薄々何処かで分かってはいた。
最後の日を迎える前に、その選択を強いられるのは自分だと、何故自分なのか、酷く理不尽だと思いながら、諦めにも似た確信を持っていた。海の真ん中に一人で漂っているような、そんな気分だ。
大きな波には、幾ら手足で水を掻いても、結局逆らう事はできないのだ。
陰鬱な溜息が無意識に零れる。数日で熱帯夜にも慣れて、冷房の利かない避難所の中より、温い風が時折吹く屋外を、過ごしやすいとさえ思うようになってしまった。
人として、これはどうだろうと思う一方、人としてはこちらが正しい姿なのかも、とも考えた。環境破壊が何だとか、昨今毎日のようにテレビで騒いでいるが、こうして強制的に文明を麻痺させてしまえば、案外に生きられるものなのかもしれない。
(だったら、日常に戻る意味はあるのかな)
いけない、今何を考えた?
病んでいるな、とレンは自嘲気味に口端を上げる。参っているのかもしれない、こんな風に、自分の力で何かをし続けた事は、そういえば余り無かった。
自分のよりもずっと大きな掌が、困っている時は何処からかすっと伸びてきて、小さなレンを助けてくれたのだ。
(ナオヤ)
レンは胸中で、実の兄のように慕っていた、従兄の名を呟いた。
ナオヤは七つも年が離れていた所為もあるだろうが、いつもレンの世話を焼いてくれていた。今思えば甘え過ぎだったかもしれない。レンが頼るとナオヤは何処か嬉しそうにしていたから、いけない事だとは思わなかったのだ。
久しぶりの再会を果たしたナオヤの様子は、レンが知る物と異なっていた。
仲間達は身勝手な言動に憤ったが、レンは、そんなナオヤを心配だと思った。
追い詰められている、何かに追いかけられているみたいだ。ナオヤはがむしゃらなまでに、レンを望む道に引き込もうと躍起になっていた。
魔王になれと、実に突飛な事をナオヤはレンに願ったが、アマネに憑依している天使も、それから親友のアツロウも、レンに進めと願っている道は同じぐらい大層なものだ。
普通魔王になれとか身内から本気で言われれば、天地が逆さになったぐらい驚いたって責められないだろう。
だけどナオヤは、いつかそんな事を言い出すと、レンは漠然と、ずっと前から覚悟をしていた気がする。
驚いているのは従兄の願いより、その選択に傾きつつある自身の心だった。それは同情とか憐れみでは、無いと言い切るには自分に対して自信が足りない。
それでも、レンの心は、レンの預かり知らぬ所で、既に決意を固め始めてしまっている。
魔王になれば、悪魔達は皆レンにひれ伏すとナオヤは言っていた。その力を利用して封鎖を解けば、結果としてヒトは救われるとも。
その言葉に、恐らく嘘は無いだろう。切迫しているナオヤに、嘘をつく余裕があるとは思えない。それに手段はどうあれ封鎖さえ解かれれば、家に帰る事を願って止まない幼馴染のユズの願いだって、叶えてやれる。
小さい頃から一緒だった彼女の笑顔が曇るのは、レンにとって苦痛だった。もう一度笑ってくれるなら、魔王になったって構わないと思う。
だけど、とレンは考える。
(それなら、アツロウが言っている方法でも、構わないはずなんだ)
召喚サーバーを見つけ出し、悪魔達を制御する。
レンでは無く、サーバーがそれを行うだけであって、期待できる結果に大きなずれは無い。
当事者にならずに済むという事は、元通りの日常に戻れるという事だ。
友達がいて、たまに従兄の家に遊びに行って、みんなが笑って過ごせる世界が、手を伸ばせば取り戻せる位置にまで近づいている。
何よりアツロウは親友だ。数少ない友達の中でも、一番の友達だ。
きっと彼の望む道を選んでやれれば、彼もまた、レンの願い通りに笑ってくれる事だろう。
