第五十六話 生きていられないほど。 |
醒めないでくれと願った。醒めない夢などないと知りながら、夢の中で何度も。 それが自分の作り出した都合のいい幻影だとわかっていて、それでも醒めずにいたかった。 だって、そこはとても居心地がよかったから。 自分で作り出したからこそ、自分に優しいものばかりで埋め尽くされていて、目覚めたあと見つめなければいけない現実を直視することが怖かった。 だって、だって、そこには彼がいた。 助けてと叫び、闇の中から現れた作り物の日常は、逆に三上に現実を突きつける。 けれど覚醒は訪れてしまう。それが当然だと言わんばかりに。
ゆっくりと、必要以上に緩慢な動作で目を開く。 静まり返った部屋。肌にかかる布の感触でベッドに寝かされていたのだと知る。 心だけが、子供のように泣き叫んでいた。 上半身だけをベッドから起こして膝を抱える。 手が勝手に動く。 体温であたたまっていた所為か生ぬるい感触がする。
そこでようやく意識が戻る。完全にとはいかず、ああ、やってしまったとぼんやりと手首を見つめるだけだったけれど。 意識が遠くなっていく感覚を、三上はぼんやりとした頭で感じていた。 命を賭して守ってくれた。やけになるなと言ってくれた。 さよならなんて、一生来ないと思ってた。
夢を、もう一度見させてほしい。 なぜ、ここにきた、と。 固く目を閉じて、三上は手に持ったままのナイフで傷口を何度となく傷つけた。
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第五十七話 生きろ。 |
扉を固く閉ざした。上着を脱がせて、ベッドに横たえて。 そして、少しだけ躊躇して額を撫でた時。 目の前の人は愛おしそうに、哀しそうに、自分ではない人の名前を口にした。 眠りは、優しい夢を届けてくれたのだろうか。それとも悲しみを再認識させただけなのだろうか。それは一馬にはわからないけれど。 泣きながら、もう世界中のどこを探してもいない人の名を呼んだ。 何度も、何度も。 だから、きっとその夢が優しくても、哀しくても、三上は辰巳に会えたのだ。 たとえ夢でも。
泣きながら眠る三上の側に居ることがどうしても出来なくて、そのすぐ隣の部屋へと半ば逃げるように移動した。 ここまで自分が情けないと思ったのは初めてだった。 なぜ、辰巳は死ななければならなかったのだ。 それが政府の言う正義か。勝手な大人の、勝手な理想の大人に、これでなれと言うのか。
扉を背に座り込んだまま数時間が過ぎる。 目を覚ましてほしいという気持ちと、ずっと夢の中にいてほしいという気持ちが一馬の中に同居する。
ぎし、と小さく、静寂の中にあってようやく聞こえるような音が、遠慮がちに三上のいる部屋から聞こえた。 この扉を開いて、三上が本当に目を覚ましていたとして、では自分はどんな顔で、何を三上に言ってやればいいのだろう。 けれどそれは、扉一枚隔てたその部屋の中で起こっていることを考えたら、あまりにも軽い悩みだった。
少しの時間を無駄に過ごし、それでもなんとかキィ、と音を立てて扉を開く。 「な……っ」 視界に入ってきたのは、薄い色をした布団にかかる、濃く暗い水滴。 「止めろ!」 叫んだ。 「いやだ、嫌、離せ…!」 三上は泣いていた。 どうして死なせてくれないのと。 それほどまでに辰巳の存在が三上の中で大きかったのだと思えば、抑えきれない憤りが一馬の脳裏に浮かぶ。 「止めろって、落ちつ、…っあきら!!」 何を言っても耳を貸してくれない。 早く、早くどうにかしなければ、三上が。 そう思った時だった。 「ぐ…っ!!」 手首への軌道を外させようとしていたナイフは、一馬の力にそのまま従った。 キーン、と、何か、耳鳴りのようなものがした。 三上も一馬も、一瞬呆然として、顔を見合わせる。 「かずまっ、一馬あ!」 ああ、壊れてしまう。このままでは。 片方の手をナイフから離し、強引に三上の手もナイフから外させる。 「あき、 傷口を片手で被い、なるべく三上の視界に入らないようにして、一馬はもう片方の手で三上の肩を掴んだ。 ただ怯える子供がそこにはいた。
「いいか、良く聞くんだ…っ」 「お前は、何も、してない。」
ひとことひとことを区切るように、小さな子供に言い聞かせるように。
「お前は、何も、してないんだ。」 「俺が…死ぬのは。……俺の、所為であって、絶対に、お前の、所為じゃ…ない。」 「でもっ
