欲張りな彼女
薄いピンク色をした花びらが風吹かれて宙を舞う。
まだ少し肌寒い気配はするものの、季節は着実に春へと移り変わっていて、降り注ぐ日差しもあたたかく穏やかなものになっていた。
それは同時に、記憶を失くす前にニュクスに立ち向かっていったあの日、皆と約束した日がもうすぐ訪れようとしていることを指し示していた。

「先輩は知らないんですよね」

重い足取りでやってきた辰巳総合病院の一室。真っ白な病室のベッドで横たわる、あの頃より痩せた面。名前を呼んでも返事がないことにも慣れた。大きな独り言を言うように語り掛けるのにだって慣れてしまった。
本当なら何もしたくないほどだるい身体をそれでも必死に動かしてここへ訪れたのは、荒垣と約束をする為だ。
あの約束を荒垣は知らない。ニュクスの存在を知るより早く、彼は戦線を離脱した。
他の皆だって今の今まで影時間やペルソナに関することは全て忘れてしまっていて、卒業式になったって思い出してくれるかどうかもわからない。
ならば、今も昏々と眠り続けている荒垣の記憶はどうだろう。
約束をした訳でもない。とっかかりになって思い出せるものもない。記憶どころか、彼が目覚めることすら難しいだろう。
誰も持っていない記憶を一人で持ち続けるのは案外と苦しいものだった。

「先輩が失くしたかった影時間はもうないよ。唯たち、ちゃんとがんばったよ」

ねえだから起きて。
全てが終わったあの日から、何度も何度もそう言い続けた。世界は元通りそこにあって、影時間もシャドウもいない、戦い続けた日から考えれば平穏に過ぎるほどの日常がここにある。
いや、荒垣にとって、そうであることが当たり前なのかもしれない。
戦った記憶がなければそれが当然であると感じるだろう。シャドウと戦って、何度も傷ついて、それでも諦めなかった記憶があるからこそ、唯の目にはこの世界が何にも変えがたく美しく映るのかもしれない。

「さみしいな。がんばったの、知らないんだもん」

けれど、失った記憶の中には彼にとって忘れてしまった方がいいことの方が多いのだと知っているから別に哀しくは思わない。
ただ、目覚めて、もう一度名前を呼んで欲しい。
唯を知らなくてもいい。もう一度はじめましてから始めたっていい。ただ、ただ。
(…唯は欲張りだ)
世界が死に飲み込まれないように、皆の為に、荒垣の為に、世界がそこに在ることを望んだ。ニュクスと対峙した時、世界が壊れないことだけを願って、その為なら自分の持てる全てを投げ出したって構わないと思ったのに。
世界が救われたら今度は違う願いが出来てしまって、次から次へ願いが生まれてしまう。
皆が思い出してくれますように。荒垣が目覚めてくれますように。荒垣が自分を覚えていてくれますように。もう一度笑いかけてくれますように。
本当に欲張りだ、と小さく息を吐いて、唯は持ってきた紙袋をベッドの脇に置いた。次いでバッグから一通の手紙を取り出し荒垣の枕元に置く。

「目が覚めたら、これ読んでくださいね。約束です。五日を過ぎたら、捨てに来ちゃいますからね」

荒垣の手を取って一方的に指切りを交わす。
未来が見える訳でもない唯は、ただ一縷の望みを賭けて、小指を絡ませた。

「捨てに来れるまで、この世界にいられるか、わかんないけど」

願った。せめて約束の日まで、自分は自分で在り続けたいと。
日に日に体調は悪くなっていって、おそらく自分の肉体はすでに滅んでいるのだと気付いてしまった。
けほ、と小さく咳き込んで、それから大きく溜息を吐く。出来れば荒垣の目覚めが、自分の最期に間に合うといい。声には出さず、唯は呟いた。

    

    

走った。何度か足がもつれそうになり、喉がひゅーひゅーと音を立てる。
記憶にあった日にちより随分と月日が経っていて、どうやらその間昏々と眠り続けていたらしい身体はその当時の体力の半分もなくなっていた。
それでも走った。引き留める医者や看護士を振り切って、とにかく走った。

