を離れた
瞬間また砂漠のような猛烈な暑さに見舞われた。そして数メートル進んだ後、爺さんが何だか気になって振り向くと、このテの話にありがちだが、もうそこには誰も居なかった。その爺さんが、幽霊だったかどうかなんて、今となってはわからない。ただ俺は、爺さんと最後に交わした挨拶を思い出して少し、変だなと思った。
爺「ここにいれば誰か日本の方が来ると思って、ずっと待っていたが、わしの話を聞いてくれた人はどれくらいぶりだろう。皆、わしがまるで見えないかの様に、無視をして立ち去ってしまうのだから。ありがとう。」
俺「いいんですよ。でも、ここよりもっと街の中心の観光スポットに行った方が、日本人はいっぱいいるんじゃないですかねぇ。コロッセオとか。それでは、お元気で。」
後日帰国して、久方ぶりに、家で寝たきりになって殆ど誰とも口をきかない親戚の爺さん(元海軍)を訪ね、その話をした。爺さんは、何も言わず、ただ目に涙を溜めていた。そして、その話を聞いた1週間後に老衰で他界した。世話をしていた従姉妹によると、俺が会った後の1週間は爺さんが妙に明るく、皆に積極的に話しかけてたと言う。
俺は大学でイタリア文学を専攻していて、大学4年の時に休学して半年間ローマに留学してたんだけど、その時にローマの郊外にある、エウルっていう穴の開いたチーズみたいなビルを1人でブラブラ見に行ったんだ。
直射日光が凄くてめちゃめちゃ暑い日だったんだけど、ビルが建ってる所が高台になってて、街が見渡せて涼しい風も吹いてたから、建物の影になってる所に座って一服しながら景色見てたのね。そしたら、ちょっと前まで誰もいなかったんだけど、いきなり3つ揃えのスーツをバシッと着た小さい90ぐらいの爺さんが俺の肩を後ろから叩いて、「よう!ロベルト、久しぶりだな!」って声かけてくるんだよ。俺も、不意打ちだった
もんだから、一瞬ビクッとしたんだけど、すぐに人違いかなと思って、その歳の割には元気のいい爺さんに
「あの、人違いですよ。ぼくは日本人ですし、ロベルトという名ではありません。」ってキッパリ言ったの。
そしたら、爺さんの方は、凄い嬉しそうな顔して「やっぱりロベルトじゃないか!」って益々大きな声で言いだしたんだ。俺は、いよいよこのジジイぼけてんのかな?って思ったけど、まとわりつかれても嫌だなと思ったから、「だから、ロベルトじゃないって。普通の日本人はそんな名前じゃないよ!」って言ったら、爺さんは笑いながら「そんな事は知ってるわい!」みたいな感じで事の経緯を話しだしたんだ。
以下、俺と爺さん談(イタリア語だったので、それっぽい口調になおしました。)
爺「もちろん、君の本名がロベルトじゃないって事ぐらい知ってるさ。君は見たところ日本人っぽいし、わしは今年で92になるが、まだそこまで耄碌してないつもりだよ。君は昔、イタリアとドイツと日本が戦争で同盟を結んでいたって事を、学校かどこか勉強した事があるかね?」
俺「もちろん、知ってますよ。僕だけじゃなく、日本人なら大抵の人は。」
爺「よろしい。わしは第1次、第2次と2つの世界大戦に最初から最後まで海兵として従軍したんだが、当時はドイツや日本からこの地に派遣された、若い将校や外交官なんかと親睦を深めるためによくつるんで飲みにいったりしたもんだ。お互い、言葉も文化も違うが、当時の我々にとっては、そんな事は大して重要じゃなかったし、とにかく共通の敵がいる味方どうし、若かったってのもあるが大いに盛り上がったもんだ
よ。そして当時は、わしらみたいにつるんでた連中は、イタリア兵もドイツ兵も日本兵もみんな、お互いを親愛の情をこめてロベルトって呼びあったもんさ!」
俺「はぁ…。でもまた、なんでロベルトなんっすか?」
爺、にっこり笑って「わからんかね?ロベルト(ROBERTO)というのは頭文字を合わせたものさ。
3国の首都 ローマ(ROme)・ベルリン (BERlin)・東京(TOkyo)の。だから、君を見かけた時、
日本人じゃないかと思ってロベルトと声かけたってわけさ!」
俺「へぇ〜。なんか歴史を感じる話っすね〜」
爺、急に笑顔から一変して渋い表情で「ところで、君のご家族やお知り合いの方で、第二次大戦に従軍された方はいるかな?」
俺「うーん…。祖父は従軍しましたけど、もうとっくに他界したし… あ!親戚の爺さんでまだ1人生きてますよ!」
