第五十一話 約束 |
小さな子供のように怯えた目をして、かたかたと身体を奮わせて、結人はぽろぽろと涙を流した。 見ている英士の胸が張り裂けそうなほど、ひどく幼い仕草で英士に縋ってきた。 安心しなよ。 世話がかかると溜め息を吐きながら、それでも自分に縋る結人を愛おしく思う。
ひっきりなしに泣き続ける結人を英士は根気強くなぐさめ続け、気付けばプログラムが始まって二度目の夜がやってきていた。 「結人、あんまり泣くと熱出るよ」 小さな頃からそうだったように、傍目から見れば一馬の方がずっと手がかかりそうに見えるけれど、そして自分はいつもそれをフォローする役回りだけれども、本当は結人だって相当手がかかる。表面だけちゃんとしている分、一馬より結人の方が厄介だ。 「お腹減ってない?ちゃんと食べた?」 本当に世話がやける、と心の中で思った。 「俺にもたれなよ」 どこかもたれる先があるだけでも違うだろう、と、結人を引き寄せる。横にさせようかとも思ったけれど、咳き込んでしまう可能性を感じて、肩を貸すだけに留めた。 「なあ」 静寂の中、不意に結人が口を開いた。 「ごめん、な」 何に対して謝られているのかわからず、戸惑う。肩を貸している所為で結人の表情は見えない。 「ごめん、なさい…っ」 そう言ってまた声をあげて泣き出した。 「…ありがとう…っ」 謝罪と感謝の言葉だ。けれど、決してそれだけではない、何かが込められた言葉だった。 「結人?」 熱い身体。淋しそうな声。何かひどく、胸がざわめく。 「ゆう……っうわ、」 どん、と突き放される。力いっぱい、と言うには少し頼りない力で英士を押し返して、結人は英士に言った。 「ばいばいっ」 突然のことにうまく対処が出来なくて呆然と結人を見つめる。結人は一瞬、哀しそうに笑って、すぐに立ち上がり、駆けだした。
どれくらい走っただろう。結人を追いかけて走り続け、脇腹に痛みを感じるほどに走り続け、不意に結人は立ち止まった。 「結人…?」 結人はそう言ってちらりと背後の崖を見やった。 「ばいばいって言ったじゃん」 英士から視線を外して、結人は地面を蹴った。
ねえ。言ったはずだよ、約束したはずだよ、結人。 ねえ。それを勝手に破るつもり? ねえ。そんなの、絶対に許さないからね。
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第五十二話 赤い花 |
飛び降りた先は崖だ。断崖絶壁の、そこへ飛べば命なんて跡形もなくなるような、そんな崖だった。 空に浮かぶ。地や壁、どこにも触れない不安定な感覚。自分は今から、この世とさよならをするんだ。 ごめんなさい。ありがとう。ばいばい。 言い残したことはなかった。残るような悔いは、その分代わりにお釣りがきた。 だから結人は、もう充分だと思った。 一緒にいてくれた。 だからもう、何もいらない。
手に何かの感触があった。手首を擦る岩肌が痛い。 「なん、なんで…?」 ぱちぱちと瞬きをして結人が訊ねると、すう、と息を吸い込む気配がした。 「馬鹿結人!!」 必死に考えて出した結論を、馬鹿、の一言で終わらされる。 「お前一人、死なせると思う?俺が、お前が死ぬのを、黙ってみてると思うの?」 綺麗な綺麗な理想だった。けれど自分はもう一人で死ぬと決めていたし、今更彼らの前に平気な顔をして出てはいけない。 「…無理、だよ。なあ、だから、もう手を離して」 人一人の体重を支え続けるには条件の悪い場所だ。英士の負担にはなりたくない。死ぬのは自分だけでいい。 「離して。…離せよ!」 そう言って、必死そうに結人を支えていた英士の腕に力がこめられ、結人の身体が持ち上げられた。宙づりにされていた結人の身体を引き寄せるようにして、それから彼は地面を蹴る。 「馬鹿結人」 真っ逆様に落ちていく身体は、腕一本動かすのも大変なのに、それでも英士は結人を引き寄せて力いっぱい抱きしめた。 死んでしまう前に、言わなければいけない言葉があると思った。 「俺、…俺さあ、お前らと…お前と友達でよかった…っ」 お前と親友でいられて、本当によかった。
結人たちの身体が叩き付けられたのはごつごつとした岩場だった。 それは、死者に手向けられるには少し毒々しい色の花だった。
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第五十三話 もう、立てない。 |
唐突に、はたり、と何かが伝い落ちる感触がした。 次いで、じわり、と視界が滲んでいった。 理由もなく、涙がこぼれていった。
胸騒ぎは現実になった。 目的地も何もなかった。ただ闇雲に歩いて、歩いて、歩き続けた。 「……」
会えんかもしれん。
息を切らせて走り、しばらくの後、げほげほと咳き込んで立ち止まる。普段ならこの程度の運動量で咳き込んだりはしないのに。やはり身体は正直だ、とぼんやり思う。
直樹はどこや。どこにおんねん、あいつ。 なあ。
「大丈夫か?」 いきなりかけられた声に、反射的にシゲは身構える。 「しぶ、さわ…」 渋沢は穏やかな笑顔で話しかける。鉄壁のキャプテンスマイルはここでも健在だとでも言うように。 「なんでこないなとこおんねん」 顔を上げる。いつもと変わらない声音と笑顔がそこにはあった。シゲの中にあった猜疑心は、それで消えてしまった。 「見つかるとええな」 気付いた時には、もう遅かった。
死ぬのか。 …このまま、死ぬの?
