忘れるな。お前は人の命を奪ったんだ。
忘れろ。もう充分苦しんだだろう。
欲しい。あの優しさに触れたい。
欲しがるな。お前にそんな資格はない。ぐるぐるぐるぐる堂々巡り。
自分には忘れてはならない罪過があり、けれど忘れてしまいたい衝動に駆られる時がある。
欲しいと願うただ一人の少女は自分が欲しがるには分不相応な存在だった。
期せずして触れ、知ってしまった絆への未練が、揺らいではならない覚悟を揺さぶる。
ああ、どうして、お前はそんなにも俺を惑わせるんだ。
「唯は、荒垣先輩が好きです」
必死そうに告げられた言葉は、鋭い痛みと共に甘い痺れのようなものを荒垣にもたらした。
突き放さなければいけない。自分はもう長くないし、過去の自分が犯した罪を命で以って贖う覚悟もしている。そんな人間が、彼女の優しさに縋っていいはずがない。
そうだ。突き放すべきだ。
唯を抱きしめたがる手を必死に抑えて、突き放す。けれど突き放しても突き放しても唯はただひとことを繰り返し荒垣に訴えた。
「唯のいうこと、信じられませんか?」
「荒垣先輩が好きなんです。だから一緒にいたいんです」
「先輩の部屋に、連れていってください」
今にも泣きそうに潤んだ瞳に逆らえず突き放しきれなかったのは自分の甘さか。
誰とも関わらずに生きることを決め、死を覚悟した自分は、そのくせ彼女の優しさにこんなにも救われたがっている。
「…どうなっても知らねぇぞ」
ああまったく。笑い話にもなりゃしない。
「荒垣せんぱ、…」
抱きしめたかった。狂うかと思った。限界だった。
部屋に迎え入れてもすぐに帰す気だった。それで唯の気は済むと思ったし、帰してやらなければならないということもわかっていた。
(…嘘だな、そりゃ)
帰したくなんかなかった。腕の中に閉じ込めて、そのぬくもりに触れたかった。それが自分の望みだ。嘘偽りない本心だ。
「荒垣先輩…?」
「どうにかしろよ…自分じゃもう、どうしようもなんねぇんだよ…」
「せんぱ…」
「寝ても覚めてもお前ばかりで、どうにかなっちまいそうだ…」
「あ…」
戸惑ったような声は、けれど荒垣を制することない。抱え込むように回した腕に遠慮がちに手が伸びる。
手が触れた瞬間、なぜか泣き出したいような気持ちになった。
このままでは駄目だとわかっている。彼女に触れてはならないとわかっている。
自分の罪過を、嫌というほどわかっている。
脳内で鳴り響く警鐘に混じって、もう一人の自分が囁いた。
『忘れるな、お前は…』
「……っ…」
腕を放し、解放する。
身が引き千切られるほどの痛みをやり過ごして、唯から離れ、片手で顔を覆う。
驚いたように自分を見る唯の瞳を、見ていられなかった。
「帰れ。…頼むから、帰ってくれ。…でないと、帰してやれそうにない」
これが最後だ。唯が帰ると言ったなら、自分はもう、二度と彼女に関わらない。それがきっと、互いにとって最良の選択だ。
最後の警告だ。帰らないと唯が言ったなら、愚かな自分は彼女を手放せなくなる。そうなっては必ず後悔する。
帰ってくれと願い、帰らないでいて欲しいと祈った。
矛盾だらけの自分に荒垣が自嘲の笑みを零すと、唯は荒垣に向き直り、そっと抱きついた。
「…帰りません。唯は、荒垣先輩の傍にいたいです」
そう言って唯は笑った。
荒垣自身も、笑い出したいような、泣き出したいような、よくわからないけれど、そんな気分だった。
ただ目の前の少女が愛しくて、まっすぐ愛せない自分が苛立たしくて、けれどそのぬくもりに触れたくて。
けたたましく喚き散らす警告の鐘を蹴り飛ばし、糾弾するもう一人の自分を力づくで黙らせた。
「…もう一度、俺を好きだって言え」
「荒垣先輩が好きです。だいすきです」
「ああ…」
顎を指先で持ち上げて口付ける。触れた瞬間、毒々しいまでに甘い痺れが身体を駆け巡った。
好きだと告げる唯の声に一瞬すべてを忘れてしまいそうになった。
犯した罪も、薬の副作用に蝕まれた体も、血を吐く思いで固めた覚悟も、ほんの一瞬、たったひとことで消え失せそうになる。溺れてしまいそうになる。
触れてはいけないとわかっていた。大切だと思う気持ちは自分の中に閉じ込めておかなければならないと、決して彼女を哀しませるような真似はしてはならないと自身に言い聞かせてきた。
(全部無駄だったな)
何も残さないで逝くと決めたはずなのに。一度触れたら、もう抑制が効かなかった。
何度も何度も口付けながら願った。
もう少し、ほんの少しの間、忘れさせてくれと。欲しがるだけ欲しがって泣き喚く子供みたいな真似を許してくれと。
なあ、今くらい、愛してるって言っても、許されるだろうか。
鏡の国の舞子さまへ相互お礼として書かせていただいたもの。
荒ハムで、と言われ、思いつくまま書いたらウッカリ事に及びそうだったので、人様に差し上げる品にそんなものを書く訳にはとぶった切り。
い、いかがでしょう…!?(びくびく)
2010/10/28 改訂
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