第四十一話 罪を背負う者
人はみな、自分の中で順位がつけられている。それは無意識意識を問わず必ずあるものだ。
その思いが自分は強かっただけだ。その順位を知りすぎていただけだ。
だから、最優先事項のために足掻くことに何の躊躇もなかった。

   

血の付いた制服と青ざめた顔。
見慣れたチームメイトは、死に直面していた。

「…辰巳?」

訊ねても返事はなかったし、おそらく放置しておけば彼は勝手に死んだだろう。自分が手を汚すまでもなく。
立ち去ろうとして、けれど少し考えて辰巳のそばに駆け寄り、名前を呼んだ。
何度か名前を呼ぶと、ほんの僅か、彼は動いた。注意深く見ていなければわからないほどのその動きを、それでもしっかり確認して、辰巳の身体を抱き起こす。
通ってきた道の途中に見つけた、民家の場所をを思い出しながら。

辰巳なら三上の場所を知っている。そんな確信めいたものがあった。
情報が欲しかった。三上を守るための情報が。
そしてそれを辰巳は持っている。そんな気がした。

    

「……」

民家についた途端、それを待っていたかのように雨が降り出した。
さあさあと降る雨とは反対に空は晴れ渡っていて、血の臭いのする室内と比べると、少し違和感があった。
どれだけ時間が経っただろうか。辰巳を見つけたのは太陽が空の天辺に届こうとしている時だった気がする。それから比べれば、太陽は大分沈み始めていた。

「……ぅ…」

微かに発された声を聞き逃すほど、自分の注意力は散漫ではない。立ち上がり、さも心配そうな仮面を貼り付けて傍らへと急ぐ。
ズボンの後ろポケットには、根岸から奪った小銃を忍ばせて。

「大丈夫か?辰巳」

驚いたように目が見開かれ、次いで辰巳は口にした。
三上は、と。
その言葉に自分の予想が間違っていなかったことを知り、内心ほくそ笑んだ。

「三上は知らないよ。俺が見つけたのはお前だけだった」
「…そうか」
「三上と一緒にいたのか?」
「朝までは」

話を続けながら、それとは別の思考回路を使ってひっそりと頭の中で状況整理をする。
三上が辰巳を傷付けるとは思えない。だから辰巳の受けた傷は、辰巳が三上以外の誰だかに襲われたことを意味する。一緒にいたと言うのなら、自分を盾にして三上を逃がし、その相手に傷を負わされたというところだろうか。

「かず、…いや、真田に頼んだんだ。三上を連れて逃げてくれって」
「真田?知り合いだったのか?」
「…ああ。昔、な。少しだけ」
「どこへ逃げたかわかるか?」
「…わからない。ただ、三上は怪我をしてるんだ。だからそんなに遠くはないと」
「そうか」

それだけ聞ければ充分だった。
捜すのは容易でないとはいえ、誰と一緒にいるか、どんな状況か、怪我を負っているか、それを知ることが出来ただけでも充分辰巳を助けた意味があった。
些細な情報が多大なる影響を及ぼすこのプログラムでは。

「傷、痛むか?」
「いや…俺より三上の方が心配だ」
「…」
「それに」
「なんだ?」

辰巳が続けた言葉は、手にかけた小銃を、ほんの少し躊躇させた。

「お前も俺より痛そうだ」

痛い?
何がだ。どこがだ。
どこも自分は怪我なんてしていない。

「お前も、傷を負ったんじゃないのか」

ふらりふらり、手が伸びてくる。
そこまでの体力なんて残っているとは思えないのに。

「怪我なんてしてないよ。無傷だ。…わかるだろう?これは返り血だ」
「…身体じゃなくて、…ここ」

心臓に当てられた手が、何かのスイッチになった。
何かが壊れてしまうような気がして、それでも留めることは出来なくて、気がつけば叫んでいた。

「俺は人を殺したよ。根岸も、俺が殺した。この返り血がその証拠だ」
「仕方ないさ」
「お前だって殺すよ。最初からそのつもりだった」
「わかってるよ」
「今すぐにだって殺せる!」
「三上を生かしたいんだろう」
「……!!」

知っていた?気付いていた?いつから?いつから!