爺「そうか、そしたら今度あった時には、イタリアが途中で戦線を放棄したことに関しては、本当に遺憾に思っており、わしの人生においてただ一点の心残りであり、日本の皆さんには謝っても謝りきれない事をしたと思っている。と伝えてくれ。」と目に涙を溜めながら、俺に訴えてきた。
俺「うーん、今さらそんなに怒ってる人もいないんじゃないかなぁ?あの小うるさかった俺の祖父でさえも、イタリアの事で、ぼやいてた事は一度もないし…。」
爺「我々はあの時、誓って誰一人戦線を放棄したいと思ってる奴はいなかった。わしの海軍部隊では政治的に戦争が終わった時でさえ、皆悔しさに泣き、同盟国を見捨てるのかと、誰もが断腸の思いだった。拳銃で自殺をしたものだっている!でも、わしはあの時何も出来なかった…。昨日まで、同じテーブルで酒を飲み、ロベルトと呼びあい、同じ敵を蹴散らそうと雄叫びを上げあった仲にも関わらず、同盟国の戦況が日に日に
悪くなっていくのが、ラジオで伝えられようと、何も出来なかったんだ…。特に、日本の方々が最後まで意志を貫かれているという報道を聞くたびに、どれだけ5体が引き裂かれるような思いがしただろう。だから、日本の方々には戦線を離脱した腰抜け、裏切り者と思われても止むを得まい。
そして、イタリア人は、ちゃらついて女の尻を追いかけるだけの、軟派者と思われているかも知れない。
しかし、その後の半世紀以上、わしを含めた海兵全員は一日だってその事を悔いなかった事はないのだよ…。
だから、君のお知り合いには、是非すまなかったとお伝えください…。」
そういうと、爺さんは年甲斐も無く泣き崩れた。そしてよく見ると爺さんの胸には、会社の社章のような
小さいもので気付かなかったが、古びたイタリア海軍の所属部隊のバッジが着いていた。そして、急な展開に戸惑った俺は、「わかりました、今度会ったら必ず伝えておきます。」とだけ言って、挨拶をしてその場を去り、また炎天下の中に戻っていった。今まで、不思議ととても涼しく心地よかったのだが、その場を離れた
瞬間また砂漠のような猛烈な暑さに見舞われた。そして数メートル進んだ後、爺さんが何だか気になって振り向くと、このテの話にありがちだが、もうそこには誰も居なかった。その爺さんが、幽霊だったかどうかなんて、今となってはわからない。ただ俺は、爺さんと最後に交わした挨拶を思い出して少し、変だなと思った。
爺「ここにいれば誰か日本の方が来ると思って、ずっと待っていたが、わしの話を聞いてくれた人はどれくらいぶりだろう。皆、わしがまるで見えないかの様に、無視をして立ち去ってしまうのだから。ありがとう。」
俺「いいんですよ。でも、ここよりもっと街の中心の観光スポットに行った方が、日本人はいっぱいいるんじゃないですかねぇ。コロッセオとか。それでは、お元気で。」
後日帰国して、久方ぶりに、家で寝たきりになって殆ど誰とも口をきかない親戚の爺さん(元海軍)を訪ね、その話をした。爺さんは、何も言わず、ただ目に涙を溜めていた。そして、その話を聞いた1週間後に老衰で他界した。世話をしていた従姉妹によると、俺が会った後の1週間は爺さんが妙に明るく、皆に積極的に話しかけてたと言う。
posted at 2012/06/29 0:06:57
lastupdate at 2012/06/29 0:06:57
【修正】
2012/06/30
[泣ける話]
この話の主人公、たかし君(9歳)は、折り紙の好きな
明るい少年である。
彼は5歳の時、重度の心臓病、心筋症であると診断される。
完全に治すためには移植するしか方法はなかった。
貴嗣君が2年生だった6月の朝、母親の節子さんは貴嗣君の
様子がおかしいことに気付く。呼びかけにも応えず、右足が
硬直しているようだった。
急いで病院に運ばれた貴嗣君は、脳梗塞の疑いがあると言われる。
子供が脳梗塞になることは非常に稀なことであるが、心筋症で
あった貴嗣君の脳の血管がつまってしまったのだ。彼は
右半身が麻痺してしまい、その上、声が出せない、つまり失語症
になってしまったのである。
節子さんは、紙に平仮名を書き、貴嗣君に指してもらって意志を
確かめようとしたのだが、平仮名を読むことも困難らしく、
できなかった。せめて声だけでも出せるようになってほしい、
と両親は願っていた。
そんな貴嗣君を病から救ったのが、クラスメイトのみんなだった。
病気で入院している貴嗣君のために千羽鶴を折っていたみんなは、
お見舞いに行きたいと担任のT谷先生に言う。
しかし、病状の悪化していた貴嗣君は面会謝絶の状態が続いていた。
