声なき声で泣く。
涙しても、立ち止まらない。
だって、それがここで生きるということ。

戦場独特の空気。戦の前に感じるこの感情をどう表現したらいいかわからない。高揚するような、怯えるような、どくどくと波打つ鼓動と、僅かな震えが伝える気分を、なんと言うのかわからない。
物事に聡明な若き軍師の友人であれば、或いはそれに名前を付けることが出来たかも知れないけれど、凌統の中にそれを表す言葉はなかった。
ただ、それを凌統は嫌いではなかった。
別段戦好きという訳ではなかったけれど、そういう空気やそこにいる自分というものは好きだった。
けれど、その時の気分はと言ったら、どこか死刑台の上に立たされているような気分で空恐ろしくなる。
何かがある。この戦で、何かが起こる。
それは直感であり、経験と分析に基づいた予想でもあった。
冷静であれ。勇敢であれ。戦場に立つ凌統に告げられた心得を今も律儀に守っている。
軍を率い、拠点を攻め、将を仕留め、勝ち戦を貪欲にまで求める。そこに自分の葛藤や迷いはあってはならない。
自分を省みるよりも主君を見ろ。主君が倒れるまで倒れるな。主君が立っているなら最後まで戦え。主君を守れなかったのなら、恥じて死ね。
今は亡き父より教わったそれは、凌統の中で深く根付いている。
だからこそ、凌統は孫呉が勝つ為に思いつく限りの手を打たねばならない。幾重にも策を重ねて、重ねすぎるということはない。
負ければ次はない。そう思って動くべきなのだ。

「何か不安なことがあるのか、凌統」

幕の近くの木陰で気に背を預けてぼんやりとしていた凌統に声が掛かる。
気遣わしげな声に顔を上げれば、仕えるべき人がしゃがみこんでいた。

「孫権さま。」
「どうした?」
「どうした?じゃないですよ。殿ともあろう人が何やってんですか」
「私は確かに孫呉の君主だが、それ以前にお前の兄のつもりだよ」

聡明な君主。血縁も何もない凌統を彼は弟のように扱う。幼い頃から面識があり、恐れ多いことに一緒に遊び、育ってきた所為か彼はとても凌統のことを気にかける。
戦場であれ、軍議の場であれ、日常であれ、立場の違いをわかっているのか、と不安に思うほど気さくに声をかけるのだ。
それを、凌統だって嬉しいと思う。困ることも多いけれど、嬉しく思う。
ただ、知に長け、守ることに長ける心優しい君主が、有事の際に正しく自分を盾として使ってくれるのかが不安だった。

「大分、思い悩んでいるようだったが」
「今回の戦、あんまり乗り気じゃないんでね」
「そうか。お前ならそう言うだろうとも思っていたよ」

君主が決めた戦に口出しをするなんて相手が孫権でなかったなら許されないだろう。
けれど凌統がそれを口にしたのにだって理由がある。そしてそれを孫権もわかっている。長い年月をかけて培われた絆があったから。

「蜀の利益になることの方が多いからか」
「はい」
「だが孫呉の為にもなる戦だ。それもわかっているのだろう?」
「ええ。だから戦場に立つことに不服がある訳じゃないんです」
「ふむ」
「嫌な予感がするんです。確かにこっちは大軍だ。よほどのことがない限り、こちらが勝つと思いますよ。けど、そのよほどのこと、が起こりそうな気がする」
「気をつけよう。お前の予感は当たるからな」

ふ、と笑う音がして、それから頭上に手が下りた。
いいこ、いいこ、と幼い子にするような様子で凌統の頭を撫でる。彼はいつだってどこかしらに甘露を忍ばせてやってくる。
振りほどくことも出来ずにされるがままでいると、手を止めて、孫権が真剣な表情をした。

「早く誰も傷つかない世界になればいいな」

そうしたら、お前も私も死と隣りあわせで生きることはないのに。

心優しい人。時に非情であることを求められる君主に、彼は本当は向いていない。
先代の殿は戦好きで、攻めることに長けていたけれど、彼はそうではないのだ。国を導き、安らかであらんと尽力する彼は、内政に向いている。戦下手かと言えばそうではないのだけれど。

「孫権さま」
「なんだ?」
「有事の際には、俺を盾にしてでも生きてくださいね」

彼が眉を顰めたのには気付かないふりで、凌統は立ち上がった。
踏み台にしてでも生きろと言うのは酷かもしれない。けれどそうでなければならない。間違っても部下を庇うような君主であってはならないし、庇われるような部下であってもならない。
予感が外れればいい。当たったとしても、孫権さえ生きてくれれば立て直すことが出来る。部下の替えはきいても、君主に替えはそういない。ただでさえ先代先々代と早世したのだ、彼には生きる責任がある。
そして凌統には彼を守る責任があった。

