あちらとこちら |
「あーあ、つまんない」 くすくすくす。 シイナは笑った。喉元に鋭利な槍の切っ先を突き付けられ、絶対的に不利な状況に追い込まれたにも関わらず、長槍を構えた悪魔を見下ろし、笑っていた。 「シィ!」 「待ってアツロウ」 目前の窮地にアツロウが駆け出そうとするが、シイナは自らそれを留める。 勢いを殺され、アツロウの体が前にのめった。魔王より与えられた力を解放し、人ならざる物へと変形しかけた上腕も、凪いだように大人しく鎮まる。 待って。その一声に動けなくなった。その一言だけで十分だった。 落ち着き払った声、笑みを湛えた口元。 「いいよ、いいから」 「シィ…」 シイナが漂わせているのは、紛れも無い王の風格だった。十七歳の少年とは程遠い、圧倒的な威圧感がシイナにはあった。 レンの側近と思しき幻魔も、それを感じているのだろう。 額から一筋汗が伝い落ちたのを、アツロウは見逃さなかった。危機感が、少しだけ薄らぐ。 シイナはこの状況をも想定していたのだろう、怯えはもちろん、少しの焦りも窺えはしなかった。 瞳だけは空恐ろしい狂気を孕んでいるが、本気になったシイナはこんな物では無い。 ベル達との戦いでシイナが見せた修羅の形相は、アツロウの中で未だ鮮明に残されている。 怖いだとか、悲しいだとか、そういった感情と共にではなく、シイナはナオヤの為なら鬼になれるのだという感慨のようなものと共に、だ。 シイナが本気になる場面では大抵ナオヤの事が関係しており、そういえば、今は特にナオヤに危機が迫ってもいなければ、まだこの世界にも探りを入れている最中だったなと思い出す。 当然シイナは主義主張の違う別世界の魔王が気に入らないのだろうから、悪意をもって対象を捉えてはいるものの、すぐに殺してしまおうとか、八つ裂きにしてやろうとか、そこまで過激な感情は抱いていないように見える。 「随分な歓迎だね。俺、怒られるような事をした覚えはないんだけどな」 間違いなくシイナには、余裕と冷静さがあった。落ち着いた口ぶりからも、それが窺える。 「弁解があるなら、陛下の御前でして貰おうか」 対する騎士も、冷静沈着を絵に描いたような存在だ。 アツロウはクーフーリンに関しては、少しばかり理解があるつもりでいる。封鎖の中で仲魔として、共にシイナを守る為に力を振るっていた時期があった。 昔を懐かしく思いながらも、アツロウはだからこそ、この騎士が内に熱い物を秘めている事も分かっていた。 だからこそアツロウもクーフーリンを信頼していたし、随分と長い間共闘した。現在も居城の警備に就かせているのだって、そうした信頼あってこそだ。 アツロウ達の戦いを近くで見ていたシイナが、まさかそれを知らないはずも無いだろう。 種族性というやつだろうか、この悪魔は異なる世界においても、やはり義に厚いようで、何に命を賭しているか、気の毒なまでに非常に分かりやすい。 そうでなくとも、元よりシイナは人の心を読む術に長けているのだから。 「…付け入る隙、見つけたって事か…」 アツロウは少しの同情を滲ませ、ごく小さく呟いた。 シイナは、そんな僅かながらの同情を嘲笑うように、ちらりと、こちらを見て瞳を細める。 「…あれは、完全に面白がってるな…。気の毒に…」 クククと笑う誰かさんの顔が浮かび、アツロウは帽子をくしゃりと被り直す。 魔王となったシイナの肉体はすっかり時を止めてしまっているが、もし順調に成長し大人になれば、ナオヤそっくりになっていたに違いない。 「ねえ、それ、外してくれない?」 シイナが槍の切っ先を視線で示し、何処か縋るような視線をクーフーリンに向ける。 「出来ぬ。主の名を騙り、主の城を我が物顔で闊歩する者があれば、槍を向けるは当然の事だ」 「偶然だってば。何となく髪を伸ばしたくなって、何となく名前を変えたくなっただけ。それなのに、ひどいな」 シイナはクーフーリンから視線を外す。物憂げに、ふっと溜息を零して微笑する。 クーフーリンは表情こそ変えないものの、偽の主の寂しげな微笑みに罪悪感めいた感情を抱いたのは、微かにぶれた刀身からも容易に分かるというものだった。 今度こそアツロウは、義に厚い妖精の騎士に、心底同情を寄せた。 「外してくれたら、好きだよって囁いてあげても構わないけど」 「戯言を…」 「えぇ?何怒ってるの、嫌なの?」 何故ならそれは、余りに残酷な言葉だ。 シイナは、この騎士が想いを秘め続けている事も、そうまで親密な関係に至っていない事も、すっかり見透かした上でそう告げたのだ。 「あ、そうか、ゴメンゴメン、気が付かなかった」 少しだけ、アツロウは悲しくなった。 「愛してる、の方がよかったね」 膝を折り、踵で地面を強く蹴った。 「だって、一度も言われた事ないんでしょう?」 その嘲笑を見たくなくて、帽子を目深に下げながら。 「貴様…ッ…!!」 騎士が激情のままに槍を振り上げたのを、アツロウの異形の腕が止めたのは、この時ばかりはシイナを守る為ではなく、 「それぐらいにしといてやれよ」 「止めなくてもよかったのに」 「やり過ぎだ、こういうの、俺は正直どうかと思う」 シイナの心を、汚さない為だった。 槍の柄を掴んだまま、アツロウは苦い顔でシイナに言った。 アツロウはシイナの親友であって、隷属するだけの部下では無い。 アツロウはシイナの騎士だが、ナオヤからお目付け役を任せられるぐらいには、限りなく対等に近い立場にある存在だ。 「そっか、ゴメン」 シイナは意外なまでに素直に、少し驚いたような顔で慌てて謝罪する。 「アツロウは、こういうの嫌だったよね、ゴメンね、本当に」 「いいよ、思い出してくれたんならさ!」 「うん」 快活に笑うアツロウに、シイナも穏やかな微笑を向ける。 シイナは魔王で、人心を弄ぶ事も厭わないが、アツロウはシイナが魔王になる以前から、シイナの友を自認してきた。 シイナの本心からの謝罪は、決してクーフーリンに向けられたものではないが、彼がシイナを傷付けずに済んだ事は、少なくともアツロウにとって喜びだった。 「お前も、今のは聞き流してくれよ。簡単には無理かもしれないけどさ、そうするのが一番いいんだよ」 言いながら手を離すと、槍を携えた腕がゆっくりと落ちる。 顔を伏せている為表情は窺えないが、相当堪えているのは事実だろう。 「ごめんな、シィももう、今みたいなのはしないと思うから」 クーフーリンの肩を叩き、アツロウは小さな声で呟いた。 さて、これからどう事を運んだものか。 アツロウは思案する。シイナはすっかり目の前の存在に興味を失くしたようで、面白い物を探して周囲をウロウロしているが、見つかってしまった事実に変わりは無い。 「…ロキに出くわす前に、できたら帰りたいんだけど…」 そう簡単にはいかないだろうなと、密かに溜息を零す。 どうせならそう、天敵のロキに出くわすより、そうだ、異界のナオヤに出くわした方が。 そんな風に考えていた矢先、シイナが突然足を止めた。
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