(でも)
レンはきゅっと唇を結び、やがて大きな溜息をついた。
どうすればいいのか、分からなかった。
「主よ、如何された」
その時、レンの頭上から凛とした声が注ぐ。
「…クーフーリン?」
驚いた。膝の間に埋めていた顔を上げれば、目が覚めるような青が其処にあった。
レンと共にこの数日を戦い抜いた幻魔、クーフーリンである。何故彼が此処に、と、レンは困惑した。今は戦闘時でもなければ、召喚プログラムを起動した覚えも無い。
だが、クーフーリンは其処にいた。レンの目の前に、手を伸ばせば触れられるぐらい近くに。
「どうして…」
古の騎士は答える代わりに槍を地に立て跪き、ごく自然にレンの手を取ると、その甲に口付けた。忠誠の証だと彼は言うが、今は何か違う意味があるように感じ、レンは曖昧に微笑んだ。
「もしかして、…慰めてくれてるの?」
それは彼の手の温もりだとか、いつも以上に壊れ物を扱うようにそっと添えられた掌だとか、人で言うところの優しさのようなものを、確かに感じてしまったからだ。
クーフーリンの瞳は、一見すると思考を読み取るのが難しい。ただ一度瞼を伏せ、こちらに再度向けられた眼差しを、レンは、暖かいと感じた。
「分かりかねる。ただ、こうしなければならない、私の内の何かが、そう命じたのだ」
「そっか」
淡々としていながらも、その声はレンに安らぎを与える。レンはにこりと笑い、それから、困ったように眉を下げた。
「…それは多分、オレかもしれない」
主語を欠いた意地悪な言葉だったが、クーフーリンは全て承知していると言った風に、小さく頷く。
「差し出がましい事を言うが、私も、あなたと同じ考えだ」
「契約だからね、そういう」
そうだとも、違うとも、クーフーリンは何も言わなかった。『ごめん』とレンは小さく呟く。
命じられれば従う。生贄を代償に呼び掛けに応じた悪魔は、召喚者に逆らう事が原則的にできない。こんな風に傍にいてくれるのも、レンが何処かでそうしてほしいと望んだから、彼はそれに従っているに過ぎないのだと分かっている。
「…隣、座ってくれる?」
「御意に」
生真面目な彼の返事に、レンは笑った。
「いいって、そんな。一々言わなくても、座ってくれるだけでいいんだよ」
電気の供給が途絶えた街は真っ暗だ。月明かりも、ちらちらと空を流れる赤い粒子に阻まれていて(闇の中でもはっきりと赤いと分かるのが不気味だと思う)、暗闇を照らす事ができるのは、もうCOMPのバックライトぐらいだった。
レンとクーフーリンは、公園のベンチに並んで座っている。
レンが手を差し出せば、クーフーリンは当たり前のように手を重ねた。
篭手から伸びた細い指が、遠慮がちにレンの小さな手を握る。レンは頬を仄かに染めて、はにかんだ。
「デート、みたい」
「…デート、とは?」
聞き慣れない単語にきょとんとしているクーフーリンが面白くて、レンはぷっと吹き出した。
「好きな人同士が、二人で楽しく過ごす事、かな」
そう答えたレンに、彼は少しだけ怪訝な顔をしたように見えた。
「主は、私とただ座っている事が楽しいのか」
クーフーリンは、暗闇を見つめたまま言う。
しっかりと握られたままの手に視線を落とし、レンは呟いた。
「…みたいだね」
「しかし、あなたは悲しそうだ」
呆然と目を見開いて、レンは彼の横顔を見た。
「…クーフーリンこそ、悲しそうだよ」
「なら、私達は同じだな。これで少しは、あなたの気が紛れればいい」
レンは言葉を失くす。瞳は真っ直ぐ前を見ているのに、彼は、レンと同じだと答えた。
悲しいのだ、彼は。何かを嘆いている。
そして自分も、何かを悲しんで、嘆いて、恐れている。
