陰陽寮では、先日入寮したばかりの陰陽生の噂で持ちきりだった。
どこへ行ってもその噂が聞こえ、昌浩と物の怪は自分たちの耳に何かが出来るのではないかと本気で思ってしまう。
噂の陰陽生はと言って、帝の縁者で中務頭・源折時の養子であるという。
彼は若い頃中務省に勤めながらも晴明に陰陽術の教えを乞うた、”変わり者”として有名だった。
彼には五人の子がいるが、全員娘。
そのため自分の長年の夢である陰陽師を継がせる者がいなかった。が、幸運にも息子を引き取った彼は、陰陽寮に入れさせたのである。
その者の歳は昌浩と同じ。遅くの元服だ。出世は高く望めない。いや、望む気もないのだろう。
何せ、その加冠役に安倍晴明を選んだのだから。
どうやら、源折時という人物は殿上人であって殿上人らしからぬ性格の持ち主らしい。
「そういえば、少し前にじい様がどこかへ出かけていったっけ。あれ、加冠役のだったんだ」
納得したように呟くと、昌浩は書物を持って部屋を出た。
「もっくん、ちゃんと前見といてよ?誰か来たら大変なんだから」
「おう、任せとけって」
足元でそう応答しながら、物の怪はとことこと前を歩く。昌浩は自分の視線よりも高く書物を積み上げている。
塗籠の一斉掃除ということで荷物が多いのだ。一度に運ぼうとせず、何度かに分ければいいものを・・・と思うのだが、
今そんなことを口にすればきっと昌浩は書物の山を崩してしまい自分に降りかかってしまうだろう。
被害だけは被りたくない。
「わ、わ・・・!」
ぐらぐらと書物が揺れる。何とか、崩れるのは避けられた。
「おいおい、しっかりしろよ。晴明の孫」
「孫言うな。物の怪のもっくん」
「もっくん言うな」
軽くいつもの言葉を返したとき、物の怪は目を瞬かせた。
「ん?」
そのとき、昌浩の視界が開けた。同時に書物が半減して大分腕が軽くなる。
「一人じゃ無理だろ、その量は」
呆れたような声色が聞こえ、昌浩もまた目を瞬かせた。聞き覚えのない声である。
ふと隣に視線をやると、同じ背丈くらいの少年が渋い表情で書物を抱えていた。先ほどの声の主であるらしい。
が、昌浩も物の怪も、彼に全くと言っていいほど見覚えがなかった。幾人か顔を知らぬ者はいるから、そのうちの一人なのだろう。
「すみません。でも、大丈夫です。俺こう見えても力あるし」
「・・・そうは思えなかったんだけど」
少年は軽くため息を吐くと、書物を持ったまま歩き出した。
「どこまで持っていくんだ?手伝うぞ」
「えっ!?いや、大丈夫です!手を煩わせるには・・・」
すたすたと前を歩く彼を、昌浩は慌てて引き止めた。手伝ってもらえるならとても嬉しい。が、同じ職場でも見知らぬ、それもおそらくは
自分よりも身分が上であろう人間に手伝ってもらうわけにはいかない・・・。
「何だよ、昌浩。いいじゃんか、手伝ってもらえよ。折角の好意は無碍にするな」
足元で物の怪が呑気に言う。昌浩はそれを軽く足で突く。おいおい、という非難の声は無視した。
「いいんだ。ちょうど仕事も終わって暇を持て余していたところだったからな。それに、この前入ったばかりでまだ寮内を把握できていないから、
色々見に行こうかと思ってな」
「えっ?」
思わず昌浩は目を丸くした。最近入寮したのは、例の陰陽生だけだ。ということは・・・。
「じゃあ、あなたが噂の陰陽生?」
「あぁ。だ、よろしく」
あっさりと肯定したとき、前方から早く歩く足音が聞こえてきた。
「殿、何をしておられるのだ?それに、昌浩殿も」
敏次だった。に視線を向けた後、少々鋭いそれを昌浩に向けた。
「安倍の博士に書類を届けまして部屋に戻る途中、この方が非常にお困りしている様子だったので、お手伝いをしようかと思いまして」
視線を遮るように昌浩の前には立つ。はぁ、とため息を吐かれる。
「殿、何も手伝うことはないのですよ。これは直丁の仕事、あなたには他にやらねばならないことがあるのでは?」
「本日私に与えられたことは、全て安倍の博士の元へ行く前に終わらせてしまいました。何もやることがないので、このままでは