「嫌や!!!」 持っていたカバンを投げつける。渋沢の持つ刀が揺れ、狙いはずれた。怯む渋沢から逃れようと背を向けた。武器はカバンの中、シゲに応戦は出来ない。 「う、…っああ!」 ざ、と音が身体に響く。切られたのだと直感的に理解した。
諦めたらそこで終わりやぞ。わかっとるんやろな?終わりなんやで、おーわーりー!
どこかでぼんやりと懐かしい声がする。 「………」 指先一つ、動かなかった。動こうとする意思さえ、その『入れ物』にはなかった。 会いたかった、死体でもいいと願ったのに。
刀を持つ、渋沢の手が止まった。ふう、と彼は息をつく。
立てないの。 …おこらないで。
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第五十四話 昔、昔。 |
いつか、遠い昔の記憶。それはもう、お伽噺のような昔の記憶。 こんな血生臭い場所ではなくて、もっと柔らかくて、もっとあたたかい場所で聞いた。 聞かせてくれた相手はもう、この世のどこを捜してもいないけれど。
設楽の死体を捜して歩き回り、鳴海は海岸へとたどり着いた。設楽が好きだと言っていた海岸に、ひょっとしたらいるのでは、と仄かな期待を抱いて。 脳裏に浮かぶのは自分が手にかけた少年。 「…っ」 悔しさが込み上げて、鳴海は唇を噛んだ。強く噛んで、唇が切れる。その痛みでようやく自我を保っていられるような状況だった。
一瞬。何かに突き動かされるように、鳴海は身体を左へと傾けた。 『斧』だ。 先ほど身体を動かして避けていなければ、確実に命はなかっただろう。命中率は、狙われた鳴海でさえ口笛を吹いてしまいそうなほど、しっかりと標的に向かって投げられていた。 『こいつ』が俺を殺そうとしていた? 気がつけばズボンのポケットに入れていた銃を引っ張り出して引き金を引いていた。 「嫌だ、嫌だ…っ!」 男の癖に情けねえ、おそらく、プログラムに巻き込まれる前の鳴海であったなら、そう言って笑ったはずだ。 「嫌だああああああっ!!!」 目を硬く瞑り、がし、がし、とそれ自体が壊れてしまいそうなほど必死に鳴海は引き金を引き続けた。
ああ、もうだめだ。死ぬんだ。もう死ぬんだ、俺。 ああだけど…、
「痛く、ない…?」 いつまで経っても襲ってこない痛みに、鳴海はおそるおそる目を開ける。 「え、うわ、おい、…っ藤代!!」 蹲るのは自分を襲おうとした人間だ。 「…よか、った…」 その響きは、本当に、心底安心したような声の響きで、鳴海は戸惑う。 「なんでって、顔…してんな…っ、はは…」 力無い笑みを浮かべる藤代は、なぜかひどく哀しい気持ちにさせる。 「暗く、てさ、…わかんなく、て。…あー…ほん、と、殺しちゃわ…なく、て…、よかっ…」 そっと伸ばされた手に思わず膝をつくと、辿々しい動作で抱きしめられた。 「…った…。す、きだ…ったよ、…言わ、なかっ…けど…っ」 いつもの笑顔だ。 「ごめん、な」 鳴海を抱きしめていた藤代の腕が、そう言ってすぐ、ぽと、と地面に落ちた。操る者を無くしたマリオネットのような唐突さで、静寂は訪れた。
どうしたらよかった? そうだ。 一瞬、たった一瞬のこと過ぎて、そこまで反応出来なかったけれど。 ひどく動揺していたんだ。
いつだったかももう記憶にはない。そんな遠い昔の記憶。 お前の悪いところは早とちりすることだよ。 そう言って彼は笑った。
お伽噺のような記憶と、突き付けられた想いを胸に抱えて。 さあ、おれはどうしたらいいのでしょう。
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第五十五話 ブラインド |
何も見えなかった。 ただ目の前の大切な人しか目に入らなかった。 それ以外のものなんて何も、見えなかったんだ。
シゲと別れた中西は、あちらこちらを様々に探し回っていた。そして、道とも言えない獣道にさしかかった時、ようやく彼は彼の大切な捜し人を見つけることが出来た。 「離れろ」 声の届く位置に近づいた時、中西は開口一番にそう言った。殺気立っているのが傍にも自身にもわかるほどに中西の発した声は低かった。 「近藤から離れろっつってんの。わかんねえの?」 びくり、と近藤は肩を揺らした。泣きそうな顔をしていた。 「馬鹿!あぶな…っ」 近藤は目を見開いた。次いで彼の身体はかたかたとまるで小動物か何かのように震え始める。なぜなら、その場に、その手元から、銃声が響いたからだった。 「大丈夫か近藤!」 発砲された弾が近藤には当たっていないことに安堵する。近藤が負っているのは足の傷だけで、これは今負ったものではない。そして傷も、命を脅かすには至らない程度のものだった。だから何も気に病むことはない。 「近藤。あいつ、武器持ってるか?」 言うが早いか、近藤の手を掴んで中西は走り出した。未だ蹲って動けないでいる『誰だか』を置き去りにして。 折り合いをつけなければいけないのだ。 …そんなことを俺が考えてたって知ったら、お前はらしくねえよって笑うのかな。
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