怠惰の理由
いつの間に眠っていたのか、寝台に上がらず朝を迎えた身体は節々がぎしぎしと痛む。
寝転がったまま、うん、と伸びをして、大きく息を吸った。視線をずらして空を見上げれば、朝陽はまだ昇り切っておらず、辺りはまだ仄暗い。
ごろりと寝返りを打つと硬い感触が骨に当たって痛かった。
仕方なく起き上がって何とは無しに辺りを見回す。どこもかしこも見慣れた自室のそれで、何故かほっとした。
否、何故か、ではない。理由はわかっている。
怖ろしい夢を見た。それは夢でありながらとても真実味を帯びた内容で、普段から本当は怯えていた事柄で、引き攣った目尻の感触に指で触れて確認すると、そこには涙の痕があった。
眠った場所が悪かったのだろうか。昨夜はなんだか呑みたい気分で、特に何かがあった訳でもないけれど、とにかく浴びるように酒を呷った。
その内意識が朦朧としてきて、瞼もどんどん重くなっていって、眠いと意識した時にはもう寝台に上がるのも億劫なほどだった。その後の記憶はない。

半端に解けた髪を結い直すのも面倒で結紐をその辺りに放り投げる。何をするのも億劫で、このまま寝台で眠り直したいとさえ思うけれど、それが許されるほど暇な身分でもない。
少しでもこの怠惰な気持ちが引き締まればと思いながら桶に張った水で顔を洗う。ゆらゆら揺れる水面に映る凌統の表情は水面と同じくどこか不安げに揺れていて、気が引き締まるどころか逆に滅入ってしまう。
しばらく顔についた水滴を拭うこともせずにぼんやりと水面を見つめていた。

何が不安なのだろう。別に何も不安に思うようなことはないはずなのに。
父を亡くしたあの日から、こういった日が稀にあった。
とにかく泣き出したいような、何かを喚き散らしたいような、自分の殻に篭ってしんと息を潜めて過ごしたいような、そんな気分が悪夢を見た朝には待ち受けていた。
自分でも腹立たしいほど情緒不安定になって、些細なことが神経を引っ掻いて仕方がない。
終いには立っているだけの力が無くなって床に崩れ落ちる。濡れた前髪から水滴がぽつりと膝に落ちた。

(ああ、やっぱり何もしたくない)

何もかも捨てて、何も考えなくて、小さな子供とは到底言えないくらいに成長してしまったけれど、何もかも放り出してしまいたい。
無理矢理に大人に混じって大人の真似事をして年を重ねてきた凌統は未だその心の中に子供らしい純粋さと脆さを残していた。

人はいずれ死ぬ。
人に限らず生を受けたものはいずれ死を受け取って存在に幕を下ろす。
それは自然の摂理で、捻じ曲げることの適わない定め。生まれれば死に、栄えれば滅び、力はいずれ衰える。
そういうものだと凌統だってわかっている。
けれどそれを受け入れきれない部分があって、そんな不安をいつもは蓋をしているのだけれど、ふとした拍子にその蓋が外れて知らない振りをし続けてきた凌統を嘲笑うかのようにそろりと顔を出すのだ。

たとえば明日、近しい人が死ぬかもしれない。ほんの数日後、大きな戦が起こるかもしれない。一年先、自分が生きているかどうかもわからない。
それは乱世に於いて当たり前のことで、だからこそ日々を精一杯生きなければならないのだとわかっている。
父が死んだ戦だって、始まるまで何も不安になんか思わなかった。父が死んだ瞬間だって、そうだと認識するまで父の命が奪われることなど想像もしなかった。
けれど呆気なく人は死ぬ。命は尽きる。ほんの今さっき笑いあった相手が次の瞬間に地に伏して生の終わりと向き合っている事だってある。
それがたまらなく怖ろしい。

大きく溜息を吐いてよろよろと立ち上がり乾布で顔を拭う。
着替えるのも億劫だったけれど、さすがにこのまま部屋に閉じこもって一日を過ごす訳にもいかず、また夜着のまま出歩く訳にはいかないので仕方無しに着替えた。

部屋を出ててくてくと歩く。仄暗かった空はいつの間にか透き通るような青に染められていた。
進める歩はやはり重苦しく、いつもならとうに城に着いているはずなのに、一向に距離は縮まらない。
ゆっくりとした歩みは、どんどんどんどん歩幅が縮まり、ついにはぴたりと止まってしまう。
髪を結うのを面倒がってそのままにしたのは自分のくせに風に弄ばれる髪が鬱陶しくて、やはり結えばよかったとまた一つ溜息が零れた。
完全に立ち止まってしまった足を、自分の足なのにどこか他人のそれを見るような目で見下ろして、今度は立っていることさえ面倒でその場にしゃがみ込む。
こんなことではいけないと思うのに。
立ち止まってしゃがみ込んでしまったら、新たに立ち上がって歩き出すのにはそのまま歩いているよりもずっと労力がかかるものだ。
それでも立っていられない。歩き続けられない。それは単に城へと向かうのが面倒だとか、そんな理由ではなくて。

