あちらとこちら |
「シィ、さ」 異世界への道筋を漂いながら、アツロウは帽子を目深に被り直す。 鏡の中に相応しい光の氾濫に、目が潰れそうだったのもあったが、最近は穏やかだったシイナが、封鎖中に時を戻してしまったような感覚が、少し辛いと感じたのも確かだった。 黒衣がふわりと、重力の無い空間で翻る。 「何?」 アツロウの呼び掛けに、シイナは変わらぬ様子で首を傾げたが、何処か威圧めいた空気が、目を合わせずとも肌には刺さった。 やはり、それはアツロウに、東京封鎖の最中のシイナを思い出させる。 家に戻りたいとユズは言っていた。 何度も、それこそ半ば口癖のように。 叶わないと知っていながらも口にしてしまう気持ちを、何となくアツロウは理解できた。 自分もそうだったからだ。 口にしないと折れてしまいそうになる、忘れてしまいそうになる。 自己啓発だったり、決意表明だったり、自分の声を自分の耳に入れる事で、先の見えない不安を消そうという、そんな気持ちはよく分かる。 願いが相反したものであったから反目しあっただけで、口にする、それをする原理は、アツロウとユズ、間違い無く似通っていると、今であれば頷ける。 あの頃は思っていた。 (俺は弱いソデコとは違う) だけど今になって思う。 (俺も弱いのかもしれない) シイナの眼差しに気圧されそうになるのを、弱さと言わずして何と言うのか。 固唾を呑み、アツロウは何とかその問いを形にした。 「アイツの事、そんなに嫌いなのか?」 「アイツって誰?」 アイツじゃ分からない、シイナは面白がるみたいにクスクスと笑って、両手を広げた。 光の氾濫はシイナに恐れを為すように、手の動きに合わせて左右へと散って行く。 シイナの前には闇が広がり、アツロウは光の粒を腕で払いながらその背を追った。 「だから、あの、別世界の、」 「別世界の俺、とか言わないでよね。一緒にされたら困るんだから」 「ご、ごめん。…ええと、じゃあ、レン、だっけ、ソイツ」 「忘れた。知ってるでしょ、アツロウ、俺人の名前覚えるの苦手なの」 「えぇ…」 あっけらかんと言ってのけたシイナは、親指の爪をギ、と強く噛んだ。 「魔王としては見逃しておけないでしょ、俺達の世界を壊しかねない危険分子だよ」 「そう、なのかな…」 「現状ではそうじゃない?弱っちいって言ってもさ、アイツもバ・ベルの力を持ってる魔王なんだから、一応」 一応、をやけに強調し、シイナは素っ気無く呟く。 「どうせ運だけで、魔王になったんだろうけど?」 「…シィ、余り甘く見ない方がいいって」 シイナの尊大なその物言いに、小さな不安が募った。 あの時、その場にいなかったアツロウは感じた。 シイナとは異なる、強大な魔力が迸るのを。それが、異界の魔王が仲魔ごと転移を行った為だったと聞いて、驚きを隠せなかった。 ナオヤは面白いと笑い、シイナは不愉快極まりない様子だった。 シイナは怒り心頭に達すると、周囲がまるで見えなくなる。 それこそ敵味方の区別なく、全てを屠ろうと暴れ回る。律する事ができるのはナオヤ一人だ。 だからアツロウは、シイナが不快になるのを承知で告げた。 「少なくともアイツが連れてた悪魔は、俺達の仲魔に比べても、引けを取らないんだ、油断して怪我でもしたら、ナオヤさんが悲しむぞ」 こんな時にもナオヤの名前に頼らねばならない己は、本当に弱い生き物だ。 シイナから授かった悪魔の力は、アツロウの肉体を人間の何倍も強くしてくれた。 だが、心は何も変わらなかった。 「誰が怪我なんてするかよ、バァカ」 案の定、シイナは舌を一つ打った。露骨に機嫌が悪い。 「誤解するなよ、シィは強い。けど、窮鼠猫を噛むって言葉もあるだろ?何よりまだ、敵対してるって決めるのは早い」 「味方だと思う?あのクソヤロウと仲良しこよしなんだよ?」 異界の魔王はロキを連れていたと聞いた。シイナの機嫌が悪い最たる理由は、それだ。 無理も無い。ロキはナオヤと旧知の仲なのもあるし、ナオヤが死ぬだの呪いめいた予言を突き付けては、シイナを逆上させていた。 アツロウは小さく溜息を吐き、心の中で何かに謝った。 「…利用価値があるかもしれないって事だよ、神と戦うにあたってさ、俺達は少しでも兵力が欲しい、だろ?」 「ああ、体のいい捨て駒って事。それいいね、うん、まあ、敵意が無いなら?それぐらいには使ってやってもいいかもね?」 くすくすと無邪気に笑うシイナの瞳を、アツロウはちらりと盗み見た。 嗜虐的な光に、アツロウは体を思わず竦ませる。今のシイナは、魔王と呼ぶに、相応しい。 だけど。 (シィは、本当は、弱いんだ) アツロウは思った。 力を得て、ナオヤの隣にいつでもいる事ができて、後は、神を殺せば復讐を終えられる。 その後はナオヤと今度こそ、寄り添って、永劫の時を過ごすのだと。 今のシイナは、希望に燃えているはずなのに。 過剰な敵意、過剰な攻撃。持て余すように、魔力が漏れている小さな体。 シイナはおかしくなったと、ユズは彼から離れて行った。その気持ちも分かる、だけど。 「駒が増えたら、ナオ兄は喜んでくれるかなぁ」 シイナは歌うように唱え、両手を広げたままくるりと回った。 ナオヤしか、シイナには見えていない。ナオヤの存在が、シイナを魔王へと変えてしまった。 だけど、だけど。 (シィは、何かに怯えてる) アツロウが初めて声を掛けたあの日から、何もかもが変わっていたなら、アツロウはこうして、シイナの傍にはいないだろうと、そんな風に思うのだ。 (俺がシィを、守らなきゃ)
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