花の名
美しく可愛らしい花を見つめて笑う。
自分の知らない思い出を大切そうに語り合う背中を見ているのが辛くてどこかに行ってしまいたくなったけれど、その背中は自分の主と主の義姉のもので、だから大丈夫なのだ、と何が大丈夫なのかもわからないまま必死に言い聞かせた。
くのいちもあの花自体は知識の内にあるものだった。優しい色をした小さな花は、種が薬になるからという色気も素っ気もない理由であったけれど、くのいちも知りうるものだった。
けれど、自分が持つあの花の認識とあの二人の持つ花の認識は違うのだろうと思う。
くのいちにとってあれはただの花だ。それ以上でも以下でもない。可愛らしいと思えるのは平素であるからで、たとえば戦場にあったとして、きっと自分はその花が道に咲いていたとしても平気で踏みにじることが出来る。守るべきは花ではなく主である幸村だからだ。
もしかしたらあの義姉弟はそれを気にかけるかもしれない。可憐な花が踏みにじられないように足場を気にするかもしれない。踏みつけられてしまった花を見て、心を痛めるかもしれない。よくわからないけれど、そんな気がした。
大して珍しくもない花が、大切な絆を繋ぐもののように思えてなんだか苦しい。
彼女が傍になくとも、自分の主はきっとあの花を見たら義姉を思い出すのだろう。それが苦しくて堪らない。

ある時、唐突に幸村が言った。
ああ、あの花は…、そうだ、義姉上はお元気だろうか、と。
道に咲く、ともすれば見逃してしまいそうな花を目に留めて、どこか懐かしそうに言った。
何時ぞや思った通りに花を見て義姉を思い出す主にやはりあの時と同じ息苦しさをくのいちは感じた。
そうですね、と適当に相槌を返せばよかったのに、忍の癖に主に恋情を抱いてしまった自分はそれがうまく出来ずに動きを止めてしまう。
思った通りだ、稲が傍にいなくても、彼は彼女を思い出してしまう。義姉と弟であるから間違いなど起こりようはずもないとわかっていても、どうしても苦しくて、それから逃れたくて、くのいちはほとんど無意識に言葉を発した。

「ねえ幸村様、あたしのとっておきの秘密知りたくないですかー…?」
「どうした、くのいち」
「あたしも…」

あたしもその花と…同じ名前なんですよ―…

無理に笑って言った嘘はくのいちの許容量いっぱいで、口の端が否が応にも引きつってしまう。
嘘ですよ、とすぐさま取り消してみせるには必死すぎる声音で、口にした直後、はっと己の失態に冷や汗をかく。
出来るなら幸村がその言葉を拾わなければいい。そうすれば醜い恋心が故の嘘などなかったことに出来る。なのに。

「…そなた名は捨てたと…いや、そうか…」
「いや、えと、」
「良い名前だな、捨てるには惜しい名だ…。教えてくれて嬉しい、ありがとう」

嘘ですよ、少し考えればわかるでしょう、まったくどれだけ天然なんですか、様々な悪態が脳裏に浮かぶ。
けれど少し驚いたようにしながらも優しく微笑んで髪を撫でる幸村にくのいちは何も言えず唇を噛んだ。
こんな嘘を吐いたって自分が惨めになるだけだ。あの花を見て思い出すのが彼女ではなく自分になればいいと思って口にした、幼稚な嘘だ。
名は捨てた。捨てたと言うより、最早記憶にすらない。たとえその記憶にない自分の真の名が本当に幸村の足元で咲く花と同じであったとしても、それを幸村に伝える必要などどこにもない。
わかってはいるのだ、そう、理解はしている。けれどそれを凌駕する恋心がくのいちをおかしくしてしまうのだ。
厄介な人を好いてしまったと思う。彼はたまに自分を愚鈍だと卑下するけれど、他の事はともかく色恋に関しては相当に鈍いとくのいちですら思う。
律儀に折角真の名を知ったのだから呼び名を改めるか、などと呟いている幸村に、お門違いだとわかっていても獲物を投げつけてしまいたくなった。

「…何してるんですか、幸村様」
「ああ、これを」

馬鹿みたい、馬鹿みたい!激しく詰ってやりたい気持ちが膨れ上がる。
こともあろうか幸村はその花を摘んでくのいちに差し出してきた。義姉との思い出の花を、それを妬んで嘘まで吐いたくのいちに差し出してきたのだ。
どこまでこの主は馬鹿なんだろう。どうして自分なんかの言葉を鵜呑みにするんだろう。何故その上その花を差し出して笑むのだ。わからない、彼のしていることはくのいちにとって理解不能だった。
わかっているのは、己がどれほど愚かな嘘を吐いたかということだけだ。
足が震える。視線を逸らしてしまう。心臓の鼓動がいやに早い。
そう、わかっている、馬鹿だと罵りたいのは幸村相手にではなく、己自身に対してだ。