(ああ、もう一歩だって歩きたくない)

誰にだってきっとあるだろう。
太陽のような笑顔を浮かべられる日があって、どんよりとした曇り空のように気分の沈む日があって、ざあざあ降りの雨みたいに涙を流す日や辺りいっぱいに轟く雷鳴のように怒り出したい日がある。
それと巧く付き合って、折り合いをつけて生きていく。人はそうやって生きている。
けれどそれを巧くやれない凌統は息を詰めてただ時が過ぎ、這い出た不安という名の化け物がまたそろりと姿を隠すまで、笑顔を浮かべることも当たり障りのない言葉を吐くことも出来ずに過ごす。
本当はもっと巧くやらなければならないのだとわかっていても、それをする労力を考えれば気が滅入る。感情の波が暴れて手を付けられない。
だから何もしたくない。誰にも会いたくないし、どこにも行きたくない。
凌統は父が死んだ瞬間から凌家の当主で武将で部下もいる。あの水面に映ったような不安げな表情を浮かべていては示しがつかない。
口の端をどれだけ一生懸命吊り上げても巧い笑顔には程遠くて、城に行けば父の仇すらいて、怖ろしい夢は凌統がどこにいて何をしていても追いかけてくる。

「凌統?」

唐突に名を呼ばれた。ぎゅっと閉じた瞳を緩慢な動作で開いて地面を見る。見慣れた靴が見えたけれど顔を上げるのは面倒でそのままいると、聞き慣れた声の主はどこか戸惑ったようにもう一度名を呼んで、凌統の前にしゃがみ込んだ。
視線だけをずらして表情を窺えば、心配そうな顔でこちらを覗き込む呂蒙と目が合う。
さいあく。小さく呟けばひどく心外そうな様子で何をしているんだと訊ねられた。
立ち上がるだけの気力はもうなくて、笑顔を作れる余裕もなくて、ただ一言疲れたと返す。
肉体的な疲労の意味とは取らなかったのか、実際それは正しいのだけれど、呂蒙は眉間に皺を寄せた。そんな顔をさせたい訳ではなかったけれど、長々と何かを説明するのはそれこそ面倒で凌統は口を噤んだ。

「何かあったのか?」
「ううん…」
「疲れたのか」
「…うん」
「目元が赤いな」
「……」

口を噤んだ凌統に苦笑交じりの溜息を吐いて呂蒙が立ち上がる。次いでにゅっと出された手の意味を凌統は理解しきれずにただぼんやりと見つめた。
脇の下に手が差し込まれて立ち上がらされる。長い間しゃがみ込んでいた所為でくらりと眩暈がした。それをどう受け取ったのか、呂蒙はまるで幼い子供にするように凌統を抱え上げてぽんぽんと背を叩いた。
これにはさすがに凌統も驚いて目を見開く。降りようともがけば思った以上に強い力で拘束されていて更に動揺した。

「疲れたなら大人しくしていろ」

そう言ってまた凌統を抱え直し先と同じように背を叩く。
城へ向かう方角とは反対に歩き出す呂蒙に、落とされないのならこのままでいいし、城へ行かなくていいのならどうでもいいやと半ば投げやり気味にそう思って凌統は身体の力を抜いた。
簡単に抱えてもらえるほど小さな身体の頃、父は死んだ。それから誰も凌統を子供扱いはしてくれなくて、否、本当はしてくれていたのかもしれないけれど、それを凌統自身拒んできた。だからこんな風に抱き上げられたのはとても遠い昔の記憶だ。
ゆらゆら揺られて瞼が重くなる。左胸の辺りが何故か軋んで、瞼を閉じるとぽろりと涙が零れた。

「大きくなったなあ」

そう言う呂蒙の言葉はまるで父のようで、けれど父より長く共に過ごしてきた者の重みがあった。

「…大人は疲れるか」
「うん」
「そうだなあ…」

うんうんと何かを勝手に納得して、またぽんぽんと背を叩く。
今更子供扱いされても本当はどうしたらいいのかわからない。それでも子供に戻った振りで凌統は呂蒙にしがみついた。そしてぽつりぽつり言葉を綴る。

「怖い夢を見たよ」
「そうか」
「父上が死んで、伯言が死んで、子明さんも死んでた」
「勝手に殺すな」
「うん。でも、みんないなくて、たくさんの骸の中で俺も身体中傷だらけで、今にも死にそうになってて、」
「凌統」
「うん」
「…落とさないからしばらく眠っていろ。悪夢が来たら俺が追い払ってやる」
「うん…」

別に眠ることが怖ろしいのではなかったけれど、聞き分けよく頷いて甘えるように頬を摺り寄せる。
無精ひげが少し痛かった。

               


りょもりょと。
おとーさんみたいなりょもさんが好き。

               

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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