木漏れ日の部屋

三上の家のとある一室に、古びて音の出なくなった木製のオルガンがある。
もうその昔、音を奏でていたかどうかさえ危ういような、本当に古いオルガンが。
そんな古びたオルガンが、三上は好きだった。
余分な音のない、その空間も。

       

部屋の扉を開くと埃が舞って小さく白い塵が見える。
使われなくなって随分と経つその部屋は今はもう物置としてしか使用されていない淋しい部屋だ。
たまにやってくるハウスキーピングの人間でさえその部屋に足を踏み入れることはない。
掃除如きの為に赤の他人をお気に入りの場所に踏み込ませるほど、三上の許容範囲は広くない。

そう、そこは、三上にとって聖域にも等しい場所だった。

誰にも荒らされてはならない、不可侵の場所。

僅かに埃の舞う雑然とした部屋は、けれども麗らかに陽の当たる奇妙な居心地の良さを持っていて、同室者のいる寮よりも、たまにしか帰らないただ広いだけの自室よりも、彼にとって大切な隠れ家だったのだ。
その聖域に足を踏み入れることが出来るのは本当にごく僅かな人間しかいない。
今ではもう、三上の他にはたった一人の人間しかその聖域に入ることは赦されていなかった。

ひらりひらりと風が音もなく入り込み、申し訳程度に備え付けられたカーテンを揺らす。
窓を開ければすぐ側に楓の木があって、そのお陰かどうか、この部屋にはきらきらとした木漏れ日が差し、味気ないフローリングの床を彩っていた。
人工では作り出せない、自然界特有のあたたかい光がそこにはある。
そんな柔らかなあたたかみも三上がこの部屋を好きな理由の一つだった。

オルガンの前に立ち、何とはなしに指を滑らせていく。
本当ならぽん、ぽん、と綺麗な音を奏でるはずの鍵盤はかた、かたん、と小さな音を返すだけだ。
そんな音色とも言えない、まるで出来損ないの音を、三上はだからこそ好んでいたのかも知れない。
完全なものを、三上は好まない。
けして完全とは言えない自分に、どうして完全を好めと言うのだ。
だからきっと、このオルガンが作られた当時そうであったような綺麗な音を奏でても、今のようには感慨を受けないのだと思う。

「な竹巳、弾いてコレ」

三上以外、たった一人立ち入ることを赦された少年を振り返り、いつもそうであるように強請る。
三上もオルガンやピアノを弾けない訳ではない。
寧ろ幼少時はあれやこれやと習い事をさせられていた所為で一通り弾くことは出来た。
けれど自分が奏でる音よりも、笠井が奏でる音の方が今も続けている分だけ綺麗で淀みない音だ。
たとえ、指を滑らせるその音源に音を奏でるだけの力がなくなっていてもそれは変わらない。
いいですよ、と一言だけ言って笠井は三上から演奏者の位置を譲り受けた。

かた、かたん、たん、

かたん、たん、たん、

柔らかくて優しい音だといつも思う。
木製だからこそのあたたかみのある音だ。
音を無くしたからこその、その優しい響きに三上は眼を細めて笑んだ。三上のそんな表情を引き出せるものは数少ない。
本当に特別なものにだけ引き出される表情だ。
そのまま笠井の指の動きを追うように目線を動かし、鍵盤を緩やかに弾くその指先に見入る。

綺麗な指だと思った。

それは確かに男の指ではあるし、男が言われて嬉しいことでもないということはわかっていたけれども。
音楽を手にしたことのある人間特有の、その骨張ったような長い指。
笠井のその指が三上は好きだった。
だからその分、かたかたと音を鳴らすオルガンはまるで喜んでいるかのように見えて、あまり好きになれない。
自分で弾けと頼んだ癖に、お気に入りのおもちゃを他の子に取られてしまった子供のような淋しさがじんわりと浮かぶ。
オルガンに嫉妬だなんてどこぞのロマンチストじゃ在るまいし、とそんな悪態が頭を過ぎったけれど、それも結局ふわりと吹き込んできた風に攫われて、どこかへと消えていってしまった。

いつもそうだ。

この部屋にいるとまるで魔法にかかったように負感情が連れ攫われていってしまって自分らしくいられない。
きらきらとした木漏れ日は、ただただ優しさを降り注いでいて、それも仕方のないことかもしれない。
連れて行かれた悪態が本当に自分らしいのかどうかも、この場所ではわからなくなる。

壁に預けていた背を起こし、数歩進み、自分より幾分か小さな背中にしがみつく。
首に手を回すと笠井は鍵盤を弾く手指を止めて溜め息を吐き出した。

「重たいです、三上先輩」
「じゃあもっと痩せればやってもいいって?」
「これ以上痩せられたら痛いです、骨が当たって」
「お前わっがままー」
「三上先輩よりマシです」

なりふり構わず追いかけられる程の強さを三上は持っていなかったけれど、それでもやっぱり自分以外のものに、自分を差し置いて笠井の興味がいっているのは気に食わない。
ほんの少しの苛立ちをぶつけるように、しがみついた首筋にそっと歯を立てると一瞬だけ間をおいてから笠井は三上の方へ振り返った。