不意に根岸との会話が頭の中に蘇ってきた。
殺す。みんな、誰もかも、みんな。自分も、目の前の辰巳も。
三上を生かすために。

傷口を見つけないでくれ。
巧妙に隠した傷口を、血の臭いで嗅ぎ分けるようなことをしないでくれ。

「俺は三上を守りたい。どんな手を使っても生かすと決めたんだ」
「わかるさ。俺だってそう思った」
「だから…っ!」

言葉が続かない。
どうして目の前の男はこんなにも人の傷口に聡いのだろう。それが三上が彼を選んだ理由だというのなら、なんて皮肉だ。
いつもいつも誰にも言えずに内に溜め込んできたものを、彼は必ずと言っていいほど気付く。それを自分はとても有り難いと思っていた。それはおそらく三上も同じだろう。
けれど今は。

「…怪我をしてるんだろう」

聞きたくない。

「俺は三上のことを一番大切に思っているけど」

言うな。
音に、するな。

「お前だって大切なんだ」

惑わすな。これ以上意志を崩そうとしないでくれ。譲れないものがあるんだ。
必要なものはこれではない。
すべてを引き替えに守ろうとしたものは、これとは違うものだ。

「黙ってくれ…もう」
「…しぶさ、」
「黙れよ!!」

名前を呼ばれたら、お仕舞いな気がした。
何がなんて、わかってはいなかったけれど、とにかくお仕舞いだと思った。

未だ降り続ける雨の音とは反対に、乾いた音が室内にほんの少し響いて、天から降りる雨粒が土へと吸収されるように、その音は消えていった。
後に残ったのは横たわったままの、辰巳の物言わぬ身体と、それを見つめる一つの影だけだった。

    

後悔はしない。してはいけないから。
命は誰にも一つしかなくて、それを奪うということは、何をしても償いきれないほどの罪を背負うということ。
けれど、どんなことをしてでも生かすと決めた命がある。
そのために自分は悪魔に魂を売った。

なのに。
なのにどうして。

「どうしてそう、掻き乱すんだ」

愛したものとは違う。守りたいものでもない。
そうでないものは、すべて切り捨てると決めたのに。

「どうして気付くんだ。どうして、いつも」

足掻くことは、悪だったのだろうか。誰も教えてはくれない。
傷に気付いた唯一の人は、この手で殺めた。
やり方に違いがありこそすれ、願ったのは同じことだった。根岸も、辰巳も、自分も。
では他にやり方を自分は知らなかったのかと問えば、その問いに答えられるような自分はいない。
事切れたばかりの死体は当然のように生暖かくて、シーツに出来た血だまりに触れると、胸に何かが突き刺さるような感覚を覚えた。

  

なあ、辰巳?
優先順位はもう、違えられることはないんだ。もう、後には退けないんだ。
知っているか?
俺はもう、後戻り出来ない場所に立っているんだ。

それもお前は、わかっていたんだろうか。

             

                           

 

 

 

第四十二話 君の手で
人を殺めることを悪だと感じられるのはまともな証拠。
人を殺めることさえも必要悪だと割り切ってしまうのは、プログラムに乗せられてしまった証拠。
この島にいるのはそのどちらかだ。まともな人間と、そうでない人間。
はたして本当にそうだろうか。
殺されるとわかっていて尚、善行を優先させられる人間がいるのだろうか。
殺されそうになって、抵抗し、その結果殺してしまった人間さえも一括りに『乗っている』側の人間と言ってしまっていいのだろうか。
殺人者、と人を罵ることは出来ない。一秒先の未来さえわからない今は、その一秒先に自分が殺人者になっているとも限らない。
そしてゲームに乗ることと人を殺めることは、必ずしも同義ではないのだ。

