あちらとこちら |
「異界のカイン、つまらない情報寄越したら、タダじゃ済まさないから」 言いながら、伸びた襟足を指でなぞる。アツロウは『あ』と声を上げ、宙を見上げた。 花弁が散るように濃紺の髪が幾筋もふわりと舞って、掻き消える。 「よくよく考えれば、写真なんていつでも撮れるしね。あー、すっきりした」 シイナは異界の魔王の化生を解き、これで満足かと言わんばかりに口端を上げた。 「ほう?いい子だな、しい」 「ハッ、バッカじゃねーの、黙れよニセモノ。無駄口叩く暇があったら、早く案内してよね」 「急かすな、全く、つくづく躾がなっていない」 異界のナオヤは背を向けると、ついて来いと足早に歩き始めた。『バァカ』と唇の動きだけで毒を吐いたシイナは、だが大人しくその後に続く。 「い、行くのかよ、シィ…!?コレ、如何にも罠臭いだろ…!?」 「うん、そうだね、それが?」 「えぇええ…!?」 慌ててシイナの隣に並び、アツロウは当然の疑問を投げかけたが、シイナはそんな事は百も承知で、異界のナオヤの誘いに乗ったらしい。 単なる好奇心か、何か策を巡らせているのか、涼しい表情からは読み取る事ができない。 シイナが大人しく化生を解いたのも、アツロウの中では気持ち悪い引っ掛かりとなっているのだが、尋ねた所で本当の所は分からないだろう。 もしかして、理由らしい理由も無いのかもしれない。 化生を解いたのは、異界の魔王と同じ格好が気に入らないから。いや、首の後ろが暑くて鬱陶しいから、か? 誘いに乗ったのは、尻尾を巻いて逃げるみたいで癪だとか、その程度かも分からない。 シイナの行動に整然とした理由が伴う事は、よくよく考えれば少なかった。だが、敵の本拠地に二人だけで乗り込んで、果たしていいものだろうか。 行動自体に理由が伴わなくても、シイナはナオヤの為にしか、その身を危険に晒さない。 ニセモノ呼ばわりしている異界のナオヤの言葉を真に受けたという事は恐らく無いだろうが、シイナが敵地に乗り込む事を決めたのは、やはりナオヤに何らかのメリットを与える事ができるという判断からだと思われる。 (ならそれこそ、ナオヤさんに指示を仰いだ方が…) 今頃あの人は何をしているだろう、もし五分ぐらい時間が取れるなら、ヒュッとこちらに来て、ヒュッとシイナを連れて帰ってはくれないだろうか。 他ならぬナオヤが迎えに来れば、シイナは喜んで帰るに違いない。 何だ、そうだ、ナオヤが来てくれればそれだけで、この一見厄介な問題は終結するのだ。 (それが分からないあの人じゃないだろうになぁ…) どうせあのナオヤの事だ、こちらの様子は全部お見通しに違いない。 にも関わらず現れないという事は、ナオヤが暗にシイナの破天荒な行動にゴーサインを出している証拠だろう。 やっぱり行くしかないのかと、アツロウは、随分とすっきりした印象のシイナの襟足をぼんやりと見つめながら、重い足取りで前へ前へと歩みを進めていたのだが、 「アツロウ、やっぱり帰る?」 「へ?」 突然くるりと振り返り、シイナが可愛らしく首を傾げてそんな風に尋ねたものだから、呆けた顔をして、数歩と経たずに立ち止まる事となった。 「帰る?って訊いたの。聞こえなかった?」 シイナは重ねて、帰る?と繰り返した。心変わりをしてくれたのだろうか?一度体勢を立て直すべきだと、思い直してくれたのだろうか? 理由なんて今はどうでもいい。アツロウに与えられた最も重要な役割は、シイナを守る事だ。アツロウをよく知るナオヤなら、シイナを危険に晒さない為に此処で帰還を選ぶ事も、よくよく考えれば計算づくかもしれない。