その悩みでさえ、同じなのでは無いかと思えた。
「主よ、私などに構われるな」
名を呼ぼうとした瞬間、クーフーリンはレンに告げた。え、と声を上げたレンを、澄み切った人ならざる瞳が捉え、心まで射る。
「あなたが歩もうとしているのは、修羅の道だ」
淀み無く、騎士は言った。言外に込められた意味に、レンは小さく息を呑む。
気付いているのだ、彼は、レンが下そうとしている決断に。
「…どうして知っているの?」
「…あなたが私に、それを知る事を望むからだろう」
「そっか」
溜息と共に吐き出し、レンは俯き、肩を落とした。
今彼が言った理由は、恐らくは嘘だろうと思った。少しだけ、口にするまでに、彼にしては長い時間が掛かったし、レンが望んだのは彼の言葉とは違う事だった。
ただ、彼が同じように悩んでいるか、それを知りたかっただけだ。
「やっと分かった」
「分かった、とは?」
「オレが、どうしてナオヤの望む道を選ぼうとしているのか。他にも方法はいくつもあるのに」
ね、と首を傾げて微笑んで見せれば、クーフーリンは苦しそうに、眉間に深い皺を刻んだ。
「一時の情に、あなたは流されているに過ぎない」
「そうかもしれないよ、だけど」
「我らの為に、あなたが全てを投げ打つ事は何も無いのだ」
「だけど、」
繰り返される静かなやり取りの中、レンの瞳に薄く涙が滲む。クーフーリンの浮かべる苦悶は、それを目の当たりにし、一層深いものとなる。
「…一時の、って、本当に、言い切れるのかな…?」
オレには無理だと、レンは緩く首を横に振った。静かな夜だ。喧騒とは無縁の街。
息をしているのは自分達だけかもしれない、そんな錯覚に囚われるようなこの街の中、密やかに、レンは彼の頬に口付けを落とした。
「…主」
草木も寝静まる真夜中だ、この瞬間を知るのは、二人だけだろうと思う。
「よかった、…怖い顔、直ったね」
潤んだ瞳を細めて、レンは笑った。驚きから表情を失くしたクーフーリンは、それを指摘されると、何処か気恥かしそうに俯いた。
くすくすと、レンはそれが可笑しくて小さく笑う。だが、胸の内に落ちた一抹の寂しさを、どうしても拭う事はできない。
笑みが消え、下唇をきゅっと噛み締めた時、彼はゆっくりと口を開いた。
「主、私は、ヒトが悪魔と呼ぶ生き物だ」
「うん…」
余りいい話では無いだろう事を分かりながら、レンは微かにそう答えるのが精一杯だ。
「今はあなたに律されている、だからあなたに決して牙を剥かぬ。それは永劫変わり無いと、しかし、私は確約する事ができない」
「……」
今度は答える事もできない。忠誠を誓うと彼が言ったのは、つまりは契約がそれを義務付けたからに他ならない。
レンと彼の出会いは、たったの数日前であり、ならば彼の言葉はもっともだと、『そんなのは嫌だ』と子供みたいに喚く部分とは別に、強い客観性を持った自分の異なる場所が、やけに冷静に思ったのが嫌で堪らなかった。
「私は契約によって縛られる、それは私が契約によって召喚された、悪魔である故だ」
確約してよ、そう心の中で願ったが、レンの望みを忠実に叶えるはずの彼は、瞳を伏せて、繋ぐ手の力を少しだけ強めただけだった。
「だがもしも、この契約が破れ、他者に縛られる事があったとすれば、私には、死を以ってそれに抗う覚悟がある」
「やめてよ、そんな話…」
「それが、私なりの忠誠の証」
聞きたくないと耳を覆いたくても、片手は彼に包まれたまま、レンにそれを許さなかった。
だから、と、彼は吐息だけで一度呟いた。
指先が、微かに強張ったのが分かった。
「だから、あなたは光の満ちた世界へと帰るべきだ」
「…そんな…」
「私はあなたに決して槍を向けぬ。これは私の勝手な意地でしか無いが、だからこそ、他者の思うようにはならないだろう。約束する」