   

俺はどれになるんだろう。
人、殺すのかな。ゲームに乗るのかな。

   

ぽつりと呟いた尾形の言葉は風の音に紛れてしまうほど小さな音だった。
狐の嫁入りよろしく降っていた雨も止み、空は紅く色を纏い始める。
こんな状況下でさえ、時間は変わらず刻まれていく。日常であろうとなかろうと変わらず過ぎていく時間は、どこか残酷な気がした。

プログラムの中というのが不思議なほど傷や汚れの少ない尾形も、これまで誰にも遭遇することがなかったと言う訳ではない。
誰だかはわからないけれど、二つの人であった物体も、そこから走り出す人影も尾形は見ていた。もちろん、確認出来なかった理由は走り出す人影と逆方向に進路を変えたからだ。
あの教室を出てから、尾形は人と遭遇しても、誰かと口を利いたことはない。対峙した敵もいない。ただひたすら孤独や恐怖と戦いながら、一人で過ごしていた。
それはある意味で幸福なことではあったけれど、またある意味では不幸でもあった。
約二日が経とうとしていて、この島に捨て置かれている死体の数は確実に増えていっている。それに比例して人殺しの数も増えていっているはずだ。
そしてその中には、何人かの人間を手にかけた参加者もいるはずで、その人物は、たとえ今回のプログラムで初めて武器を手にしたのだとしても、その扱いには相当慣れてきているだろう。
味方と呼べる人間もいなければ、支給武器に触れたこともない尾形がそんな人間と出会せば、そこで彼の人生は強制終了される。
もちろん、尾形だって抵抗くらいするだろうし、それが功を奏して(?)相手の人生を逆に終了させるかもしれないけれど。
カバンの奥底、無造作に放り込まれた、手のひらより少し大きめの拳銃が尾形の支給武器だった。それでも触れることすら怖ろしくて、彼は一度もそれを握ったことはない。
その甘さが、その弱さが、彼の弱点だった。

    

「生きたいなんて、思ったことはなかったな」

    

そして尾形は今、同時に死にたいとも思っている。
どれにも当てはまらない今のままで、ずっといたいと願っているからだ。
人を殺めることも怖ければ、武器を持つことも、死ぬことも、ゲームに乗ることも怖い。自分ではない自分になることが怖ろしい。
だから、誰とも関わろうとしなかった。誰かに関われば、自分は『どれか』に当て嵌められてしまうから。

   

「会いたいなんて思ったこともなかったな」

    

早野に会いたいと心から思っていた。
会おうなんて思わなくても会えたから、そんな風に思う必要性がなかった。
けれど今は、会いたいと思っても、それが叶うことは稀だ。会えないままこのフィールドから退場させられる可能性の方が高い。
うようよと人殺し達の闊歩する、島という名の監獄を脱獄することは不可能だ。看守はそれほど甘くない。

       

生きて会いたい。
そんな奇跡、簡単に起こる訳がないことくらい、知っているけれど。

死体なんかに会いたくはない。
死体に会えるだけでも、奇跡に近いかも知れないけれど。

自分は生きていられるだろうか。
生きて何をしたいのだろう。

     

わからなかった。
出来ることなら、生きて、もう一度早野に会いたいとは思う。自分は、今の自分のままで早野に会いたい。
そして、叶えて欲しい願いがあった。早野にしか叶えられない、狂人じみた願い事が。

    

俺を、殺して。

    

誰かの手で奪い取られるより、自分の血で染まる、早野の手が見たかった。
善人ぶって誰も殺さずに勝ち抜けるほどプログラムは安穏とはしていないし、形振り構わずに人を殺して回れるほど、尾形はプログラム向きな性格ではなかった。
だから、自分の血で紅く染まる早野の手を見たかった。
生きてこの島を出ることは不可能だから、どうせ死ぬのなら早野の手で終わらせて欲しかった。

