クニフロの泣ける話、感動する話まとめ
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インターネットで公開している、泣ける話、感動する話をまとめています。号泣できる話から、ほっこりと心温まる話をいろいろ集めてますので、楽しんでください。

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2012/09/01
晴れの日、空を見上げて君を思う。
青色に雲の白色、木の緑色がくっきりと浮かび上がる。
そんな日は決まっていつも君から連絡が来ていた。
「晴れてるよ!今ひま?」
考えてみると、私はいつも君に振り回されていたね。
約束はすっぽかされるし、行きたいって言った場所にはなかなか行ってもらえなかった。
結局2年間一緒にいて、一緒に行きたかったこと、したかったこと、まだまだ沢山あった
のに出来ないで終わってしまった。
それでも、そうやって君から突然の連絡があったりすると、私は「自分が暇なときばっか
り!」と思いながらも嬉しくて他の事そっちのけで君に会いに行った。
君は遠かった。どんなに近くにいても私には入り込めない部分が君にはあって、私はそれ
が辛かった。
楽しいだけでいつまでも一緒に居れたら、どんなに楽なんだろう。
ずっとそう思ってきた。でもやっぱりそうじゃないこと、私は分かってしまった。
本当によく一緒に笑ったね。すっごく楽しかった。
どんなに遠くても、笑ってる間はすごく近くに感じた。
きっと、これからだって一緒に居たら、いっぱい笑ってる君と自分が居るんだろうね。
でも、もうさよならするね。
力になってあげられなくてごめんね。
頼りにならない彼女でごめんね。
大好きだったよ。
君と出会えて、あんなに一緒に笑えて、本当に、本当に幸せでした。
さよなら。ありがとう。
posted at 2012/09/01 0:16:55
lastupdate at 2012/09/01 0:16:55
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私が中学生くらいの頃、ちょうど反抗期真っ最中だった。

私は母と些細な事で喧嘩になり、母から「そんな子に育てた覚えはない!」と言われました。
売り言葉に買い言葉で「産んでくれなんて頼んだ覚えは無いよ!」とつい言ってしまいました。
お前なんて産まなきゃよかったくらいの言葉が返ってくるかと思ったのに、
母は私のその言葉を聞いてから黙ってしまい、返事をする事はありませんでした。

それから月日は経ち、私が大学入学する時に戸籍抄本を大学に提出しなくてはいけなかったので、役所に取りに行きました。

その戸籍には「養女」の文字が・・・

私は父と母の本当の娘ではなかったのです。
そんなこととは全く知らずに、あの日言ってしまったあの言葉。
悔やんでも悔やみきれませんでした。
養女だと知ったとき、私は全くショックは受けませんでした。
むしろお父さん、お母さんの子として育った私って、なんて幸せなんだろうと胸がいっぱいになったのを良く覚えています。

おかあさん、あの日はごめんなさい。
私を本当の子以上に大切に育ててくれた事、感謝しています。
私も自分の子供たちに、母が私に注いでくれたような愛情で育てたいと思います
posted at 2012/09/01 0:16:55
lastupdate at 2012/09/01 0:16:55
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2012/09/02
なんか機械音痴の母がデジカメを買った。
どうやら嬉しいらしく、はしゃぎながらいろいろと写してた。

何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく「どうすればいいの?」って聞いてきたが、「忙しいから説明書読め!」とつい怒鳴ってしまった。

さらに「つまらないものばかり写してるからだろ!」とも言ってしまった。そしたら「ごめんね」と一言。

そんな母が先日亡くなった。
遺品整理してたらデジカメが出てきて、何撮ってたのかなあと中身を見たら、俺の寝顔が写ってた・・・。
涙が止まらなかった。
posted at 2012/09/02 0:00:01
lastupdate at 2012/09/02 0:00:01
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2012/09/03
あたしすごく悩んでて、今の自分がどうしていいかわからない・・・。
今は今ですごく幸せで、
すごく平和で、
そんな毎日を過ごしているのに・・・
そんな時、ある人からこんな言葉をもらった・・