「いたずらが過ぎるんじゃないんですか?」
「…弾いて」
「はい?」
「だから弾けっつってんの」
「オルガンなら弾いてるじゃないですか」
「そっちじゃなくて俺」

わかっていてとぼけているのか、それとも本当にわかっていないのか。
きょとんとした顔で見返してくる笠井に、三上はささやかで意地の悪い誘い文句で返す。
柔らかくてあたたかい木漏れ日の下、なんて俗物的なことを言ってるのだろうと自分で思うけれど。
鍵盤の上を這い回る笠井の、その長い指に動物的な欲求を呼び起こされたのはどうしようもない事実で。
声が不自然に掠れてしまったのにいたっては、本当にどうしようもないと思う。
吐息のように漏れる甘ったるい声が、さらさらとした音のない聖域にはあまりにも不似合いで、今更ながら恥ずかしさが込み上げてくる。
もう、いっそ笑いが込み上げてきてしまう程に。

「…いいですよ」

そう言って笑った笠井の、まるで獲物を弄ぶ時の猫のような瞳に三上は射抜かれたように立ち尽くした。
自分が誘った癖に、蛇に睨まれた蛙のような、蜘蛛の巣にかかってしまった蝶々のようなそんな気分で。
立ち尽くす三上の隙をついて笠井は三上を自分の方へと引き寄せる。
噛み付くようなキスで行為の始まりを暗に示した。

引き寄せられ、危うくバランスを崩しそうになって、それでもどうにか踏みとどまって笠井の服にしがみつく。
獣のようなキスも、その乱暴さも、きらきらと差し込む木漏れ日の下だということを考えれば、酷く不似合いだったけれど。
それでも、自分たちにとってはそれが一番合っているような気がした。

          

「ちょ、竹巳…っ」
「三上先輩、ちょっとは大人しくしててください」

無数に散らばる並びの良い歯形と小さな鬱血。
三上が逃れようと身を捩ればその分だけ与えられる痛みは増えていった。
そのくせ時折思いだしたように笠井は背中を撫でる。まるで母親が泣きじゃくる子供をあやすように優しげに。

あたたかい日差しの中で熱の上がる行為をしている所為か、酷く頭がぼうっとする。
高熱に浮かされている時のようだと思って、次いでその熱が覆い被さっている笠井の所為だと気づく。
くらくらする、と文句を言えば、笠井はきっと、すこぶる三上の癇に障るような意地の悪い、心底うれしそうな顔で笑うのだろう。
ただの想像にもかかわらず、なんだか悔しくて目の前にあった笠井の首筋を咬むと、同じように咬み返されてしまった。

「…痛い」
「痛いの、嫌いじゃないでしょう?」
「うるさ…っ」

酷いくらい性急な動きで言葉を封じ込められる。
揺さぶられる動きに耐えきれずにしがみつくと押し殺すように笠井は笑った。
余裕のない自分は好きじゃなかったけれど、それでも余裕を奪っているのが笠井なら、三上は別に構わないと思う。
それは三上を抱く時の笠井に、言うほど余裕はないのだと知っているからだ。
その余裕のなさが三上は好きだったのかも知れない。

押し付けがましい甘ったれた愛情なんか欲しくもなかったけれど、生温い恋愛ごっこで男に身体を開いてやる程酔狂であるつもりもなかった。

音のない空間に荒い息づかいがこだまする。
繋がっている部分からは揺さぶられるたび肉の擦る音と水音が聞こえた。
時折室内に籠もった熱を逃がすように風が吹いていっても余裕は戻ってこない。
それは三上も笠井も同じこと。
ただ本能の赴くまま、行為に没頭していくだけだ。

       

ぱちり。
目が覚める。
追いかけるだけ追いかけて、掴んで、どうやら気を失っていたらしい。
記憶は曖昧だったけれど、覆い被さったままの笠井と後ろの方の異物感に瞬時に現実に引き戻された。

「何見てんだよ…起こせばいいだろ」
「寝顔観賞は男の浪漫ですから」

だから嫌です。と悪びれもせずに言う笠井に、はあ、と溜め息が零れる。
とりあえず抜け、と言えばそれも嫌です。と返された。
それに対しても同じように溜め息を吐いて。三上は笠井から目線を逸らした。

「なあ、」
「何ですか?」
「…何でもない」

飲み込む言葉。
それは言ってはいけないとかそんな余裕のあるものではなくて。
言ってしまって壊れてしまうことが怖いから絶対に口に出来ないだけの言葉。
飲み込んだ言葉は酷く熱く狂おしい痛みで胸を締め付けるけれど。

「三上先輩」
「何」
「心配しなくても俺は先輩のこと愛してますからね」
「…は?」
「伊達や酔狂で男抱くほど不自由してるつもりないですから」

涼しい顔をして言い放った、笠井のその言葉に目を瞠る。
俺これでももてるんですよ、と茶化すような言葉にも満足な反応が出てこない。
飲み込んだ言葉にまるで気付いていたかのような笠井の科白に、しばらくの時間をかけて、三上は笑みを零した。

「な竹巳。抜く気ないならさ、も一回しよーぜ」
「足腰立たなくなっても知りませんよ」
「上等。やってみろよ」

          

木漏れ日の差し込む部屋は聖域。誰にも侵されることのない、箱庭。
それはきっと、いつか壊れてしまう、束の間の楽園。

          


音の出ない古いオルガンがとある飲食店にあったのです。
佐倉が物心ついた頃からあって、とても気に入ってたんですけど、いつの間にかなくなってしまいました。
だからせめて記憶の中には残しておきたくて書いたもの。鍵盤と言えば笠井だ!(そんな勝手な)

               

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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