アツロウを試しているから、ナオヤが来ないという線は、あの人の性格を考えれば捨てきれない。 とにかく、これで危機を脱する事ができる。 まだ近くにいるだろう異界のロキにも出くわさないし、異界のナオヤとシイナが何らかの切っ掛けで再度戦闘を行う事も、ひとまずは回避できるではないか。 「おお!もちろん!!帰る、帰るぜ、今すぐにでも!!」 だが快活に頷いたアツロウに、シイナは一変して白けた眼差しを向けて、呟いた。 「…ふぅん、そう、やっぱり。内心面倒くさいとか思ってたんだ…」 「……れ??」 「首が千切れそうなぐらい縦に振る程、俺の護衛はキツかったんだね。マジでその首、皮一枚残して切れ込み入れてあげよっか?」 「い、いや、シィも一緒に、帰る、よな…??」 「は?何言ってるの?俺はこれからお偉い異界のカイン様に、丁・重・に、もてなして貰うんだから」 「ぅええええ…!?」 「ッ…」 そういえば同行していたクーフーリンは、どうやら自身の主人との落差に堪え切れなくなったようで、無言でサッと顔ごと背けた。対してアツロウは、にこりと笑顔を作るシイナが恐ろしくて視線すら外せない。 さっきのは、アツロウ『は』帰る?の意味だったのか。 いや正しくは、『アツロウ帰らないよね?一緒に来てくれるよね?友達だもんね?』か。 (シィ、幾ら付き合い長くても、それ、ちょっと言葉が足りないような…) 「いいよ、帰りたければ一人で帰りなよ、止めないから」 冷や汗を垂らして凍りついているアツロウを、図星を突かれたと判断したのか、シイナは軽く肩を叩いてスタスタと追い越した。当然、アツロウは大慌てで追い縋る。 「ムリムリムリ!!お前置いて戻ったら、俺間違いなくナオヤさんに殺される!!」 「あはは、面白そう!いいよいいよ、帰りなよ!帰りたいんでしょー?」 「シィ〜…!冗談キツイって…!つか、こんな事言ってられる状況だったっけか…!?」 既に数メートル先の曲がり角で、壁に背を預けて待ちぼうけている異界のナオヤは、ちらりとアツロウに意味ありげな視線を送った。同情のような、蔑みのような。 「…いや、慣れてるっちゃ慣れてるんで…ね…」 「何?今の独り言??」 「あ、いや、何でもない…、つか、行くなら行くで、早くしようぜ…?あの人、後からうるさそうだし…」 「そんな必要ある?」 「だ、だってさぁ…」 シイナが怒るだろうから黙っておいたが、異界のナオヤもナオヤである事に違いないのだから、と、アツロウは歩調を速めるが、シイナはクスクスと笑いながら、常よりゆっくりと、焦らすような緩慢さで一歩を踏み出す。 「寧ろこの方が、異界のカインも嬉しいんじゃない?」 「は?」 シイナの発した言葉の意味が、アツロウにはよく分からない。 だが、異界のナオヤは、何を言わんとしているかすっかり見通しているみたいに、唇をニタリと歪めた。 「なるほど。猛獣の割には、多少頭が切れるようだな?そうでなくては」 「どういたしまして、ブサイクで出来の悪いニセモノさん。全ッ然嬉しくないけどね」 異様な緊張が、一瞬で場の空気を凍らせる。シイナと自分との他愛の無い問答に、気紛れ以外の理由らしい理由など、無いと思っていたのに。 「時間稼ぎにはまだ不十分だ、来い、貴様らには過ぎる上等な茶でも飲ませてやろう」 「じ、時間稼ぎ、って…、シィ…!?」 シイナは冷笑を浮かべ、困惑するアツロウの耳元で囁く。 「面白くなりそうでしょ?」 背筋にゾクリと、冷たいものが走った。
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