そこで土谷先生は、クラスメイト全員の声のメッセージを
テープにとり、千羽鶴と一緒に貴嗣君のもとへ届けたのである。
節子さんはそのテープを、何日も貴嗣君に聞かせた。
そして、奇跡は起こったのである。
節子さんが貴嗣君にジュースをひとくち飲ませ、クラスメイトの
テープを流していた時だった。
「もっとのみたい」。
貴嗣君がしゃべった。節子さんは信じられず、
「もう一度言ってごらん」と言うと、たどたどしいながらも、
「もっとのみたい」と言ったのだ。
貴嗣君に、声が戻ったのだ。
医師や看護婦も、信じられないような奇跡に、喜んだ。
この春、4年生になった貴嗣君は、右半身に少し麻痺が残るものの、
暖かい同級生たちに囲まれて、楽しい学校生活を送っている。
明るい少年である。
彼は5歳の時、重度の心臓病、心筋症であると診断される。
完全に治すためには移植するしか方法はなかった。
貴嗣君が2年生だった6月の朝、母親の節子さんは貴嗣君の
様子がおかしいことに気付く。呼びかけにも応えず、右足が
硬直しているようだった。
急いで病院に運ばれた貴嗣君は、脳梗塞の疑いがあると言われる。
子供が脳梗塞になることは非常に稀なことであるが、心筋症で
あった貴嗣君の脳の血管がつまってしまったのだ。彼は
右半身が麻痺してしまい、その上、声が出せない、つまり失語症
になってしまったのである。
節子さんは、紙に平仮名を書き、貴嗣君に指してもらって意志を
確かめようとしたのだが、平仮名を読むことも困難らしく、
できなかった。せめて声だけでも出せるようになってほしい、
と両親は願っていた。
そんな貴嗣君を病から救ったのが、クラスメイトのみんなだった。
病気で入院している貴嗣君のために千羽鶴を折っていたみんなは、
お見舞いに行きたいと担任のT谷先生に言う。
しかし、病状の悪化していた貴嗣君は面会謝絶の状態が続いていた。
そこで土谷先生は、クラスメイト全員の声のメッセージを
テープにとり、千羽鶴と一緒に貴嗣君のもとへ届けたのである。
節子さんはそのテープを、何日も貴嗣君に聞かせた。
そして、奇跡は起こったのである。
節子さんが貴嗣君にジュースをひとくち飲ませ、クラスメイトの
テープを流していた時だった。
「もっとのみたい」。
貴嗣君がしゃべった。節子さんは信じられず、
「もう一度言ってごらん」と言うと、たどたどしいながらも、
「もっとのみたい」と言ったのだ。
貴嗣君に、声が戻ったのだ。
医師や看護婦も、信じられないような奇跡に、喜んだ。
この春、4年生になった貴嗣君は、右半身に少し麻痺が残るものの、
暖かい同級生たちに囲まれて、楽しい学校生活を送っている。
posted at 2012/06/30 0:00:54
lastupdate at 2012/06/30 0:00:54
【修正】
[泣ける話]
今年の5月まで付き合っていた彼の話。
料理がすきで、調理場でバイトしていた。
付き合い始めのころに私が作った味噌汁に、
溶け残りの味噌が固まって入ってたことがあった。
飲み終えてから気づいて、恥ずかしさから
どうして早く言わないの?!と怒った私に
「好きな人が作ってくれたものはみんな美味しいんだよ」って言ってくれた。
彼はよくおいしい料理を作ってくれた。
私よりかなり上手。
私の料理がまずければ正直にまずい言うようになった。
「料理が上手になってほしいから」って。
料理するたびに文句を言われるから、
「長く付き合うとやさしくなくなるんだなぁ」
なんて思って、せがまれても作らなくなった。
彼とは5月に別れた。
彼のことをすきかどうか分からなくなって。
彼は優しかった。
彼から別れをきりだした。
私の気持ちに気づいていると思わなかった。
次第に冷たい態度をとっていってたんだと思う。
自分の鈍感さに、非道さに気づいて、泣いた。
何度も謝ったけど、彼への仕打ちは消えない。
好きな人の気持ちが離れていくのを彼はずっと気づいていた。
どうすることもできず、いつものように振舞って、ついには自分から私を手放した。
望んでないのに。
私よりずっとキツイ仕事をしているのに、通ってきてくれて、料理を作ってくれて、愛し
てくれた。
思えば、別れの数ヶ月くらい前から
「俺のこと好き?」って聞くようになった。
冗談のつもりで「嫌い」って、私。
寂しそうな顔は演技だと思ってた。
今になって思う。
まずくても、不恰好でも、それでも