『俺は今の生活をする為に、生まれてきた気がするよ』

その人は家庭も持っている人で
自分の方向性に悩んでいた私に言ってくれた。

あたしも、早くそう思える場所が
見つかるといいなぁ。。。
前向きに生きていこう!
posted at 2012/09/03 0:05:18
lastupdate at 2012/09/03 0:05:18
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2012/09/04
おばあちゃんからのプレゼント

おばあちゃんは私が
小学5年生のときに死んでしまった。

病気がわかり入院が決まった前日おばあちゃんと
家族で買い物に行った。
入院の用意をそろえるため。
おばあちゃんは私の手を握って
「Oちゃん、ばあちゃんエラいよ・・・」
と言ったのを覚えている。
入院した頃にはもう手遅れだったらしい。
母と毎日病院に通った。
とても長い間通った。
私はおばあちゃんが大好きだった。
いまでも「Oちゃん」と呼びかけてくるあの
優しい声が忘れられない。

始めのうちは私もまさか死んでしまうなんて
思っていなかった。
それはおばあちゃんもそうだったらしく
かなり病状が悪くなってから
「あかんねぇ・・・・」とつぶやいていた。
おばあちゃんに会える病院は好きだった。
売店でお菓子を買うのも病室で絵を描くもの
楽しかった。
おばあちゃんが車椅子で散歩した時
売店で見つけたキティーちゃんのぬいぐるみ。
おそろいで買ってくれた。

日にちとともに病状は悪化した。
私は助けてあげれなかった。
おばあちゃんが久しぶりに食べたいといった
イチゴ。母は雨の中買いに行った。
美味しそうに食べたがすぐに吐いてしまった。
おばあちゃんが危ないとはっきり
言われるようになった。
新学期だった。実感がなかった私は
「O日に代表委員の選挙があるんだ。頑張るね。」
とノンキに話しかけた。
返事はなかった。
その選挙の少し前おばあちゃんは死んだ。
家族で病院に泊まっていた。
私は眠っていた。看護婦さんが飛びこんできて
起きた。私は泣き喚いた。
母は最期まで暖かい手をしていたといっていた。

普通ならお通夜とお葬式で学校にいけるはずのなかった選挙の日。私は学校にいて選挙に
でた。
演説ではおばあちゃんのことを言った、泣いた。
私は委員長になった。
おばあちゃんはあの時の私の言葉を聞いてくれていたのだ。葬式会場の都合でちょうど選
挙の日
学校に行けた。おばあちゃん・・・・

おそろいのキティーちゃんは今も部屋にいる。
おばあちゃんも天国へ持って行った。

今一番会いたい人は大好きなおばあちゃんです。
ただ一言「ありがとう」といいたい。
posted at 2012/09/04 0:12:00
lastupdate at 2012/09/04 0:12:00
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2012/09/08
私は戦時の中、幼少時代をすごしました。
物心ついたときには母親はおらず、父は兵隊に取られ
祖父と2人田舎で暮らしていました。
家のすぐ脇には河が流れており、200mほど河を下ったところには
捕らえられた米兵を収容している建物がありました。

とある日のこと、私が芋を河で洗っていると誤って
手を放してしまいその芋を河に流してしまいました。
その芋はたまたま下流で水浴びをしていた米兵達によって
拾われました。
米兵は自分達に向かって流してくれたものだと思い
喜んで私に手を振って芋を持って帰りました。
きっとひどい扱いを受けていたのでしょう。

それから私は定期的に川下にいる米兵達に回りには
分からないように、野菜を河に流して渡すようになりました。

やがて戦果も悪化して日本軍が不利な状況になるにつれて
食糧事情は厳しいものとなりました。
もともと私と祖父の2人暮らしだったため食料で困ることは
ありませんでしたが、米兵達に食料を分け与えることは
出来なくなりました

