愛じゃない。
 空は曇り。風は皆無に等しかった。
誰もいないグラウンドには片付けられ損ねたサッカーボールと三上だけがそこにあった。
それ以外、何もない。穏やかで空虚な、そして開放的で閉塞的な、そんな空間があっただけだ。
 空の青が赤に染まり、やがて瑠璃へと色を変えてしまうまでにはまだ少し時間があることを左手首につけた腕時計の秒針で知る。
一歩足を踏み出すと柔らかな土特有のさく、という感触が布越しに伝わった。
転がっているボールを無造作に足下へ呼び寄せ、まるで子猫がじゃれるようにボールを操作する。
 三上の持つ、刹那主義な部分を引っぱり出してくるのなら、恐らく。
「今」はとても楽しい。
数秒先はわからないけれど。ボールを追い、時を過ごすことは楽しかった。

 ころころと、ボールが三上の足から逃げ出してグラウンドの隅へ転がっていく。
ボールを追い、数歩踏み出すとまるで阻むかのように風が吹いた。
先程までが無風に近かっただけに吹き付けた突風は酷く強く感じられて三上は思わず腕で顔を覆い眼を細める。
吹き付けられる風。細められた視界の、風の向こう。ころころと転がっていくボールの先。

 瞬間、息が止まったような気がした。

 風が止み、砂と風を避けていた腕を下ろす。
先よりも小さく踏み出した足が、震えていることには気づかないふりをした。
波打つ心臓の鼓動も。じわりと溢れ出す冷や汗も。小刻みに震えを訴える指先さえも。
気付かないふりで三上はいつもの人を小馬鹿にしたような表情を取り繕い、その顔に張り付けて笑った。

「何しに来たわけ?お前」

 本能的な恐怖。居場所を取られてしまいそうな。自分を否定されてしまいそうな。けれどそれだけじゃない、恐怖。…張り付けた笑みが引きつっていた。
 三上の目の前、数十センチのところで水野は足を止める。
何か思案に暮れて、途方もない感情を持て余しているように顰められた眉。それが妙にに三上の神経を引っ掻いて、掴みかかりたい衝動に駆られる。
それでも必死に思い止まり手に力を入れるだけに止めた。
 風音一つない、しんとしたグラウンド。相対する水野はそれと同じように何も言わない。三上も、何も言わなかった。

 薄く空が茜に染まりだして呑気な鴉がかあかあと空を飛び回る。
風も吹かない。止まっているかのようにただひたすらに時が流れる。

「……みかみ、」

 先に沈黙を、破ったのは水野だった。けれどもその後に続く言葉を言うべきか否かに惑い視線を落としてしまう。つられるように三上も視線を落とし、その先に転がったままのボールを見つけた。

「…ボール…」

 とって欲しいんだけど、と言いかけて止まる。
顔を上げた瞬間視界に飛び込んできた水野の、どこか切羽詰まったような眼差しを無防備に受け止めてしまい息が止まった。
訴えかけるようにじっと視線を送ってくるのにその口は三上の名前を呼ぶだけで。三上にはどうしたらいいのわからない。

「水野?おい…」

 目の前が暗くなった。夜が来たのとは違う、まだ空は夕焼け色を湛えていた。
至近距離、動けなくなっている自分に気付く。

「……みず、」

 かさついた、何か。口唇を掠めた何かを認識する間すら与えられず三上は水野に強い力でもって引き寄せられた。
何事かと言う気持ちと、先に感じていたものとは明らかに違う本能的な恐怖。…引きつった笑みの、理由はこれだったかも知れない。

 触れる、なぞる、体温が、重なる。

 内側から広がる言い様のない感情を持て余し三上は渾身の力で水野を突き飛ばした。
ふるふると震える手の先は恐怖なのか、哀しみなのか。やり場のない何かを無理矢理押し付けるように三上は右手を握りしめる。
蹌踉めいて、それでも必死そうな眼差しを三上へと向けたまま水野は口を開いた。

「気が付いたら、もう駄目だと思った。どうしようもないところまで、来ていたんだ」
「何を…」
「…俺は、アンタなんかに逢いたくなかった」

 水野の手が三上の手へと伸びる。咄嗟に避けようとすると顔に似合わない強い力で掴まってしまった。
ぎり、と音がしそうなほど強く握りしめられた腕。軋んだような音がしたのはそこからなのだろうか。

「三上…っ?」

 ぽたり、ぽたり。三上の頬を伝う水の粒。驚いたように眼を瞠った水野に対し、三上は痛いほどの視線を向けた。
哀しみややり場のわからない憤り。不本意に流れた水滴も。すべてを憎むように、嘆くように。