偽りの花の名を少し照れくさそうに紡ぐ幸村に居た堪れなくなる。やめて、違うの幸村様。脳裏に浮かぶ言葉は音として口から漏れる寸前、ぱたりと止まってしまった。
恋する少女というものは時として恐ろしいほどの醜さを露にする。
もしもいつか、彼が死する時、都合よくもすぐ近くにこの花が咲いていて、それを目にした幸村が、ああ、くのいちと同じ名の花だ、と自分を思い出してくれたら。
義姉の微笑みでなく、ほんの少し、自分を思い出してくれたら。
自分が嘘だと告げなければ、己が主はそれを嘘とも知らずに信じ続けるだろう。そして今のように優しく、偽りの名を呼んでくれるのだろう。
差し出された花を見つめながら、泣くものか、と唇を噛む。惨めだった。そんなことでしか幸村の中に入り込めない自分がこれ以上もなく惨めで、こんな幼稚な嘘さえ吐かなければあの花は永遠に稲のものだったのだと思えば醜い嫉妬心が訂正しようとする気持ちを奪ってしまいそうになる。
ただ好いた人の心に自分の居場所が欲しかったが為に吐いた嘘。
主の心に居場所を欲しがる忍だなんて、なんて滑稽だろう。何度も自身に言い聞かせた言葉がくのいちの心に爪を立てる。自分は女ではない、忍だ。自分と忍は切り離して考えられるものではない。であるなら、やはりこんな感情など持っていてはいけないのだ。
本当のことを言わなければ。任務となれば嘘などいくらでも吐けるけれど、この人にだけは、必要のない嘘を吐きたくない。まして、こんなくだらない嘘なんて。
ぎりぎりの崖の淵で踏みとどまったくのいちはふるふると首を振り、先よりもずっと小さく震えた声で、目の前に出された憎らしいほど可憐な花を拒絶した。

「……嘘です。ごめんなさい幸村様、あたしに、名前なんかないの。もう覚えてないの」

くのいちの言動についていけていないのか、幸村は困ったように眉を下げてこちらを伺っている。今はその視線ですら刃のようだ。

「名前…名前が欲しかったんです、幸村様が、大切にされてるあの花の名前が」
「くのいち」
「忍に名などいらない、そう言ったのは、あたしなのに…すみません、変なこと言い出して…忘れてください」

穴があったら入りたい、なんて生易しいものではない、主である幸村が許しさえすれば、今この場で命を絶ちたいくらいの気持ちでくのいちは俯いた。
恋心というものほど恐ろしいものはない。自分は忍でなければならないのに主に恋をしてしまって、忘れようとなかったことにしようとしても思いは勝手に膨れ上がっていく。
彼を好いたままいては、いつかそれが仇となる時が来るかもしれない。主に不利益になるまではいかずとも、主の意に沿わぬ行いに繋がってしまうかもしれない。忍に感情などいらないと言われる所以をつぶさに思い知らされた。
馬鹿だと思う。普通の少女であればこんな気持ちにはならなかったかもしれない。けれど忍である自分だからこそ彼を守れるのだし、自分はそれを誇らしくも思っているのだから、忍らしく全てを押し殺していつものようにやり過ごせばよかったのだ。本当に馬鹿なことを口にしてしまったものだ。
やり過ごせないからこそ恋と言うのだ、とまでは、くのいちは思えなかった。

「くのいち――」

幸村が言葉を発するまで、随分と長い時間がかかったように思う。
叱られるのかと怯えながらも、くのいちは顔を上げた。多少瞳に水分の膜が張っていたかもしれないが、それでもしっかりとくのいちは幸村を見た。
見つめた幸村の表情は、けれど怒っているというようなものではなく、困惑に近い、複雑な表情をしていた。

「そなたは忍である前に少女だと私は常から思っていた。くのいちなどと味気ない名前では…ああ、違う、これではそなたに対して余りに無礼だな」
「幸村様、あたしは、」
「つまり、その…」

そこで一度区切り、視線を手元の花に落とした。つられてくのいちも同じように視線を落とす。
幸村はその花を一つ摘み、くのいちに少しじっとしていてくれと言った。
くのいちの高く結った髪の根元に何かを差し込む気配がする。まさか花を飾っているとでも言うのだろうか、確認しようにもくのいちの頭は幸村が触れている所為で満足に動かせない。手を動かせば幸村にぶつかってしまう。仕方なしに言われるままじっと待っていると、しばらくの後、何かを納得したらしい幸村がぽんと軽くくのいちの頭を叩いた。

「幸村様…?」
「私が―…」
「え?」
「私が…そなたに名をやろう。私だけしか知らぬ名をやろう。愛らしい花の名だ、受けてくれるか」

髪に飾った残りの花を再度差し出しながら問う幸村の声音はまるで睦言を囁くようでくのいちは瞠目する他ない。
くのいちの手を取り花を持たせると、幸村は先と同じように照れくさそうに微笑みながら名を呼んだ。それに対し、くのいちはとうとう顔を覆ってしまう。
主と忍、女ではなく忍、分不相応、様々な言葉が脳裏を駆け巡るも、形となって溢れるのは涙ばかりで、小さな肩を震わせてただ泣いた。
くのいちが何故名を欲しがったのか、そもそも何故欲しがったその名がその花だったのか、きっと幸村は何一つ知らないのだろう。
何故今くのいちが泣いているのかも、知らないのだろう。
それでもいい。それでもよかった。
偽りでなく与えられた花と同じ名が、その名が幸村の声で紡がれることが、全てを上回る喜びとなってくのいちを支配する。
そしてそっと髪を撫でる幸村の手のひらの感触がそれに拍車をかけた。
涙を止めることも顔を上げることも出来ず、くのいちはそのまましばらく泣き続けた。

              


この幸村はちゃんとくのいちのこと好きですよ。ライクじゃなくてラブですよ。
くのいちにいい思いをさせてあげたくて、捏造もいいとこな感じですけど、真くの好きですよ。
名前は当然のごとく撫子の花からなんですが、名前つけたらどうにもくのいちっぽくならなかったので終始花の名は出さずに書くことにしました。

               

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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