敏次殿たちにご迷惑をおかけしてしまいます。どうぞ、この方のお手伝いをさせていただくことをお許しくださいませ」
「だが・・・」
「この陰陽寮は義父上の念願でございます。そして申すには、陰陽生であっても雑務に従事し、常に初心を忘れるな、と。
ですから、敏次殿が私めの我侭をお聞きなされたならば、義父上はとてもお喜びになられます」
「・・・・・」
敏次は返す言葉が無いらしく、黙り込んでしまった。
「すげー・・・」
二人の間に立ってそのやり取りを見ていた物の怪は、感嘆の声を上げた。あの敏次を口で負かす人間がいるとは。
この陰陽生、他の陰陽生とどうも毛並みが違うようだ。
「・・・それでは、致し方あるまい。昌浩殿」
「は、はい!」
我に返った昌浩は、びくりと体を竦ませた。
「殿のご厚意をありがたく頂戴いたせ。だが、これからは殿のお手を煩わせぬよう気をつけたまえよ」
「はぁ・・・」
曖昧に返事を返したが、敏次は気に留めなかったようだ。は頭を下げた。
「では、これで私たちは失礼致します。行きましょう、昌浩殿」
「あ、はい・・・」
昌浩は、先行くの後を追った。
「・・・・全く、何が『殿のお手を煩わせぬよう気をつけたまえよ』だ。俺が好きでやってるんだから、放っておいてくれよな」
目的の書簡庫に到着して中に入るなり、は盛大なため息と共に先ほどの敏次に対する不満を吐き出した。抱えていた書物を床に置いて、
かりかりと頭を掻く。
「でも、本当にありがとうございました。おかげで助かりました」
深く頭を下げると、は首を横に振った。
「いいっていいって。困ってる奴を助けるのは当たり前だしな」
にっとは笑う。昌浩もつられて微笑んだ。思えば、他人から親切にさせるのは久しぶりだ。
「しっかし、すごい量の書物だな。一体どれくらいあるんだ?」
ぐるりと周囲を見回して、は感嘆の声を上げた。どうやら、これほどの量の書物を見るのは初めてのようだ。
「さぁ・・・でも、軽く千以上はあると聞いていますが」
「千!?はぁ〜・・・よくここまで集まったもんだ」
呆れを含んだ声色だったが、その表情は嬉しそうだ。本を読むのが好きなのだろうか。
「後は俺がやりますから、殿は休んでいてください」
「いや、俺もやるって」
「大丈夫です。後は書物を入れていくだけなので」
「そうか?じゃあ、お言葉に甘えて」
どかりと床に座ると、は息を吐いた。そして先ほどの書物の山から一冊取るとぱらぱらと捲り始めた。
物の怪は、彼の隣にちょこんと座り、じっとその様子を見つめた。
昌浩の手伝いをしてくれただけでなく、あの敏次を黙らせるとは・・・全く、視えていないのが残念で仕方がない。物の怪は深くため息を吐いた。
「・・・・あぁ、そういえば。一つ聞きたかったんだが」
「はい、何でしょう?」
どのくらいの時間が経ったのか。ふいに、何かを思い出したかのように言うとは書物から顔を上げた。
昌浩は振り向かず、書物を棚に置いている。
つい、とは指を差し出した。
「俺の隣にいる白い生き物、十二神将の騰蛇だろ?何でこんな姿をしてるんだ?」
「−−−−−へっ?」
ばさり、と手にしていた書物が床に散らばる。昌浩は硬直した体を何とか振り向かせた。
の指は、寸分の狂いもなく物の怪を差している。
物の怪も目を丸くして、自分を指差す少年を見上げた。
「え・・・殿、もっくんが視えるんですか?」
「もっくん言うな」
いつもの言葉を無視し、昌浩はの返事を待った。
「あぁ・・・ていうか、お前の後ろにいる長髪も、十二神将だろ?」
「・・・・!」
今度こそ、昌浩と物の怪は言葉を失った。
昌浩の後ろにいるのは、完全に穏形した六合だ。彼もまた、表情には表れていないものの驚いているらしく、何とも言えない視線でを見つめた。
は三人の様子を見て、目を瞬かせた。
「・・・もしかしなくても、俺、変なこと言ったか・・・?」
まさかここまで驚かれるとは、考えていなかったんだが・・・。
は頬を掻きながら、自分の発言に後悔を募らせた。