「…っくそ、何してたんだ、俺は!」

   

つい数時間前、唐突に覚醒した意識は状況を理解するのに幾ばくかの時間を要した。
自分が病院にいるらしいこと、何かの事件に巻き込まれて病院へ運ばれたこと、そして大切な誰かのこと。いくつか思い出して、けれどそれら全てに妙な違和感も同時に覚えた。
ふと枕元に手を置いて、手紙らしき物体に気付く。開いた瞬間、無機質な消毒薬臭い病室にふんわりと甘い香りが漂った。
(ああ…、唯の匂いだ)
懐かしくて、優しい気持ちになれるのに、どこか胸が締め付けられるような気もする。不思議に思いながらも手紙を読んだ。

"どうして唯と先輩が出会ったのかを覚えていたら、卒業式の日に学校の屋上へ来てください。"

(唯との出会い?そんなもん……)

明彦と同じ寮で、たまたま明彦に用事があって、その時。
…違う。そんなはずはない。

「…なんだ、これ」

フラッシュバックするモノクロのシーン。一つずつ脳裏に浮かぶにつれて、こめかみに嫌な汗が滲んでくる。
怪物と戦っていたこと。その怪物と戦う為に同じような怪物を使役していたこと。それはペルソナと言うこと。それを暴走させたこと。その所為で人の命を奪ったこと。ペルソナを押さえ込む為に薬を常用していたこと。何にも関わらず生きて、贖罪を求めていたこと。
そして。
柔らかな春風に似た少女との出会い。
欲してはならないと言い聞かせ、距離を取ろうと抗って、結局その手に縋ってしまったこと。
その所為で傷つけた子供の心。復讐の為に生きさせてしまったこと。それに対して死を以って贖おうとしたこと。
泣かせたくないと願っておきながら、泣かせてしまったこと。

「…ああ…」

通りで苦しいはずだ。通りで哀しいはずだ。手紙の封を開けた瞬間香った唯の匂いに胸が締め付けられたのは、その所為だ。
忘れていた。忘れてはならないことを。
気付いた瞬間、ベッドから立ち上がっていた。
御誂え向きにベッドの脇には荒垣の服が入った紙袋がある。慌てて着替えて、病室を出ると、回診に来たらしい看護士が驚いたように口に手を当て、荒垣を見つめていた。

「荒垣さん、目を覚まされたんですか…!?」
「んなこたどうでもいい!おい!今日何月何日だ!」
「え、ええ?きょ、今日は三月五日ですけど……あ!待ってください荒垣さん!」

学校を休学してから随分経つが、さすがに明彦のこともあって卒業式の日にちくらいは覚えていた。飯ぐらい奢ってやろうと思っていたから。
唯の指定した日にちが今日だということがわかり、行き先を寮から学校へと変えて駆け出す。
必死な様子で荒垣を呼び止める看護士の声にも振り返る余裕なんてなかった。

   

走って走って、息が切れてきて、それでも走って、自分の思うように動かない体が歯痒いを通り越して苛立たしかった。
動け。走れ。もっと速く、もっと速く!
手紙にあった唯の文字は震えていた。いつもはもっと、小さいけれどあたたかくて可愛らしい文字を書く唯が、震えて歪んだ文字で綴った手紙の意味に荒垣は感づいてしまった。
(どうして能天気に寝てられた!)
月光館学園が見えて、それでもスピードを緩めることなくエントランスへ飛び込み、階段を駆け上がる。
体育館で卒業式をしているらしいおかげで、誰も荒垣を止めようとするものはいなかった。
なけなしの体力を使い果たしてすでに気力だけで足を動かしている状態で、ようやく屋上の扉に手が届く。

「…っ唯!」

  

     

ずっと聞きたかった声がした。自分の名を呼ぶ声がした。
数日前から体調を崩していた所為でふらつく身体をアイギスに支えてもらって立ち上がる。屋上の扉を開けたのはひどい顔色をした荒垣だった。