    

「…俺を殺しに来てよ、早野」

               

                           

 

 

 

第四十三話 コエガキコエル。
嫌な予感がした。
何か、虫の知らせのような嫌な予感が胸をざわめかせた。
苦しんでいる、泣いていると、心の奥の何かが、自分の与り知らぬところで反応した。

         

晴れた空にさあさあと降っていた雨が止み、英士は未だ来ない一馬を待って約束の場所でひっそりと息を潜めていた。
この民家を指定したのは英士自身だ。だからこの場にいなければいけない。一馬がこの場にやってきた時、もしも自分がいなければ、それは一馬に対する裏切りになってしまう。
だから、絶対にいなければいけないのに。
ひどく嫌な予感が頭を過ぎって、じっとしていられない。駆けだしてその何かを突き止めたい。そうでなければ絶対に後悔をする。そんな気がして英士は悩んでいた。
勘は比較的当たる方だった。けれど今回のそれは、普段何気ない時に感じ取っていたものとは明らかに違う。内側から急き立てるようにして英士に訴えるのだ。
行け、と。
理性では理解している。この場で一馬を待たなければプログラムに対して何の手だてもなくなってしまう。唯一コンタクトを取れた一馬とも会えない。そして、その事実は、『裏切り』という形でもって一馬に傷を作るかも知れない。
相反する二つの意志が、自身の中でせめぎ合う。
時間的な猶予さえ与えられないプログラムに、今更、と思いながらも、英士は唇を噛んだ。

「…どうしたらいいっていうの」

お手上げだ、と思った。どうするべきか、何が最善なのか、どれだけ脳味噌をフル回転させても答えは出てこない。ひょっとしたら、答えなんてものは最初からないのかも知れないけれど。
そう考えて、英士は溜め息を吐いた。
正解はない。客観的視点から見ればあるのかも知れないけれど、今、ここにはない。だから何が正しくて何が間違っているかなんてわからない。
そう、答案のない問題集を解いても正解かどうかはわからないのだ。そして今その問題に答えを出せるのはこの場で生きている英士だけで、答案がないのなら何を導き出したって同じことだ。

…だったら。

行かなかったことを後悔するのは嫌だった。自分が反応するのなら、それはかけがえのない人たちの誰かのためだ。だから、自分はそれを信じて走り出そう。
一馬との約束を破ることになっても。

扉を開けると、空はまだ明るかった。
逸る気持ちを抑えつけて辺りを見回し、安全を確認する。後ろ手に扉を閉めて歩き出そうとした時、遠くに人影が見えた。じ、と目を凝らすと、それが先ほどまで待っていた人物なのだとわかる。

「…一馬…」

一馬だと確認した途端、心の中のしこりが一つ融けた。ほっと胸を撫で下ろし、次いで一馬の隣を歩く人影に目を移す。一馬が赦したのなら、誰であっても自分は受け入れられる。一馬はそれほど愚かではない。けれど。
引きずりながら歩く足。破れた制服のズボンに染みだした紅い血。けれど英士の注意を引いたのは、その怪我ではなく、人物そのものだった。
遠い記憶、懐かしい思い出の中の人。生きていてくれたのだと、英士は小さく笑んだ。

「英士!よかった、無事だったんだな。いなかったらどうしようかと思った」
「無事に決まってるでしょ。誰かさんが遅いもんだから、待ちくたびれたけどね」
「そっか、悪い…」
「いいよ。それより三上さんも一緒だったんだね。足、大丈夫?」

そう言って三上を見ると、お世辞にも血色が良いとは言えないような顔で、大丈夫だよと笑った。
それで、英士はなんとなく、三上は自分たちのことを覚えていてくれたのではないか、と感じた。選抜の合宿で見た表情とは、少し違っていたから。
ここにはいない思い出の共有者にも教えてやらなければと思って、先ほど自分が民家を出ようとした理由を思い出し、英士は要点を掻い摘んで二人に説明をした。どうしても行かなければならない、と。

