たとえばそれは、まだ寒い冬の日に、道端でちいさな花を見つけたように。
まだ日も昇らないある冬の日の朝。
朝が苦手な三上にしては珍しく目を醒まし、寮を抜け出して散歩をしていた。
今日は休日。学校がある訳でもない。練習も珍しく休みだ。
だから多分珍しいことをしてみたくなった。ただそれだけだ。特に目的もなくふらふらと歩く。
寒さは苦手だけれど冬の朝の空気は、凛としていてとても好きだったから。
その行為には、本当にかけらほどの意味なんてなかった。
冷たい風が吹きつける。
空に薄い靄がかかる。
普段の生活に大きな不満があるわけではないけれど、それでもたまに、寮や部活の騒がしさから離れて、一人になりたくなることがある。
そんな時にはちょうどいい。
冬の朝は、とても静かだから。
「あ、雪…」
呟くと同時に吐いた息は白くなった。
温度さえ感じられないほど細かな雪が空から降りてくる。
果てさえ見えない空の彼方から降りてくる雪を見上げる三上の耳にちいさな音が届いた。
なんとなく音のした方に目を向けると、三上と同じように空を見上げている人物がいる。
「雪、か…」
耳に心地いい、低くて静かな声だった。
ただただ柔らかく、優しい音。
そんな声に対する物珍しさからか、我知らずその声の主を見つめていた三上に、その人物も気が付いたのか三上を見る。
視線が合うと彼は穏和そうに微笑んだ。
「…あれ、武蔵森の、三上?」
「?……そうだけど」
「一度くらい会ってみたいと思ってたんだがこんなところで会えるとはな」
そう言ってその人物は三上のところへ近づいてくる。
「は、なんで?」
「俺もサッカーやってたから」
有名人にでも会えた気分、と微笑んだまま近寄ってくる彼に、三上は苦笑しながら、
「有名人なら藤代とか渋沢だろ」
と自嘲とも取れる言葉を返した。
あと数歩。
「…やってた?今は?」
「受験だから引退したんだ。これでもキャプテンやってたんだよ」
あと。
数センチ。
声が、あくまでも優しく三上の耳朶を刺激する。
尾形の言葉をぼんやりと聞いていた三上は、彼との距離の近さにその時になって初めて気がついた。
「…何?」
手が髪に延びて。
「雪まみれだな」
三上の髪についていた細かな雪。
それを少しずつ、髪を梳くように取っていく。それを言ったら自分だって雪まみれじゃないか、と心の中で思いながら、それでもなぜか、抵抗しようという気持ちにはならなかった。
それは、きっと。
冬の冷気に晒されて神経の色々な部分が鈍っているせいで。
元々寝起きでそんなに時間が経っていないせいで。
静かで優しい声が耳に入り込んでくるせいで。
髪に触れるその手が、声と同じように、あまりにもあたたかったせい。
そうやっていろいろなことに言い訳をして、三上は尾形のされるがままになった。
やがて気が済んだのか、彼の手は離れていって、それがなんだかとても惜しいことのように思えた。
だから、自然と、それは唐突だったかもしれないけれど、自然と、三上は口を開いていた。
「名前、何?」
「…それは覚えてくれるということか?」
「気が向いたら」
「尾形。尾形智だ」
尾形は自分の首にまいていたマフラーをとり、三上をそれで包む。
何かを納得したように頷き、尾形は三上に小さく笑顔を作った。
冷えきった躰に体温の残った布があたたかい。不覚にも心地いいと思ってしまって、それから柄じゃない、と首を振る。
「何これ」
「風邪ひいたら困るだろ?」
「………」
元々間近にあった尾形の顔をコートを掴んで引き寄せる。
少し屈むと口唇が微かに触れた。
そう、これは魔が差したのだ。
酒によって狼藉を働いてもある程度許されるように、これは尾形のせいで魔が差したのだから、仕方のないことだと勝手な理屈を立てる。
「み、三上っ!?」
「…マフラーのお礼?」
少しだけ動揺しているらしい尾形にいたずらが成功した時のこどものような笑顔で返して三上はまた歩き出した。
2、3歩行ったところで、思い出したように立ち止まり尾形の方へ振り返る。
「今度、マフラー返しに行くから。…尾形」
自分のとは違う匂いのするマフラー。
少しだけ触れた口唇。
耳に残った声が。
…あたたかい気持ちにさせる。
たとえばそう。
寒い寒い冬の日に、道端でちいさな花を見つけた時みたいに。
尾形さん好きすぎてうっかり書いた尾形三上(うっかりが多すぎです)。
きっと尾形さんはすごいいい声してんだよ!と当時笛友と盛り上がってた。
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