私の手料理が良かったんだよね。
彼よりへたくそで、気にする私に、料理を教えようとして正直な感想を述べててくれてた
んだよね。
なのにそのことに気づかず、努力もせず、手伝いもしないでご飯を作ってもらってた。
ろくにお礼も言わなかった。
今更遅いけど、ごめんね。
こんな女が最初の彼女でごめんね。
こんな私を愛してくれて、本当にありがとう。
料理をすると彼が思い出される。
連絡をしたらきっとまた傷つけてしまう。
伝えたいけどもう伝えられない、感謝と後悔。
料理がすきで、調理場でバイトしていた。
付き合い始めのころに私が作った味噌汁に、
溶け残りの味噌が固まって入ってたことがあった。
飲み終えてから気づいて、恥ずかしさから
どうして早く言わないの?!と怒った私に
「好きな人が作ってくれたものはみんな美味しいんだよ」って言ってくれた。
彼はよくおいしい料理を作ってくれた。
私よりかなり上手。
私の料理がまずければ正直にまずい言うようになった。
「料理が上手になってほしいから」って。
料理するたびに文句を言われるから、
「長く付き合うとやさしくなくなるんだなぁ」
なんて思って、せがまれても作らなくなった。
彼とは5月に別れた。
彼のことをすきかどうか分からなくなって。
彼は優しかった。
彼から別れをきりだした。
私の気持ちに気づいていると思わなかった。
次第に冷たい態度をとっていってたんだと思う。
自分の鈍感さに、非道さに気づいて、泣いた。
何度も謝ったけど、彼への仕打ちは消えない。
好きな人の気持ちが離れていくのを彼はずっと気づいていた。
どうすることもできず、いつものように振舞って、ついには自分から私を手放した。
望んでないのに。
私よりずっとキツイ仕事をしているのに、通ってきてくれて、料理を作ってくれて、愛し
てくれた。
思えば、別れの数ヶ月くらい前から
「俺のこと好き?」って聞くようになった。
冗談のつもりで「嫌い」って、私。
寂しそうな顔は演技だと思ってた。
今になって思う。
まずくても、不恰好でも、それでも
私の手料理が良かったんだよね。
彼よりへたくそで、気にする私に、料理を教えようとして正直な感想を述べててくれてた
んだよね。
なのにそのことに気づかず、努力もせず、手伝いもしないでご飯を作ってもらってた。
ろくにお礼も言わなかった。
今更遅いけど、ごめんね。
こんな女が最初の彼女でごめんね。
こんな私を愛してくれて、本当にありがとう。
料理をすると彼が思い出される。
連絡をしたらきっとまた傷つけてしまう。
伝えたいけどもう伝えられない、感謝と後悔。
posted at 2012/06/30 0:00:54
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【修正】
2012/07/01
[泣ける話]
私が彼と最初に出会ったのは会社の懇談会でした。
ふとしたことから一緒に遊ぶようになり、付き合いはじめました。
私はもともと打たれ弱い性格だったので、彼にグチってしまうことが
多かったのです。
でも、彼はそんな私に嫌な顔一つせずに、優しい言葉をかけてくれたり、
励ましてくれていました。彼はグチ一つこぼさず、明るい人だったので、
「悩みがないなんていいねー。」なんて言ってしまったりすることもありました。
彼との別れは突然訪れます。彼が交通事故で亡くなったのです。
彼のお葬式に行っても、まったく実感が湧きませんでした。
お葬式の後、彼の両親から彼の携帯を渡されました。
何気なく携帯をいじっていると、送信されていない私宛のメールが
たくさんあるのに気付きました。
そのメールには仕事のグチや悩みごとなどがたくさん書いてありました。
その瞬間、私は彼の辛さに気付かなかった自分のくやしさや、無神経な言葉を言った
自分への後悔、常に私を気遣っていてくれた彼への感謝で涙が止まりませんでした。
あの日から1年以上になりますが、その携帯は大切にとってあります。
ふとしたことから一緒に遊ぶようになり、付き合いはじめました。
私はもともと打たれ弱い性格だったので、彼にグチってしまうことが
多かったのです。
でも、彼はそんな私に嫌な顔一つせずに、優しい言葉をかけてくれたり、
励ましてくれていました。彼はグチ一つこぼさず、明るい人だったので、
「悩みがないなんていいねー。」なんて言ってしまったりすることもありました。