「そっか…。気、つけろよ、英士」
「そっちもね。怪我人もいることだし」
「ああ」

地図をカバンから出し、現在地を確認して歩き出そうとした英士を、三上が呼び止める。

「英士」

呼び名が、その声で久しく呼ばれていないものだった所為だろうか、反応が少し、遅れる。
振り返ると、三上がひどく心配そうな顔で英士を見ていた。

「どうしたの」
「絶対…」
「え?」
「絶対、死ぬな」

強い言葉だった。おそらく、強い祈りが含まれていたのだろうと思う。
そうだ。彼は元々、そういう人間だった。本当は誰よりもやさしい人だった。だから自分たちは、何年も前に会った三上を覚えていて、ほんの一、二度だったけれど覚えていて、今でもはっきりと覚えていて、そして好きになったのだ。
自分たち四人の初恋は、間違いなく彼だった。
合宿所で会った彼に、自分たちは少なからず思い出との差にショックを受けたけれど、彼は、今も本当は、変わらずに出会った時の彼のままだった。
三上の言葉に、どう返すべきなのかわからず、英士はただ頷いた。

「気をつけろよ!」

見もしない地図を右手に持って、振り返ることなく英士は走り出した。
もちろん、胸騒ぎの原因を捜すために走り出したというのもある。けれど、それだけに急かされていた訳ではない。
英士の中で何か、よくわからない感情の波があって、そこから逃げ出したかったのかも知れない。

    

    

勘だけを頼りに呼ばれていると感じる方角を捜す。時折地図を確認しながら、道に迷うことがないように注意をして。
呼ばれている、なんて感覚だけで見つかるとは思っていなかった。そんな簡単に見つかれば世話はない。だから島中を英士は捜す気でいた。
そうすればいつか会えると信じて。   

嫌な予感は得てして当たって欲しくないものを指す。英士も、そう思っていた。
泣いている。苦しんでいる。そんな気がして走り出したけれど、そうでないことを祈っていた。
笑顔でいてくれと願った訳ではない。それはこのプログラムに置いて不可能だ。けれど、出来るなら傷付かずにいて欲しかった。

    

「ゆう、と…」

    

一馬たちと別れ、随分長い間歩いて、英士は傷だらけで蹲る人影を見つけた。
遠目から見ても痛々しいその様子に、思わず歯ぎしりをしてしまう。血に染まった制服が結人自身の血だけではないことに気付いていたけれど。
駆け寄って名前を呼ぶと、結人は虚ろな目をして英士を見た。
その目を見て感じた憤り。なぜ、という疑問。

乾いて頬にこびり付いた血の痕を撫でると、結人はぽたり、と涙をこぼした。

            

                           

 

 

 

第四十四話 手のひらの温度
何も見えない。何も見たくない。
けれどそんな訳にはいかなくて、目を瞑っているばかりではいけなくて。
目を瞑っていても、焼き付いた死に様と耳にこびり付いた断末魔が責め立てる。
目を閉じて、耳を塞いで、光も音もない世界に閉じこもれたら、どれほど楽だっただろう。

         

「結人」

不意に名前を呼ばれた。
自分の名前を呼ばれたはずなのに、どうにも確信が持てない。
自分の名前だとしたら、それはとても遠い昔に呼ばれた名前のように感じて、結人は反応が出来ずにいた。
映る影。瞳に映る、誰か。
彼は先ほどと同じように名前を呼んで覗き込んでくる。その瞳は、信じられないほど優しい、柔らかな印象をしていた。
そしてもう一度口を開く。

「結人、しっかりして」

結人の頬を何かが流れる。
生暖かい感触がするから、ひょっとしたらそれは涙なのかも知れない。そしてそれは、乾いてこびり付いた血の痕を濡らしていった。
それをなぞるように彼の指が結人の頬を撫でる。