申し訳ない気持ちになりながらもいつも食料を流している
時間私はいつものように川岸まで行きました。
いつものように200m川下では米兵達が待っています。
近づくのは禁止されていたため当然話をすることも出来ません。
ジェスチャーで分け与える食料が無いことを伝えようと、
手を大きく振ってバツマークを作って食料が無いことを伝えます。
しかし上手く伝わらず米兵達は手を振り帰してきます。
そんな私が流す食料を楽しみにしている米兵に
何もして上げられない無力な自分に腹がたち河の水を
蹴り上げると米兵も同じように真似をします。
今度は河の中で飛び上がってみるとやはり米兵達は
私の真似をします。
何とかしてあげたい。そう思いました。

私は自分の家の畑から祖父の目を盗み少しですが
スイカやかぼちゃを取り今までと同じように河に流して
米兵に渡しました。

しかし数日後スイカを取っているところを祖父に見つかり
理由を聞かれました。
私は正直にこれまでのいきさつを話しました。
すると祖父はこう言いました。
「なるほど。お前は非国民だが非人間ではないな。」
そう言うとそれ以降畑から取った野菜を河に流して
米兵に渡すことを許してくれました。

やがて終戦を迎えたある日のこと、家の上空を数機の
戦闘機が飛来してきました。
米兵を収容していた建物があったためひどい扱いを
受けていた米兵が仕返しに空襲に来たに違いない。
祖父はそう言いました。
しかし私はそんなこと無いよ。そんなこと無いよ。
と言いました。
あの米兵たちがそんなことをするとは思えなかったのです。
やがて戦闘機からたくさんの金色や銀色の小石くらいの
大きさの物が振ってきました。
爆弾だ!
祖父は言いました。
しかし何も爆発しません。
空から振ってきたものは金銀色の紙に包まれた
チョコレートでした。
なおもチョコが降り続きました。
星のように。
posted at 2012/09/08 0:00:38
lastupdate at 2012/09/08 0:00:38
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2012/09/13
小学5年生になったある日、祖母が親戚の法事で遠く離れた親戚の家に泊まりで行った。
その頃、祖父は病気で入院していた。
祖母は3日間位で帰ってくる予定だったのに、心臓が悪かった為倒れてあっちの病院に入
院してしまった。病状がかなり悪かったらしく、手術をしてしまうはめになり、思ったよ
り入院は長くかかってしまった。 その頃、地元では祖父の容態が急変しそのま
ま帰らぬ人となってしまった。
祖父が亡くなって1か月後、祖母が退院して地元に帰ってきた。祖母は、心臓に悪いから
と祖父が亡くなった事を知らされてなかった。仏壇の前に連れて行かれ、始めは何が何だ
か分からないという感じだったが、ようやく現実を受け止めたようで、仏壇の前にしゃが
みこんで大きな声で泣いていた。
それを陰から見て、私は幼いながらも涙が止まらなかった。
今になっても、その時の光景が頭から離れない。
posted at 2012/09/13 0:08:48
lastupdate at 2012/09/13 0:08:48
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2012/09/14
今でも、思い出すと罪悪感で一杯になるんですが…忘れないために書きます。
高校一年の頃、母は病気で車を運転したり、台所に立つのも困難でした。
父もその頃は普及しはじめた携帯での出会い系(当時は携帯会社公式のメル友を募集する
コーナーがあった)で遊ぶようになり、収入はなく、養護学校に通う弟のこともあって学
校を辞めること、自分もバイトして稼がなくてはいけないことにプレッシャーがありまし
た。
全てが、自分の肩にかかるのだと。
とりあえず三学期一杯は学校に通い、バイトを始めました。
初めてのバイトであまりうまく行かず、疲れだけを感じてたある日、父がバイト先に迎え
に来ました。
帰りにすき家で牛丼を食べたのですが、家にいる母と弟のことまで気が回りませんでし
た。
家に帰ると食事をしてない二人。冷蔵庫はほぼ空に近く、自分のことばっかりな自分と、
二人のことを無視する父に腹が立ちました。
情けなくて、自分たちの帰りを待ってた二人に申し訳なくて、今思い出しても泣きたくな
ります。