戦の始まり。
順調であったはずの戦運びに、それを脅かす一騎の将。
かつて呂布に仕え、今は魏に仕える、強き将。
本陣への、奇襲。

冷静であれ、勇敢であれ。必死に言い聞かせた。
疲労が体を襲うけれど、孫権はまだ立っているのだ。自分が膝を付く訳にはいかない。
お逃げください、と叫び、請う。
強く強い敵の将。一騎打ちでも勝算があるかどうかわからないのに、孫権を庇いながら、かの将の引き連れている兵も相手にしていたのではそんなものあるはずがない。
父の代より引き継いだ兵が一人、また一人と倒れていく。
早く逃げて。心優しきことが己の退路を断つことを、孫権だってわかっているはずなのに。それでも彼はまだ、後ろを気にするのだ。凌統の武器が音を立てる度、彼は自分の名前を呼ぶ。

「孫権さま、橋を渡って逃げてください」
「しかし、…それに橋が」
「橋なんて必要ですか?」
「しかしお前は」
「いいから早く!必ず後を追いますから!」

彼が迷っているのが橋の有無ではないことくらい凌統だってわかっていたから、殊更早く、と急かした。
少数でも精鋭であれば多数を討ち取ることくらい訳がない。そして対峙している将の連れる兵は紛れもなく精鋭で、彼は死線を何度も潜り抜け、乱世を生き抜いてきた勇将だ。時間を稼ぐことが今の凌統には精一杯だった。
冷静に力の差を分析して、果敢に立ち向かう。
ほら、父上。俺、教え通りやれてるでしょう?

「ここは通さないよ、張遼さん」

そして多くを失った。

              

「孫権さま」

痛みの中眼を覚ますと、死人のような顔で凌統を覗き込む孫権の姿があった。
どうしたんですか。問おうとして、喉に突っかかるような感触があることに気付く。視界が狭いのは、巻かれた布の所為だ。
そして痛みは。

「眼を覚まさないのではと心配したぞ」

抱きしめられる。
殿と呼ばれる人がそんなことをするものではないと言うべきなのに、言葉が出てこなかった。
多分、本当に危なかったのだ。
死を覚悟していたのだから、それも仕方のないことかもしれないけれど。多分本当に死の淵で彷徨っていた。やけに頭が痛いから、大分長い間眠っていたのかも知れない。
謝るべきだと思った。心配かけてすみません、もう大丈夫です。けれどやはり言葉は出てこない。
だって思い出してしまったから。

失ったもの。人。気のいい、凌操の時代からの兵たち。
時に優しく、時に厳しく、どこか家族のような、暖かい人たち。

「泣くな、凌統」

涙の理由を、きっと孫権は知っている。
主君を守れたのだ、誇るべきであって、泣くようなことではない。けれど。
予感があった。そうなるのではという危惧をもっていた。それなのに何も出来なかった。
もう少し自分が聡明で、もう少しそれを踏み込んで対策を立てていたら、失うことはなかったかもしれない人たち。
後悔をしてはいけない。前を見なければいけない。だからこれは、自責の涙であってはいけない。将としてそれは許されない。そう、わかっているのに。
服の袖で凌統の涙を拭いながら、孫権が言う。お前が生きてくれてよかったと。心優しき主君は、やはり甘露を忍ばせて、凌統を包み込む。

「今回の戦では多くの兵を失った。…死んだ者は戻らない。私も、後悔ばかりしている訳にはいかない」
「……」
「私にはまだお前がいる。それで充分だ。何度だって立て直せる。孫呉は強いからな」

それはどこか、自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
涙がどっと溢れてくる。最早視界すらなくなって、立場も考えずに孫権にしがみついた。
父を失ったときのように、ただ泣いた。声なき声で泣いた。
孫権は何も言わなかった。時折背中をあやすように撫でる手だけが、優しく何かを伝えていた。
将である凌統も、君主である孫権も、後悔することは許されない。乱世とは、国とは、犠牲に涙することは許しても立ち止まることを許してはくれないのだ。
口に出せば、それはみっともなくも言葉になっただろうけれど、最後まで形になることはなかった。
将であり、君主であった彼らは、だから互いのぬくもりだけで慰めあった。

              


ずっと書きたかった孫権さまと凌統の合肥の戦の後の話。
史実であんなに仲いいんだから無双でももっと仲良くしてくれたっていいじゃないか。
「死んだ者は戻らない。だが私にはまだ公績がいる。それで充分だ」…ネタだと思うよね、普通。

2010/10/27 改訂

               

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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