彼との別れは突然訪れます。彼が交通事故で亡くなったのです。
彼のお葬式に行っても、まったく実感が湧きませんでした。
お葬式の後、彼の両親から彼の携帯を渡されました。
何気なく携帯をいじっていると、送信されていない私宛のメールが
たくさんあるのに気付きました。
そのメールには仕事のグチや悩みごとなどがたくさん書いてありました。
その瞬間、私は彼の辛さに気付かなかった自分のくやしさや、無神経な言葉を言った
自分への後悔、常に私を気遣っていてくれた彼への感謝で涙が止まりませんでした。
あの日から1年以上になりますが、その携帯は大切にとってあります。
posted at 2012/07/01 0:11:20
lastupdate at 2012/07/01 0:11:20
【修正】
2012/07/02
[泣ける話]
去年の10月5日卵巣癌からの全身転移で母が亡くなりました。
家庭の事情で離れ離れに暮らした事を、自分が病気になっても謝り続け、
亡くなる3日前まで後夫(現在の父)と私達姉妹の関係を心配していました。
母が亡くなり、父を見ているのがとても辛い。
でも、そう思えるような関係を築いてくれた母に心から感謝しています。
苦労ばかりだった人生、これからはゆっくりして欲しい。
家庭の事情で離れ離れに暮らした事を、自分が病気になっても謝り続け、
亡くなる3日前まで後夫(現在の父)と私達姉妹の関係を心配していました。
母が亡くなり、父を見ているのがとても辛い。
でも、そう思えるような関係を築いてくれた母に心から感謝しています。
苦労ばかりだった人生、これからはゆっくりして欲しい。
posted at 2012/07/02 0:08:44
lastupdate at 2012/07/02 0:08:44
【修正】
[泣ける話]
単車の免許を取ってすぐ、当日付き合ってた彼女と江ノ島線の道をバイクでデートした。でも
8月14日23時19分カーブを曲がる時に対向車のトラックと衝突して自分は気を失った。目が覚め
たら病室だった。ベッドの横に自分の母親が泣きながら立っていて、平手で一発殴られた。
ふと自分が事故にあったのだと気が付いて『○○は?』(彼女の名前)と尋ねると事故の事
を教えてくれた。対向車と衝突した時、自分はガードレールを飛び越えて砂浜に着地したらし
い。でも彼女はガードレールとトラックに挟まれ息を引き取ったと知らされた。自分を恨んだ。そ
の日から毎日、病室のベッドで泣いた。2週間が経ちなんとか退院。同時決意した。彼女が
いない人生意味がないって。気が付いたら、貯金はたいて同型のバイクを買った。事故に
あったカーブに夜中の10時を回った頃に着いた。バイクの鼓動と彼女の背中に残る微かな温も
りがあの瞬間を思い出す。気付けば時速138q出てた。走馬燈が頭をよぎる。◯◯ありが
とう。ごめんな。そう言って気付けばガードレールまで80m.........突然エンジンが止まった。ふと前を見ると険しい顔した彼女が両手を広げ立ってた。
ガードレール手前で止まって目を開けたら誰もいなかった。ありがとう。とつぶやいた。
8月14日23時19分カーブを曲がる時に対向車のトラックと衝突して自分は気を失った。目が覚め
たら病室だった。ベッドの横に自分の母親が泣きながら立っていて、平手で一発殴られた。
ふと自分が事故にあったのだと気が付いて『○○は?』(彼女の名前)と尋ねると事故の事
を教えてくれた。対向車と衝突した時、自分はガードレールを飛び越えて砂浜に着地したらし
い。でも彼女はガードレールとトラックに挟まれ息を引き取ったと知らされた。自分を恨んだ。そ
の日から毎日、病室のベッドで泣いた。2週間が経ちなんとか退院。同時決意した。彼女が
いない人生意味がないって。気が付いたら、貯金はたいて同型のバイクを買った。事故に
あったカーブに夜中の10時を回った頃に着いた。バイクの鼓動と彼女の背中に残る微かな温も
りがあの瞬間を思い出す。気付けば時速138q出てた。走馬燈が頭をよぎる。◯◯ありが
とう。ごめんな。そう言って気付けばガードレールまで80m.........突然エンジンが止まった。ふと前を見ると険しい顔した彼女が両手を広げ立ってた。
ガードレール手前で止まって目を開けたら誰もいなかった。ありがとう。とつぶやいた。
posted at 2012/07/02 0:08:44
lastupdate at 2012/07/02 0:08:44
