夕焼けに赤く染め上げられた旧校舎の音楽室で、何度この曲を弾いただろう。
どれほど想いを込めてこの古い鍵盤に指を滑らせただろう。
愛しい人のために、ただ愛しい人だけを想ってこの音を紡ぐ。
その数え切れないかけがえのない日々は、誰のものにもならない。自分と、彼のもの。
悲しいくらいちっぽけな優越感だと、自分でも思う。
そしてそれは誰に向けられているのだろう。
無条件に三上のそばにいることを許されている渋沢にか。
それとも何に構うこともなく三上くっついていく藤代にか。
どちらにしろ、果てしなく意味のない優越感に変わりはない。
愛しい人は、誰を想い誰を愛すのだろうか。
自分は、ただただ貴方だけを想う。
ほんの少しでいい。
渋沢や藤代のような存在になれなくとも。
ほんの少しでも前に進めたら、そうたとえば、せめてこの感情を口にして伝えられるくらいの勇気を持てたらきっと。
自分のことを、少しは好きになれる気がする。
思い出を共有するだけの仲では終わりたくない。
想うだけではけして満たされることのないこの感情は、旧校舎の廊下に響く足音にさえ狂おしいほどの愛しさをこみ上げさせる。
ゆっくりと近づいてくる愛しい人には悟られないように深呼吸をして、そっと出迎えの準備を。
古びたピアノが観客を待ち望むように音を奏で始める。
愛しい人を想うだけで、まるで違った音になることが、少しおかしくて、とても嬉しかった。
愛しい人の眼に、果たして自分はいったいどう映っているのだろうか。
彼は自分がどんなに彼のことを好きかなんて知らないように見える。
知っている素振りすらないのは、本当に知らないのか、それとも知っていて知らないふりをしているのか、それはわからない。
答えは彼しか知らない。
演奏者は、ただピアノを弾いて愛しい観客を待ち望むだけ。
自分にとって弾き慣れたフレーズは、彼にとってはもう聞き飽きたフレーズかもしれないけれど。
この曲の意味を知らないほど彼の知識は浅くないと思うから、愛しい人に最上級の愛を込めて俺はこの曲を繰り返し繰り返す。
ああ、相手を想った分だけ相手も自分を想ってくれたらどれほど幸せなのだろうか。
切なさと心に宿る熱情を、鍵盤を滑る指に込めながら、そんなことを思う。
貴方が扉を開けたら始めようか。
この想いを口にのせて。
自己満足だと言ってしまえばそれまでの恋。
けれど胸にある感情は、もう無視できないくらいに膨れ上がってきているから。
逸る気持ちが音にまで表れてなんだか可笑しくて、一人で、少しだけ笑った。
ガラッ
「よ、笠井」
「またサボリですか?三上先輩」
「俺はいいの。お前こそ実はサボリ常習犯だろ」
ああもうなんでこんなに。
たったこれだけの会話が愛しく思えるのだろうか。
あまりの愛しさに胸が張り裂けそうだと言ったらきっと彼は涙が出るくらいに大笑いするだろうけれど。
「…三上先輩、」
「ああ?」
「えっと、えっとですね、」
「何?」
たったひとことがこれほど重いとは思わなかった。
喉が渇いて言葉がうまく紡げない。
でも伝えなければいつか絶対後悔する。これは予想じゃなくて確信。
「…ねえ三上先輩」
「だからなんだよ」
「俺ね、…三上先輩のこと好きなんですよ」
誰より何より。
狂おしいほどの熱情を抱いていると知って。
旧校舎と古いピアノは笠井のデフォルト設定だと思うんですけど(あなただけです)。
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