母はその二年後にあちらへ逝き、ばらばら気味だった家族が一緒にいることは叶わなくな
りました。
あの時、どうして家で食べると言わなかったのか。
どうして二人の分を持ち帰ろうとしなかったのか。
牛丼を見る度、あの時の二人の顔を思い出して痛いです
posted at 2012/09/14 0:34:17
lastupdate at 2012/09/14 0:34:17
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2012/09/17
最後の文字

2年前の8月10日、大好きだったじぃちゃんが亡くなりました。
私は小さい時からよくじぃちゃん家に泊まりに行ってました。泊まりに行くたびにいろん
な事を教えてくれました。
本当に優しくてみんなから頼りにされていて絶対にツライと言わない人でした。じぃちゃ
んの病名は「肝臓ガン」。その事は私の親夫婦と叔父夫婦だけにつげられました。私達孫
とじぃちゃんとばぁちゃんは何も知らず3年間は今まで通りの生活をしていたのでした。
しかし、だんだん病気が進行し入退院を繰り返すようになりました。検査入院だと本人や
周りに嘘をついていた叔父夫婦や親夫婦もとても辛かったと思います。じぃちゃんはお見
舞いに行くたびに決まって「いつ帰れるんだ」と聞いていました。早く帰って仕事がした
いと…そんな体じゃなかったのに…お腹が妊婦さんのようにふくれあがりご飯が食べれな
くなって息も苦しそうで家に帰ってきても寝てるばかりでした。そして、ツライはずなの
に明るく笑うのです。そして最後の入院。その時に私達やばぁちゃんに「今度が最後の入
院だ」と言う事がしらされました。実感がわかず、ただ早く病院に行きたいと思いまし
た。

1週間後じぃちゃんは亡くなりました。じぃちゃんの最後は親戚みんなにみとられ静かに
最後までツライと言わず安らかな顔でじぃちゃんらしく亡くなりました。
じぃちゃんの人柄かお葬式にはたくさんの人が来てくれてみんな泣いて悲しんでくれまし
た。みんなじぃちゃんに感謝していました。

後日、遺品整理をしていると一冊のノートがでてきました。それはツライ中もうろうとし
た意識の中で書いたノートでした。そこには「もうかんねんした。泣き父母弟が迎えにき
た。もう長くない…(自分が病気なのを)黙っていたのはすべて私を思ってのため、辛かっ
ただろう。ありがとう。もうあきらめよう。楽しかった。ありがとう…」と、最後に入院
する日に家で書いたらしい…じぃちゃんは全部わかってたんだ…だから最後の入院では家
に帰りたいって言わなかったんだ。
もっといっぱい喋ればよかった。
もっと優しくすればよかった。
もっと感謝すればよかった。

でも、いつか言ってた「すぐツライと言うのはほんとはツラくないんだよ」って。その言
葉忘れない。
優しい気持ち忘れない。
じぃちゃんみたいにみんなに頼られて誰にでも優しくて明るくてがまん強い人になる。あ
りがとう。じぃちゃん…忘れないよ…
posted at 2012/09/17 0:15:57
lastupdate at 2012/09/17 0:15:57
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2012/09/26
大好きだった君。

かれこれしつこく一年以上思い続けてゴメン。
でもちゃんと望みないこと知っててもこの気持ちは消えてくれないんだ。

理屈じゃないんだよね。

それでも君にこの気持ち伝えた。
色々考えたのに言えたのは『ずっと好きでした!付き合ってください』だけ。
笑っちゃうくらい短くて。
君は黙ってたよね…。私の気持ちきっと迷惑だったかな。

結果はやっぱり×。
私のあなたへの長い旅はやっと終わった。

君への気持ちが重くて毎日歩くのがとても大変だった。それでもあなたに触れたくて、話
したくて、声を聞きたくて頑張って歩いてた。

でも……
それも終わりだね。

私の気持ちは
あなたのおかげで死んだから。

ありがとう。私は今相変わらず不器用ながらにもゆっくり前に歩いてるよ。

傷付いた心を直しながらゆっくりと。

あなたには幸せになってほしい。

私は何よりもそれを願っています。
posted at 2012/09/26 0:04:18
lastupdate at 2012/09/26 0:04:18
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