その瞬間、張りつめていた何かが、途切れた。

「…っ、ぅ、あああっ」

生きたかった。死にたくなかった。会いたかった。
死にたくなかったし、どうしても生きたい理由があった。
だから自分は人の命を犠牲にしたのだ。

「えい、し、…英士…っ」

どうしたらよかったのだろうか。黙って大人しく殺されてしまえばよかったのだろうか。それとも無駄とわかっていながら説得を試みるべきだった?逃げればよかった?それとも。
何が正解だったのだろう。
わからない。今はもう、後の祭りだ。過ぎたことだ。事実はもう覆らないし、人の命は返ってこない。
前後も左右もわからない場所に放り出された幼子のように、結人は泣いた。

「ころ、した。俺、人、殺した…っ」

本当は聞いて欲しかった。
軽蔑されるかもしれないとわかっていたけれど、それでも聞いて欲しかった。
自分一人で抱えるには、大きすぎる出来事だった。

「会いたかったんだ…」
「うん」
「会いたかった。英士とか、一馬とか、潤慶とか、あきらとか、…みんなに、会いたかったんだ」

だから死ねなかった。死にたくなかった。だから他の人の命を犠牲にした。
けれどそれは、結人の理屈だ。呆れられても軽蔑されても仕方がないほどの、陳腐な理屈だ。
それはもう、いやと言うほど自分で理解している。だからもう、口汚く罵ってくれていい。

降り注がれると予想していた冷たい眼差しは、まったく逆の性質を持って、結人の傷を優しく撫でた。

「…俺も会いたかったよ。死体とご対面しても嬉しくないしね」
「英士…」
「俺は、結人が生きていてくれて嬉しい。俺は自分勝手だから、誰の命を犠牲にしてたって、結人が生きていてくれて嬉しい」

俯くと、地面に涙がぽたりと落ちた。
赦してもらえるはずがないと思っていた。それでも英士は、犯した罪の重さより、結人を案じてくれた。

「殺す気なんか、なかった」

呟いた言葉に、英士は黙って頷く。わかっているよ、と口にした英士の顔はとても優しかった。
願ったのは生き残り、最終勝利者になることではなくて、生きて、生きている大切な人たちに出会うことだ。
狂わされた歯車を、必死で正常な状態に戻そうと足掻いていた。『生き残る』ことではなく、『生きる』ことを望んでいた。

「ほら、もう泣かないの。へたれ一馬にまで笑われるよ」

言葉と裏腹にひどく優しく頬を撫でる英士の指が、本当にどこまでも優しく感じて胸が痛い。ともすれば背負わなければならない大きな罪まで忘れてしまいそうになって、唇を噛む。
忘れてしまえたなら、それはとても幸福で、とても愚かなことだ。自分にそれは、出来そうにないけれど。

冷たいんだと思っていた英士の手のひらは、本当はとてもあたたかくて、このまま時間が止まればいいのに、と心の中で呟いた。

               

                           

 

 

 

第四十五話 人を殺すということ
死んでしまえばいいと思った。何もかもなくなってしまえばいいと思った。
自分を押し止めていた理性という名の留め金は、設楽の死で外されてしまった。
プログラムの中にあっても、どれほど危険に晒されていても、自分は心のどこかで、自分とあいつは大丈夫だとタカをくくっていた。

   

赤く染まった道を歩くと決めた。殺人の道具をひっさげて、鳴海は自分で赤い道を歩くと決めた。
それは設楽を殺した人物の息の根を止めるためだ。放送を聞いたその時にはもう、誰もかもを殺してやる気でいた。
一番大切なものを、鳴海貴志(出席番号23番)はこの島にいる殺人鬼に奪われてしまった。
だから何も必要ではない。一番大切なものを奪われてしまったのだから、それ以外に価値はないのだ。そして鳴海がどのような行動を取ろうと干渉するような人間は誰もいない。
だったら、彼が設楽を殺した殺人鬼と同じことをしても構わないだろう。ここは殺人が合法とされるプログラム会場だ。誰もとがめはしない。
彼は大切な友人だった、喧嘩をしても、変わらず彼は友人だった。それなのに彼はもうここにはない。だから、大切なものを奪った殺人鬼を、自分が殺すのだ。
鳴海の頭の中は、そのことだけが埋め尽くしていた。