【修正】
2012/07/03
[泣ける話]
看護学生だった頃
看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。
その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。
あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。
看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。
その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。
あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。
posted at 2012/07/03 0:06:36
lastupdate at 2012/07/03 0:06:36
【修正】
2012/07/05
[泣ける話]
妻が入院してる時、中学生になる姪っ子と一緒にお見舞いに行ったことがあった。
帰りの電車の中、姪っ子のふとした一言に切れてしまい、「うるせーだまってろ!」っと
怒鳴って、ひどく叱ってしまった。勿論そんな風に怒鳴ったことも今まで無かったし、姪っ子も悪気があって言ったんじゃないってことはわかっていた。
姪っ子は妻譲りの気の強い性格で、「そんなに怒んなくてもいいんじゃない」と言って次の駅で降りてしまった。
最悪の気持ちだった。
この先妻はどうなってしまうんだろうという不安や心配・ストレスを姪っ子に向けてしまったことをほんとに後悔した。
なんだか救われない気持ちと辛い気持ちでいっぱいになった。そんな時俺の隣に座っていた全く知らないおばあちゃんが俺に向かって
「さっきのお嬢さんもあなたのつらい気持ちがわかる日がくると思うわ。」っと言ってくれた。
帰りの電車の中、姪っ子のふとした一言に切れてしまい、「うるせーだまってろ!」っと
怒鳴って、ひどく叱ってしまった。勿論そんな風に怒鳴ったことも今まで無かったし、姪っ子も悪気があって言ったんじゃないってことはわかっていた。
姪っ子は妻譲りの気の強い性格で、「そんなに怒んなくてもいいんじゃない」と言って次の駅で降りてしまった。
最悪の気持ちだった。
この先妻はどうなってしまうんだろうという不安や心配・ストレスを姪っ子に向けてしまったことをほんとに後悔した。
なんだか救われない気持ちと辛い気持ちでいっぱいになった。そんな時俺の隣に座っていた全く知らないおばあちゃんが俺に向かって
「さっきのお嬢さんもあなたのつらい気持ちがわかる日がくると思うわ。」っと言ってくれた。
posted at 2012/07/05 0:00:59
lastupdate at 2012/07/05 0:00:59
【修正】
2012/07/06
[泣ける話]
私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、母の作る弁当はお世辞にも華や
かとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。友達に見られるのが恥ずかしくて、
毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大
好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそ
り中身を確認した。すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪い
し、とても食べられなかった。家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこ
く尋ねてきた。私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜って
いたので「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく
言ってしまった。母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日
記が出てきた。中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。