「荒垣、先輩…」
「おま、病人にあんま無理させんな…」

言いたいことは山ほどある。彼が戦線を離脱してからたくさんのことがあった。たくさん泣いて、たくさん苦しんだ。
ニュクスと対峙した時以上にこれは唯にとって人生最大の賭けだった。彼がこの日に目覚めてくれることも、彼が思い出してくれることも、ニュクスや死と戦って勝利を得るより奇跡だと思っていた。
何かを伝えたくて唇を開くのに、何も言葉が出てこない。

「あ…あ…」
「おい唯、大丈夫か…?って俺もあんま大丈夫じゃねーけど」
「あらが…あ、…あああああっ!!」

生きている。しゃべっている。唯の名を呼んで、唯を気遣う言葉を投げかけてくれる。
困ったような、けれどあたたかい笑顔を向けてくれている。以前よりずっと細くなった腕で、けれどもしっかりと唯を抱きしめてくれた。
張り詰めていた何かが唯の中でぷつりと音を立てて切れる。泣かないと決めた。荒垣が倒れた時、彼が泣くなと言ったから、ほんの少しだけ泣いて、その後はずっと涙を我慢してきた。
川が決壊するように涙がとめどなく溢れてくる。それを拭う荒垣の指は以前より骨ばっていて、それがやけに哀しくて、それなのにこの約束の地まで走ってきてくれた彼の優しさが苦しくて、唯は泣き続けた。

(だめ。もう充分でしょう。)

(世界は元通りになって、アイギスだって思い出してくれて、荒垣先輩だってこんな状態なのに来てくれて)

(こんな風に抱きしめてくれて)

(ほら、遠くから他の皆の声だって聞こえる。なのに)

どうしてもっともっとと願ってしまうのだろう。世界を壊したくないと願った。その為なら全てを捧げられると思った。
それが叶ったら、今度は皆の記憶が思い出されることを願った。荒垣が目覚めてくれることを願った。
これ以上望んではいけない。それは人には不相応な願いだ。肉体が滅んで尚、生きていたいなんて。
だけど。でも。荒垣と共に、もっと生きていたい。

(お願い、ほんとうに最後でいいの)

(もう何も願ったりしない、お願い、ここにいさせて…!)

ぎゅっと目を瞑り強く願った瞬間、ひんやりとした空気に飲み込まれる気配がした。
そして何もない闇の中から切なくなるほど優しい声が唯の名を呼んだ。

「君は、命の答えに辿り着いて尚、その先の道を求めるのかい?」
「え…綾時くん…?」
「答えて。君はあの日死んでいたはずだよ。願いだけで今日まで生きてきた。それでももっとと願うのかい?」

彼の声は叱責するようなものではない。ただ優しく語り掛けてくる。
だから唯も、本音を零した。

「…生きたいの。荒垣先輩と、一緒に生きたい…あの人と一緒に、あの人のそばで生きていきたい」

小さく、けれどきっぱりとした様子で唯が言うと、唯を取り巻いていた冷たい空気がほんわりとあたたかさを帯びる。
それに紛れて額に何かが触れたような感触がした。

「ほんと、欲張りだね、唯ちゃん」

綾時らしき声が耳に溶けて、少しだけ重たい瞼を抉じ開けると、荒垣の優しい瞳があった。
心配げに顔を歪ませて、けれど唯が目覚めたことには安堵しているような少し不思議な表情だった。
どうにか微笑んで見せて、もう一度目を閉じる。

「…ね、先輩。ちょっとだけ、このままでいさせてください」
「……ちゃんと起きるんだろーな?」
「大丈夫です、どこにも、行きませんから」
「…そうか」

ふわりと抱きしめられながら体の力を抜いて身を委ねると、奇跡をこんなに何度も起こした人は初めてだよ、と遠くで綾時が笑ったような気がした。

           


いや生きてますからね!?(笑)
ちょっと卒業式の日に必死で走ってくる荒垣先輩を書きたいなあと思って書き始めたら案外と難産になりました。内容もなんだか突っ込みどころ満載です。目覚めたのがその日とか超ご都合主義!みたいな。
でも主人公生存説を説くなら綾時だって生存しててもいいんじゃないかとか、生存してなくても綾主だったら二人の世界でアリかもしれないとか色々考えさせられました(え!)

2010/10/31 改訂

               

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル