優しいひと。
原初の記憶。哀しみの記憶。最愛の弟を手にかけた、あの感触。苦しかっただろうに事切れる直前まで微笑んでいたア・ベル。
ずっと忘れることのないまま生きているのに、何度となく見る夢。
かつて自分であったものが愛しいものを殺す夢。

カインとア・ベルの終わり。自分の永劫許されることのない罪の始まり。

自分がレンに魔王になるよう導いたのも、神をこれほどまでに憎むに至ったのも、あれが原因であれがすべての始まりだった。
聖書で語られるさまざまな解釈と見解。事実を知っている自分はどこか冷めた眼でそれを見ていた記憶がある。
そう。はるかな昔の哀しい出来事。地を耕す兄と羊を飼う弟。神への供物。捧げられた穀物と羊の初子。原罪を贖う為に血を求めた神。二人の育てているものを知っていた神。選ばれなかった兄と選ばれた弟。殺した兄と殺された弟。
幾つにも分けられたア・ベルの因子のうちの一つは傍にあるのに、ア・ベルそのものはもう手に入らない。

自室で珈琲を片手に息を吐く。
ベッドを占領するのは本来弟であった、今生では従弟であるア・ベルの一人。
ごろりと寝転がり、シーツを弄ぶ、この上もなく優しい人。
ベルの力に支配されず、魔王にまでなった、ア・ベルの因子を持つ最愛の人。

優し過ぎる人だった。
愛する人たちが傷つけられていることが辛くて神を憎んだ彼は、言葉や行動の端々にア・ベルを感じさせて、けれど完全なア・ベル足り得ない。
永劫続くカインの記憶を持つナオヤとは違い、因子しか持っていないのだから、彼にア・ベルであれと望むことの方が愚かなのだろうとも思うけれど。
因子が持つ記憶が呼び起こされることはない。それが人を作った神から与えられた自分への刑罰だ。
永劫、カインを知るア・ベルに出会うことがない。転生を繰り返す度、数多のア・ベルの因子を持つ人間に出会い、ア・ベルではないことに落胆した。
だから、微笑みの裏側で、彼は本当は自分を憎んでいたのではないかと思うこともあったけれど。
たった二人の兄弟だった。愛し、愛されていた神の子であったはずの兄弟。ただ、絶対者がいた。それがカインにとって、ア・ベルにとって、悲劇だった。
ただ穏やかに、羊を育て、穀物を育て、生きているだけでよかったなら、幸せだったのだと思う。
供物を求められ、血を求められた。
絶対者の望むものを知っていた、けれど自分は血の通わない穀物しか持っていなかった。それでも必死で考えて、最高の出来の穀物を捧げた。結局、思いは通じなかった。
ただ持っていたから羊を捧げ、供物だから初子を選んだ弟。血が通う羊を神は選び、弟を愛した。
絶対者からの愛は、兄と弟で差別されていた。
最初から仕組まれていたのだ。不可能を求められた時点で、神は自分を愛す気がなかったのだ。
愛しい弟は心配そうにカインを見たけれど、神の慈愛はカインには与えられなかった。
神からの愛はすべてア・ベルに与えられた。いつか半身でもある弟は神のものとなり、離れていく。すべてを失くすのは時間の問題だった。
そして弟を殺した。
羊の初子より良いだろう。何せ人を陥れてまで愛した子供だ。血の通う供物を求めるならその体を収めるがいい、と。
狂い始めていた。そして最愛の弟を手にかけた原因を省みず、罰だけを与える神に失望した。最初の罪人となった。
神は万能でも平等でもない。創世の神の御許で、その無能ぶりを見てきたのだ。

嘘くさい偽善者。

絶対者であった神など、もういらない。
自分に言われたからではなく、自らの意思で、けれどナオヤの望む通りレンは魔王になったし、神を憎んでもいるのだ。
たった二人の兄弟にすら哀しみを纏わせる神なんか、自分が何よりも愛したア・ベルに牙を剥かれればいい。

「ねえナオヤ」
「どうした、蓮」
「愛されたかった訳じゃないと思うよ」

一瞬、呼吸をするのを忘れた。
誰が、誰に、とは聞かずともわかった。レンはそれだけ言うと、ごろりと寝返りを打って背を向ける。
背を見るのは好きではない。色んな色に変わる眼をいつだって見ていたいし、いつだって自分ばかりを映していればいいと思う。
また離れていくのか、ア・ベル、と口の中で呟き、彼の背中をじっと見つめる。
けれど、彼がア・ベルの因子を持つものであっても、ア・ベルそのものでないことくらい、ナオヤにだってわかっていた。
それでもナオヤにとってレンはア・ベルで、数多のア・ベルの因子を持つものの中から選び導いた最愛の弟なのだ。

「…ア・ベル」
「オレはア・ベルだけど、ア・ベルじゃないよ」
「お前は俺の弟だ」
「可哀想だね」
「…何を」

優しくて、残酷な弟。
気まぐれに兄と呼び、かと思えば、ア・ベルではないと訴える。
ア・ベルであるなら、それを否定しないでくれ。ア・ベルでないなら、そう思わせないでくれ。
悲痛な願いは、けれど彼の優しさからくる残酷さの所為だ。
心優しいレンは、いつだって誰かの痛みに敏感で、いつだってナオヤの傷を癒そうとするけれど、それが正しく癒しと受け入れられないほど、永劫の罪はナオヤの中で暗い闇を作っている。
いつか止まっていた時が、正しく動き出せばいいのにと思うけれど、同時に、それはずっと遠い先のことだとも思っていた。

「ナオヤをオレはとても大切に思っているけど、ア・ベルそのものにはなれないんだよ」

わかっていたはずなのに、打ちのめされたような気がするのは、ひどく身勝手な感想だと思う。
向けられた背中が、もう二度と振り返らない気がするのはこんな時だ。
喪失の恐怖。いつか彼はまた、神の御許へと戻るのではないか、と。不老であり、不死に近い体を持った彼が神の御許へと立ち戻ることがあるのなら、それは永劫の消失だ。
数多のア・ベルの因子を持つものはいても、それはレンではない。レンこそがア・ベルであり、最愛の弟であり、ただ一人選び導いた人なのだ。他を選ぶことは、もうない。

「ナオヤがね、オレをちゃんとオレだってわかってるなら、別に弟って言ったっていいんだ」

「一度でもオレとア・ベルを切り離して見たことがある?」

「オレはア・ベルの因子を持つたくさんの人間の中の一人であって、ア・ベルそのものじゃない」

「ア・ベルだから魔王になった訳でもない」

「ナオヤの愛した本当の意味でのア・ベルなんて、もういないんだよ」

言葉は、刃になって届いた。
けれど冷たい声音で言葉を吐き、ナオヤを傷つけながら、本当に傷ついているのはレンの方だということくらいナオヤにだってわかっていた。
名前を呼んでも振り返らない唯一の人に溜め息を吐く。
そんなにも優しくて魔王が勤まるのか。神と戦い、いずれ対峙した時、彼はその優しさでもって心を痛めるのではないか。
気の遠くなる年月を過ごすうちに培った人の行動データを掘り出しても、予想だにしないことをやってのける存在だ。だから、彼が何を思い、最終的に何を成すのかがわからなくて不安になる。

「蓮」

ぎしり、とスプリングが軋む音とともにレンの肩に触れ、仰向けにさせた。
ようやく見られた顔には、哀しみが浮かんでいた。

「お前は本当に優しすぎるんだ」

おそらくこの時、ナオヤはア・ベルにではなく、レンに言っていた。
レンの中のア・ベルではなく、ア・ベルらしくてア・ベルらしからぬ彼に。
抱き起こして、どこか縋るような気持ちで抱きしめる。

(優しいレン)
(お前が泣く必要はない)
(哀しみの連鎖はきっとここで止まる)

ベルの力を手にしたレンは老いることも滅多なことがない限り死することもない。
だからナオヤが一人で転生を繰り返して生きることはもうしなくていい。
神に一矢報いることだって出来る。魔王になった時点で、レンは神に反旗を翻したのだ。自分の望んだシナリオ通り。
だから彼が自分の為に泣くのなら、自分の流浪の生はきっと終わりを迎える。

「蓮…」
「…ナオヤはね、もう少し今を生きるべきなんだよ」
「お前が望むなら善処しよう」
「それはオレがア・ベルだから?」
「…お前が、共にあるから」

本当に、優しいひと。

ああ、俺が知る中で最も残酷で優しい人よ。
お前が俺の傍にあり、神の為でなく俺の為に泣くのなら。

俺はお前の望む、何にだってなってみせよう。

              


カインであってカインでない自分になれればいい。

復讐の為に駒を揃え、舞台を整えて、自分の手を取り、魔王となったからって主人公はア・ベルそのものにはならない。
だからナオヤだって、ずっとカインのままいる必要なんてない。
時を経るごとに絡まって増幅してしまった哀しみと怒りが魔王ルートだと唯一とける気がする。いや、時間はかかるだろうけれど。

2010/10/26 改訂

              

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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