設楽や他の人間の目にどのように映っていたかは知らないけれど、鳴海は傍が思うほど強くはなかった。寛容でもなかった。
奪われたから奪う側に回る。簡単な理屈だった。
利己主義が人間の一番本質的な部分だとするなら、鳴海はおそらく、とても人間らしい生き物だった。

   

赤く無様に泣きはらした眼を夕陽が更に紅く染める。
人の気配がうっすらと近づいていたのに、鳴海は気付いていた。それでも気付かないふりで対峙するのに都合のいい場所までおびき寄せる。
誰もかもを、殺す気だった。

「どこまでついてくんの?」

話しかけると、鳴海の後ろを歩いていた人物は驚いたように顔を強張らせてこちらを見た。
彼の表情が引きつっていたのは、鳴海が向けた拳銃の所為だろう。

「なあ、設楽殺したのお前?」
「設楽?」
「知らねえか、名前なんて」

撃鉄を起こしながら歩み寄り、少年の制服の胸元を掴む。鳴海の浮かべる表情が冷たくなるのに比例して少年の顔は青ざめていった。

「誰も、殺しとらん…。嘘やない、信じてんか!」
「じゃあ俺を殺そうとしてたの?お前」
「ちゃう、ただ、」

捜している人の情報を知りたかった。タイミングが掴めなかっただけで。
そう必死に弁明する少年の言葉は、鳴海の耳には入ってこない。否、音として入ってきてもそれを言葉として脳が認識することはなかった。
だから、引き金にかけた指を鳴海は何の躊躇もなく引いた。そして、二度三度、同じように発砲する。少年は苦しそうに喘いで、すぐに動かなくなった。
そこで鳴海は、ようやく自分のしたことの重大さに気付く。

「…あ…」

一つ、二つ、三つ。身体に穴を開けた人間。自分が撃った。設楽を殺した人間と同じように自分が殺したのだ。
鳴海は地面に崩れ落ちた魂の抜け殻を呆然と見つめていた。

「……あ、うああっ」

人であった身体は、ただの屍となった。
自分がそうしたのだと、頭では理解出来る。そうするつもりでいたし、迷いはなかった。けれど。
実際に自分が手をかけてみてわかる。
自分は何の覚悟も、本当は、していなかったのだと。

死体はどこか遠くを見るような目をしていた。何か心残りがあったのかも知れない。地面の砂に爪がめり込んでいた。
土を掴んだ指先に設楽の死を知った自分の姿が重なり、倒れた少年に見た訳でもないのに設楽の姿が重なる。
そして、設楽を殺した殺人鬼と、今の自分が重なった。

「…俺、おれは、ただ…」

設楽を返して欲しかった。
大切な友人だった。唯一に近いほど、弱音を吐ける相手だった。
だから、殺されたのなら、自分もそいつを殺してやろうと思った。
単純だと思った図式は、鳴海が考えていたほど簡単な図式ではなかったのだ。

赤く充血した目からまた涙がこぼれる。
どうしたらよかったのだろうか。
人を殺せば怨嗟は途切れることなく続いていく。
鳴海がそうであったように、鳴海が殺した誰かを想う人が、鳴海を憎み、同じように行動するかも知れない。

そうだ。今度は自分が殺される番になる。

     

   

「……捜さなきゃ」

物言わぬ冷たい身体をして、プログラム終了時に行われる回収作業を待つばかりの設楽を捜さなければ。
捜して何になるとかまで、頭は回らなかった。ただそれが、今自分に出来る唯一のことだと思った。

自分が壊れてしまう前に。

                        

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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