どうか、この言葉を鵜呑みにして。 どうか、生きて。
「お前は生きるんだ。絶対に!」 自分が作り出せる中で、最上の笑みを浮かべて三上を見る。 「お前に、看取ってもらえるだけ、あいつより幸せだよ…」 抱きしめる。 最初で最後の抱擁。 背中をぽんぽんとあやすように叩いてやると三上はひどく悲しそうに唇を噛んだ。
「生きるんだ、…あきら」
生きて。 壊れてしまわないで。 傷つかないで。
最後までそれを口にすることなく、一馬は息を引き取った。
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第五十八話 さよならが言えない。 |
会えない。ああ。もう、会えないんだ。 大好きな人の顔を、最後まで見ることが出来ない。 痛いとか、苦しいとか、そんな思いより先に、会えないということが頭の中全部を占めてしまった。 本当に痛いのは傷口ではない。 撃たれた傷口より、転げ落ちて出来た打撲傷より、尾形を置いて死んでいかなければならないという事実の方が痛かった。 それがとてつもなく嫌なのに。 だけど。撃った相手を憎むことも出来ない。 畏れていたのだ、彼も。 壊されることを、無くしてしまうことを。 もう。 だから早野に出来ることは、会えないという事実を悔やみ、悲しむことしか出来ない。 抱きしめてあげたかった。 生きているのだと。 思い返して浮かぶぬくもりに取り戻せない過去を見て涙が滲む。 死んでいく。 「ごめん、ね…」 会えなくて。 一度も愛してると言えなくて。 細かく震える腕をぎこちなく動かして制服の内ポケットの中を探る。 今はもう、どこにもない、平穏で退屈な日常の証。 死を目前にして何を思ったのだろうか。 伝えられなかった言葉を文章に。 生きていた証に、大好きだった証に、…最後に一通、メールを。 気付けば覚束ない動きで、それでも懸命に文章を打っている自分がいた。 政府の奴らは笑うだろう。
悔しかった。
あ、 い、 し、
て、
『いた』と過去形には出来なかった。
愛してる。 一緒にいられなくて、ごめんなさい。 一度だって愛してるなんて言ったことはなかった。 なのに今はその言葉がすんなりと出てくる。 今一番伝えたいのに一番伝えられない言葉はシンプルで飾りのないたった一言。 「…送れたら、よかったのに、ね」 早野が呟いた、その次の瞬間。
ビィィィィィィィッッッ!!!!
突然の大音量のノイズに、反射することも出来ない身体は宙に目線を向かわせることが精一杯だったけれど、身体が動きさえしていたら思わずびくりと身体をすくませてしまうほどの音だった。
伝えたかった言葉。
虚ろな目線をケイタイの画面に移してため息を吐く。 …と、電波の、アンテナ。 目を見開く。 一本しか立ってないアンテナ。 「とど、いた…」 早野の心中を知ってか知らずか何事もなく無事送信されたという表示が出て、それがいつもメールを送っていた時とまったく変わりなくて、呆然とする。
ぴりりりりっ♪ ぴりりりりっ♪
「っ!?」 島に鳴り響いた大音量の騒音が止んですぐだった。 「は、やの…?」 声が震えた。 息が止まったような気がした。 否、おそらく本当に呼吸をすることを忘れていたのだと思う。 ”ごめんなさい” 謝らないでくれたらよかった。 「なんで…っ」 なんで、こんなプログラムがあるの、という言葉は、嗚咽で掻き消された。
ねえ、尾形先輩。 だって認めたくなかったから。 認めてしまったら、もう、俺が生きた証はどこにもなくなってしまいそうで。
…やっぱり、さよならなんて言えないよ。
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第五十九話 今自分がすべきこと |
手首が痛い。心臓が痛い。 前が見えない。 どこへ行けばいいのかわからない。 どこへ進めばいいいのかわからない。 何をすればいいのだ。 大切なものはみんな、みんななくなってしまったのに。
時間が経つごとに冷たくなっていった身体。
生きろ、と彼は言った。 彼の望んだ、生きることとは、三上がどうあることなのだ。
一馬の望みを叶えてやりたいのに、その言葉の重みに押しつぶされそうだった。 先にしたような安易な逃げを、一馬が放った言葉が赦してくれない。 プログラムの中にあって、それはあまりにも重すぎる言葉だった。
呼吸をすることか。 …それとも、人を、殺すことか。 違う。