「だからって、嫌だよ、そんなのは…!」
悲痛に声を荒げたレンは、握られた手を振り解いた。ぶつかるように彼の胸に飛び込み、背中に腕をぎゅっと回す。
「…後から気付いたら、…オレはどうしたらいいの…」
「…主…」
掠れた声で呟いたレンの頬に、つ、と涙が伝った。
「キミの事が大事だったって、…本当に大好きだったって、……キミのいない世界で気が付いて、そしたら、……どうしたらいい…?」
「それは、」
「もう一度、こうして逢う事ができる?」
「…それは…、」
「無理に決まってる」
遮ったレンは、彼の胸に顔を埋めて、子供のようにひっくひっくと泣きじゃくった。
「普通の人間に戻ったオレには、何もできないよ」
「しかし…」
「…行かないでよ、そんな別れは嫌だ。嫌だよ…!」
支離滅裂だと自分でも思った。嫌だ嫌だと駄々をこねて、こんな風に縋りついて、まるでこれでは、そう。
(愛を誓った恋人との、別れを惜しんでいるみたい)
答えは簡単だった。どうして悩んでいるか、どうして、恐らくは誰もが望まない道へと進みたがっているのか。クーフーリンが言った。修羅の道だと。ヒトである事を捨て、神へと刃を向けるは、修羅以上に険しい地獄の道であるかもしれない。
どうかしている。
たった、たったの、そう。たったの二日だ。思い出せば、レンが彼を喚び出したのは、数日どころか僅か二日前だ。
時間にすれば、四十八時間。それだけで、誰かを本気で愛する事ができるものだろうか。そもそも、愛とはどんな形で、どんな色をしたものだろう?
まだ子供なのに。全然、分からないのに。
「離れたくないんだ、クーフーリンと…」
それでもレンは、彼と共に在りたいと心から願った。
ただ唇を触れ合わせるだけの幼い口付けが、愛している証明になるとは思わない。だがレンには、伝える方法をこれぐらいしか思いつく事ができなかった。
嗚咽を殺し静かに涙を流すレンを、クーフーリンは振り解かない。拒絶の言葉をぶつける事も無い。
嫌いになってくれたらいいと、そうしたら悩まなくていいのにと、確かに思ったのに、だ。
彼は最初から嘘をついていたと、レンはようやく気が付いた。
(来てくれたんだ)
契約では無い、だってレンは知っている。
彼は、とても優しい。
たったの二日間だって、その事を知るには十分過ぎる時間だった。
(ごめんね、ごめんね、話さなければよかったね)
包み込むように回された、いつもレンを守ってくれる彼の腕は頼もしかった。
「あなたの涙を見たくはない、泣くな、…主」
懸命に選ばれた言葉は、不器用だけど、レンの心を癒してくれた。
(ごめんね、けど、オレはやっぱり、)
『傍にいたい』。
声には出さずに囁いた願いに、彼は確かに、とても、悲しそうな顔をした。
それでも抱き締めてくれた事、傍にいてくれた事。
忘れないよ。
(ああ、やっぱりオレは、キミの事が――)
ごめんなさいと、誰にも聞こえないように、小さく呟く。
レンの心は真っ直ぐ前を見据え、そして、ゆっくりと歩き出していた。

              


EISTの月代さまから相互お礼として素敵小説をいただきました…!(感無量)
クーフーリンが男前です、レンがえらく可愛らしいです、も、ほんと、何度言っても言い足りないんですけどありがとうございます!
海老で鯛を釣ったと言うか、ミジンコで鯛を釣り上げてしまった気がして申し訳ないです。
多分今年使える運は使い切ったな…!

              

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル