あちらとこちら |
「クーフーリン、オレ…戻って、来た…?」 「主、目を」 「…あ、うん」 呟いたその声は掠れていて、心音も平常とは比較にならない程に速かった。 恐る恐る上げた瞼の隙間から見えた景色は、紛れも無くレンのよく知る魔王城のものだ。 戻って来た。 本当に、戻って来られた。 息が詰まるような孤独な戦いは、時間にすればごく僅かで、それでも、レンは久しく忘れていた事に気が付く。 ―――消えちまえ。 誰かに、魔王という立場を抜きに、あんな風に憎悪をぶつけられる事が、如何に苦しくて、如何に、恐ろしいかを。 ―――死ねばいいんだよッ そうだ、ふと、思い出す。封鎖の中でレンは見た。 穏やかで優しかったケイスケが、憎しみの想いから変貌し、狂気へと走るその様を。誰かが誰かを憎む事、その結果が生み出す物の禍々しさを、今の今まで忘れていた。 (だけど、どうして) 分からない、シイナがロキを嫌悪するのも、憎悪するのも、何となく理解はできる。異界のロキは、人心を弄ぶ事のみに楽しみを見出しているような、文字通り悪魔のような男だった。 頭が真っ白になる程の強烈な怒りに、レンは耐えきれず力を奮ってしまった。シイナもまた同じであるなら、明らかな筋違いとは言え、レンの世界のロキを嫌うのも、納得がいかないが、仕方が無い事とも言える。 だが、シイナはそんな単純な理由でロキを傷付けたかったのとは、違うように思うのだ。 作り物のような整った顔、宝石のように美しい目。 しかし根底にあるのは、途方も無く深い闇だった。ロキに向けた露骨な憎悪の瞳とは違う、レンを射抜いた闇色は、容赦無く心臓を貫く凶刃などでは無かった。 血管の数ミリ横をナイフで裂くような、死よりも苦痛を与えたい、そんな暗い願望が見え隠れする、底の知れない、深い闇。 (どうして、オレが憎いの) ロキを嫌っていいとは言わない、だが、レンにはシイナが理解できない。得体の知れない恐ろしい怪物のように思えてしまう。異界の魔王、つまり、異界のレンであるはずのシイナ、自分の事とも言えるはずなのに、レンには、シイナが分からなかった。 ナオヤを盲目的に慕う理由もそうだが、そんな事では無い、もっと、簡単な所から分からない。 カミシロ シイナは、何者なのだろう。 何故、憎まれなければならないのだろう、自分は。 理由の知れぬ憎悪がこんなに恐ろしいものだったなんて。心が、世界が、今にも崩れそうだ。初めて会ったにも関わらず、シイナの与えた印象は、余りに強烈だった。 頭の中で声がする。 消えちまえ、消えちまえ、何度も、何度も、声がする。 「…ぅッ」 「主!」 膝がガクリと折れ、危うく倒れそうになるのを、クーフーリンが抱きとめて支えてくれる。 足だけでは無い、指先にも力が入らない。酷い脱力感と、酩酊感に、レンは呻いた。 「主、如何された…?」 「ごめん、…大丈夫、だから…」 クーフーリンに心配を掛けたくない。世界を超えてまでレンを助け出してくれた彼に、これ以上迷惑を掛ける事はしたくなかった。 「だから…そんな顔…、」 異界の魔王、シイナが逆上するのは計算の内だった。相手のペースを乱すには、時には地雷を承知で我を通す事も策の一つだ。 特にシイナのようにプライドの高い自信家には、その策は功を奏するはずだった。 それが殺意を伴った攻撃に直結するのは、正直言って、予想できなかった。 シイナは魔王だ、試練を乗り越え力を手にした、自分と同じ万魔の王だ。 だから、レンは何処かで油断していたのかもしれない。自分の中の常識を基準にシイナを見ていたのかもしれない。 悪意を、言葉ではなく、力によって叩きつけられるとまでは、思っていなかった。 「ッ…」 「主…」 「大丈夫、違う、これは…、違うから…!」 「しかし、主…!」 怯えるな、震えるな、クーフーリンが、見ている。怖がれば、きっと優しい彼はレンを守るだろう。守る事は、危険に晒される事だ。 騎士の望みはそうなのかもしれない、だけど、シイナは危険過ぎる。魔王の力を持ったシイナと、正面からぶつかり合えば、クーフーリンは無事では済まない。 (これは、オレの問題なんだ、頑張らなきゃ、頑張れなきゃ…) レンは懸命に歯を食いしばった、弱音を吐こうとする唇を、頑なに開く事を拒んだ。だけど代わりに涙がこみ上げてきそうで、今度はぎゅっと目を瞑る。 耳を塞いでも意味は無い、あの声は、それでも聞こえてしまうから。 「蓮君、怖いなら怖いって、言っていいよ」 だが、レンの耳に届いたのはずっとずっと、優しい言葉だった。 「言ってくれなきゃ、僕らがいる甲斐が無いじゃないか」 ふわりと、頬を包み込む大きな掌は、大人ぶっているのに、何処かぎこちなかった。 不器用で、優しい手。その手をレンは知っている。 「もっと、僕らを頼っていいんだよ。ねえ、蓮君」 「…ロキ…」 薄く開いた目の端から、ぽろりと涙が一粒零れた。
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