「今日は〇〇の好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃ
になったけど…喜んでくれると良いな」
何で食べてあげなかったんだろう…今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。
かとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。友達に見られるのが恥ずかしくて、
毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大
好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそ
り中身を確認した。すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪い
し、とても食べられなかった。家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこ
く尋ねてきた。私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜って
いたので「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく
言ってしまった。母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日
記が出てきた。中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。
「今日は〇〇の好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃ
になったけど…喜んでくれると良いな」
何で食べてあげなかったんだろう…今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。
posted at 2012/07/06 0:02:23
lastupdate at 2012/07/30 20:13:31
【修正】
2012/07/09
[泣ける話]
じいちゃん。大好きやったじいちゃんが死んでまってからもう1年半やな。
最期は病院でもう喋ることも食べることも何も出来んかったな。学校帰りにいつも病院
寄ったな。
じいちゃんが死んだ日も帰りに病院寄ったな。そしたらな、外は雪が降ってきたな。今で
も忘れんよ、あれはあの年の初雪やったな。
逝ってまう瞬間、私は一緒におれんかったけど、お父さんがいたことがせめてもの救いで
す。
でもな。私ずっと後悔しとることあるんや。じいちゃんは昔から私の事大好きで色んな事
してくれたね。なのに私は何にもしてあげれんかった。
じいちゃんが入院する前日かな。じいちゃんのオムツ変えてやるとき、病気やできちんと
出来んの当たり前なのに私はイライラしてじいちゃんの事たたいてまったな。あれが私が
じいちゃんのオムツを変えた最後やったな。
今考えても悔やんでも悔やみきれんよ。本当に大好きやったよ。なのに本当に何にもして
あげれんかったな。ごめんな。
ずっとずっと大好きやでな。
最期は病院でもう喋ることも食べることも何も出来んかったな。学校帰りにいつも病院
寄ったな。
じいちゃんが死んだ日も帰りに病院寄ったな。そしたらな、外は雪が降ってきたな。今で
も忘れんよ、あれはあの年の初雪やったな。
逝ってまう瞬間、私は一緒におれんかったけど、お父さんがいたことがせめてもの救いで
す。
でもな。私ずっと後悔しとることあるんや。じいちゃんは昔から私の事大好きで色んな事
してくれたね。なのに私は何にもしてあげれんかった。
じいちゃんが入院する前日かな。じいちゃんのオムツ変えてやるとき、病気やできちんと
出来んの当たり前なのに私はイライラしてじいちゃんの事たたいてまったな。あれが私が
じいちゃんのオムツを変えた最後やったな。
今考えても悔やんでも悔やみきれんよ。本当に大好きやったよ。なのに本当に何にもして
あげれんかったな。ごめんな。
ずっとずっと大好きやでな。
posted at 2012/07/09 0:06:51
lastupdate at 2012/07/09 0:06:51
【修正】