「嫌い。…お前なん、か、…大嫌いだ…っ」
「三上、」
「何しにきたんだよ、帰れよもう!充分だろ、人の、こと…馬鹿にして、…気ィすんだだろ!!」

 触れた口唇に感じたのは嫌悪じゃなかった。隠してきた都合の悪い感情が、ちら、と顔を覗かせただけだった。
それでも『逢いたくなかった』と言う言葉は、ほんの少し顔を覗かせただけの本心が酷く傷つき生々しい傷口をさらけ出す。
叫んだ三上は、平常心なんて都合のいいものを持っていなかった。

「違う、三上、違うんだ」
「煩い、煩いっ!離せ、馬鹿水、」
「話を、…最後まで聞いてくれよ…っ」

 抱き寄せられて囁かれる。抵抗は無駄と先で理解して、三上は仕方なしに口唇を噛みしめながら水野の言う『続き』を待つ。
密着しているせいで伝わる鼓動をこれ程煩わしいと思ったこともない。用があるならさっさと言ってさっさと解放して欲しかった。

「…ごめん、…嫌われてるの、知ってる。逢いたくなかったの、知ってる」
「じゃあ…!」
「逢いたくなかったけど、出逢えて、よかった。俺は、そう思ったよ」
「……水野、」
「嫌われてても、憎まれてるって知ってても、…俺は、アンタに逢えてよかったよ。本当は逢いたくなかったのかも知れないけど」

 そう言った水野の頬に何か生温いものが伝っていた。一滴、伝う水の感触に三上は戸惑う。
そして、その感触以上に言われた言葉に戸惑っていた。

「…こんな感情、名前なんか知らない。知りたいとも思わない。ただ、痛いくらい、締め付けられる」

 悲痛な、叫び。震えた、声。
同じように締め付けられた胸は何を意味するのか。ナイフで心臓を一突きにされたような痛みを、水野ではないが知りたいとは思わなかった。
三上の、その巧妙に隠して見破られまいといい気になっていた弱い部分が目の前の存在を求めた。
 必死に涙を拭う。無駄だとわかっていても。
言葉を発しようと口唇を開いて、噛みしめる。代わりにすぐ側にあった服の布にしがみついた。

「…ふ、ぅ…っ」

 噛み付くようなキス。傷つけて、傷つけられるような。
頭の隅で警報が鳴り響く。けれどその音とは対照的にそう言うことに抵抗はなかった。
痛みを求めた。痕に残るような痛みを。滑稽で、酷く生暖かい、甘さのない、痛みを。
それ以外何もいらなかった。貪るようなキスを終えた後でさえ、痛みを求めていた。
罵倒の言葉はどちらの口からも漏れなかった。そこに優しさもなかったけれど。
小さな小さな謝罪の言葉だけ、水野の口から零れ落ちた。

 謝らないで。痛い。痛いから。不可思議な思いは不可思議なまま痛みと共にあればいい。
 心の中三上が願った言葉は伝わっただろうか。
嫌悪や憎悪で始まった関係に痛みのない行為は必要ない。
小さな声で、たった一言呟いた水野の言葉にだけ反応して三上は初めて水野を睨んだ。

「謝罪なんか、欲しくない」

 真っ直ぐに見つめた水野の顔は余裕がなかった。恐らく三上自身も余裕なんて欠片もなかっただろうけれど。
 無風のグラウンドに風が吹いて、双方の髪をなびかせる。
少しだけ遮られた先の顔は、酷く頼りなくて、零れ落ちる涙の速度が早まったように思えた。

 言葉なんて、何もいらなかった。言葉なんてもので縛られたくもなかった。そんな、くだらないもので。
 じゃあ何が必要で、何を願っていたのかと聞かれれば、何も与えられないことを願っていたのかも知れない。
 ただ痛みを伴って。ただ、最後には痛みだけ残してくれればと。

 何故なら、そこにあった不可思議な感情は、いつしかすうっと通り抜けていってしまうような、ほんの一瞬の風のようなものでしかなかったから。
 茜から薄紫へと姿を変えた空のように、駆け抜けていってしまう儚いもの。
 痛みさえ残れば、なかったことにだけはならないと浅はかな願いを思っていたのかも知れない。

「出逢わなければ、よかった」

「でも出逢えて、よかったよ」

 不可思議な感情が空の色に紛れて過ぎて行くまで。
 痛みと共に傷を作ってくれればいいと思った。

               


甘くない水三。
水三本を発行するとのことで参加させてもらおうと書いたのですが、結局発行はされませんでした。残念。
でもこれは気に入ってたので、手直しほとんどしてません。

               

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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