動かない一馬の身体を抱きしめる。
♪〜♪
民家を後にして少し経った頃、ひどく大きな音が島中を覆い尽くした。そして耳を劈くようなその音が止み、またしばらくすると今度は鳴るはずのないものが音を立てた。
「もしもし…」
背筋を、すぅっと何かが流れた。
「な、…んで…」
なくしてしまった、なくなってしまった、大切なもの、人。 ここに生きて、ここで苦しむ意味。 握りしめていないと自分がどこに立っているのかさえわからなくなってしまいそうなほど不安定な精神状況だった。
『渋沢くんはあなたを生き残らせる為に大勢の子を殺してまわってるわ。大切なあなたの為に、良かれと思ってね』 「…え…?」 『そうねえ…武蔵森の子で言うと…根岸くんや辰巳くんとかがそうね』
言葉を反芻してみる。言の葉。刃のような、それ。
アナタノタメニ、ヨカレトオモッテ。 ネギシクンヤ、タツミクントカガソウネ。
信じられない。信じたくない。けれど否定するだけの材料を三上は持っていない。
「…渋沢が、殺ったって、言うのかよ…?!」
西園寺はケイタイ越しにくすくすと笑いながら、ええ、とだけ言った。 渋沢が三上のために、人を殺して。三上の、大切な人たちを殺して。 要は、そう言うことだ。
『壊れちゃわないでね?折角色んな物を犠牲にして生きてる命なんだから。生き残って、勝ち残って、…ここにいらっしゃいな。待ってるから』
ぷつり、と音がして通話が途切れる。
「嘘だろ…」
小さく零れ落ちた言葉。 誰も死んで欲しくなんてないのに。 渋沢も罪を犯さずいて、辰巳も、根岸も、生きていたというのだろうか。
苦しい。 逃避することを赦されない三上に痛みだけを与える現実。 誰も正解を持ってない。 託された、生きろという言葉。
では一体、自分はどうすれば。
…ドォン!!
「…!」
銃声。
どこかで人が死にかけている。
見えない何かに引き寄せられるように三上は走り出した。 生きろと託された言葉がある限り逃げられないプログラムは、ならば立ち向かわなければならない。
手首が痛くても。心臓が痛くても。 走らなければいけない気がした。 …大切なものを、これ以上なくさないために。
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第六十話 一人じゃない |
生きたいか? 走り疲れて足がもつれてしまうほどに走って、走って、立ち止まった中西が口にした言葉はそれだけだった。
「…は?いきなり何言ってんの中西」 言葉が詰まった。何を言えばいいのかわからないとかそういうことではなく、言葉すべて奪い取られていった。 馬鹿だ。絶対。…馬鹿だよ。 必死に言葉を探して、どうにかそれを見つけて。 「…生きたい。でも、それは一人でじゃない」 声が震える。呼吸の乱れとは関係のない震え方だ。 言いたいことがあった。 今言わなければもうチャンスはないと思った。 「俺は、…俺は、お前のこと…好きだから、だから、その、なんだ…、…っお前が傷付くの見たくねえし、まして死ぬのなんか…」 見たくない。まっぴらだ。 そう続けることも出来ずに唇を噛み締める。 生きたい。 「……気、…抜けた…」 大きな溜め息と共に吐き出された言葉。 「は?」 思わず訊ねると、中西は盛大なため息を吐いて、頭をがしがしと掻いた。 「お前…そーゆうのもちっと前に言えよ…こんなとこじゃなくてさあ…」 戻りたい。戻りたい。 「…俺さ、ほんとは、…お前に『イラナイ』って言われたらどうしようって思った。俺はお前に逢いたくて、生きていて欲しくて、ここまで来たけど、もしお前はそうじゃなかったらって思った」 言葉を切って中西が近藤の頭を撫でる。 「泣かれると、キツイよ」 そう言った中西の目からも涙が零れていて、思わず笑った。 「中西だって泣いてんじゃん」 馬鹿だ。本当に。
がさ。 かさ、かさ。 非日常の足音が聞こえる。 「抵抗、する?」 見たくない、現実。 「でも多分これ、三上じゃないよな。歩き方からして違うし」 笑っているような状況でもないのに零れてくる笑み。
生きるなら、二人一緒に。 ひとりぼっちは、ごめんだ。
「…随分、脳天気なんだね、武蔵森って」 場違いに和やかな笑みを浮かべた名前も知らない誰だがかそこにいて。
大丈夫。
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